情報爆発時代を生きるためのヒントなら、こう言うね。

「働く」を考えるベストセラー  第30回

2020/06/03
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著者:長瀬海
 

その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。

山本貴光、吉川浩満
出版社:筑摩書房
出版年月日:2020年3月12日

突然こんなことを書くのも、なんなのですが、私はYouTuberを見ると複雑な気持ちになります。さもしい性根の持ち主なので、私がいつも財布の中身を気にしてケチケチしなくちゃいけない一方で、なんで彼らはあんな贅沢な暮らしが許されているんだ、世のなか不公平だ、とか思っちゃうわけです。妬み、嫉み、羨望と言った感情がぐちゃぐちゃ入り混じっちゃうんですね。あくせく働いても、彼らのような生活が手に入らないじぶん自身を惨めに感じたりもします。そうして、仕事を放り投げて、布団に潜り込み、HIKAKINさんの動画に見入っちゃったりするわけです。

ええ、わかってます。こんなあさましさが何の役にも立たないことぐらい。じゃあ、一体どうしたら良いのでしょう。こんなとき、誰に訊いたら良いのでしょう。吉川浩満・山本貴満著『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。古代ローマの大賢人の教え』(筑摩書房)は、そんな悩みを持った私のような人間に最良の一冊です。

本書は吉川氏と山本氏の対話で成り立っている本です。二人の言葉のやりとりが、絶妙に軽快で、絶妙に鋭い。古代ギリシャの哲学について語りながらも、いつの間にか情報社会をいかに生き抜くかというアクチュアルな問題に迫っていき、両者を巧みに接続させていく。ドライヴ感と、小難しい哲学ジャーゴン(専門用語)を一切排した平易な語り口によって、読者の心を掴んで、ひとりの哲学者のもとへと連れていってくれます。エピクテトスという賢人と邂逅させくれるのです。

なぜ、古代ギリシャの哲学に助けを求めるのでしょうか。それは、古代ギリシャの哲学が、心の平安――それをアタラクシアと呼びます――の境地に至るためにはどうすべきか、徹底的に考え抜いたからです。本書で取り上げる、エピクテトスが継承したストア派の哲学は、理性の対極にある情念や激情に縛られずに、いかに穏やかな心を手に入れるかを説きました。人間のことわりと言葉について考えた論理学、ものごとの成り立ちを解明しようと試みた自然学、そして情動とどうやったらうまく付き合っていくかを思弁した倫理学。ストア派の哲学はこの三つが、密接に絡み合って、一つの哲学的体系を作り上げていきました。この三つの「学」の連関を本書は実にわかりやすく噛み砕いて説明しているのですが、理性的な生きものである人間が情念から離れて生きるためのコンパスをストア派は提示してくれているのです。そのため、彼らが説いた哲学は、情報に振り回されてばかりの私たちに、有効に働くのだ、というわけです。

奴隷の身分から、やがて、哲学の教師になり、ストア派の考えを踏襲したエピクテトスは、歴史上稀に見る暴君だった皇帝ネロの恐怖政治のもとで、世の中の不条理をまざまざと体験します。あらゆる理不尽さがまかり通る世界で生きたエピクテトスの哲学のなかから、本書が鮮やかに取り出すのは、権内と権外という概念です。簡単にいうと、じぶんの思い通りになること(権内)と、じぶんの力ではどうにもならないこと(権外)、この二つを見極めるための思弁法です。おのれにコントロール不可能なことに、いくら頭を悩ませていても仕方ない。そうではなく、権内、すなわち、みずからの手でどうにかできることについてだけ頭を使う必要がある。権外のことにとらわれ、じぶんの能力について見失ってしまうと、それは、生きていく上での足かせにしかならない、というわけです。この権内と権外という概念は、非常に実用的です。

例えば、新卒で入社した会社で、同期がぐいぐいと業績を伸ばしていく。人事部にも気に入られ、部内でも出世頭だと騒がれていく。そんな様子を傍目で見ていると焦ってしまう。焦りに駆られ、休日も心が休まらない。心身ともに疲れてしまい、仕事でもミスが多くなる。あーあ、なんか仕事、嫌になってきちゃったなぁ。こう、考えているとき、まさしく彼は権内と権外の見極めができていないわけです。同期の成績は、権外のことですね。権外のことにとらわれ過ぎた結果、彼はじぶんが新卒社員として何ができるか、何をなすべきなのかがわからなくなってしまった。じぶんの基準でものごとを考えられなくなってしまった。これは、ただ、疲れるだけです。権内と権外を見極められなくなった人間の典型的な例ですね。

では、この陥穽にハマってしまった彼は、どうすれば良いか。本書は、エピクテトスの心象と理性という二つのキーワードを使って、そのことを教えてくれます。理性とは何か。本書では、理性的能力こそが、他の人間が身につけているいろんな能力のうち、唯一、それ自身について考えることができる、といいます。理性的能力とは、「人間が行うあらゆることについて判断する能力」であり、「理性という能力があるからこそ、われわれにはものごとを適切に判断できる可能性がある」のです。その能力が損なわれると、心像、つまり、じぶんの心のうちに浮かんでくるあらゆるイメージに、引っかき回されてしまう。本書は、エピクテトスの言葉を借りて、理性を働かせ、心像と戦うことを説くのですが、それは、じぶんの意志の範囲外から心のうちに浮かんでくるイメージを徹底的に棄て去れ、ということを意味しています。

なるほど。こうして考えると、冒頭に書いた私のちっぽけな、でも、割と切実な悩みを解決し、先の新卒社員くんを落ちてしまった穴から救い上げてあげる術が見えてきます。私も彼も、権外のことばかりを気にして、じぶんの可能性の範囲に何があるかが判然としなくなってしまったわけです。理性を駆使して意志外から生じる悪しき心像を排除する、権内と権外の見極めを都度行っていく。その彼方に、じぶんにとってだけの幸福、生きやすさがあるわけです。

本書のなかで吉川氏、山本氏が言うように、人類史上かつてないほどに情報が錯乱している現代において、権内と権外を峻別することはとても重要です。フェイクニュースが跋扈し、何が真実なのかわからない時代のなかで、いかに自己を保つか。エピクテトスを今一度、私たちの前に蘇らせ、その哲学をリバイバルさせた本書は、いまを生きるための、自己啓発の書なわけです。


photo by Tanja-Milfoil

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