「みんな」から遠く離れて、自分だけのモノサシを持つ――尹雄大著『モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く』(ミシマ社)

「働く」を考えるベストセラー  第29回

2020/05/20
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著者:長瀬海
 

モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く

尹 雄大
出版社:ミシマ社
出版年月日:2020年1月

就職活動のときのことです。緊張した面持ちでグループ面接に臨んだ私は、次のような光景を目にしました。面接官から「あなたの強みはなんですか?」という質問に対して、私の右隣にいた就活生たちが、声を揃えたかのように「私の個性は協調性です」と言っていたのです。彼らは、サークルや、アルバイトの経験を踏まえながら、自身がいかにして、その集団のなかで秩序を乱さず、むしろ統率することに貢献したのかを語っていました。かくいう私も、「あなたを漢字一文字で表すとしたらなんですか?」と問われ、思わず、「和」であると答え、日本の文化的特色である「和」、つまり、周囲と調和することにどれほど長けた人間であるかを説いたのでしたが。

個性は協調性。これほどパラドキシカルな言い回しはないでしょう。個性とは、辞書で引くと、他の人とは違ったその特有の性格、と記されています。ですから、それは、その人が「みんな」という他者の集合体に置かれたときに、突出するであろう「何か」を指すのです。けれど、その人固有のパーソナリティが、周囲と足並みを合わせること、だとしたらどうでしょうか。それは、「みんな」のなかに溶け込み、目立たなくなるモノを意味することになるのです。確かにそうして、秩序を保つことができるというのも社会で生きるための武器なのかもしれません。しかし、そのことは、私たちの思考を縛り上げる枷になってしまっているのも事実です。

「みんな」と一緒に足並みを揃えること、つまり、空気を読むことに私たちが慣れてしまった結果、何が起きているのかを解き明かしたのが尹雄大著『モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く』(ミシマ社)です。私たちの社会に蔓延している「みんな」のために迷惑をかけてはならないという価値観の背後に潜むものは何かを考えるべく、本書で著者は、「満員電車ベビーカー問題」を取り上げることから始めています。

満員電車にベビーカーを乗り入れても良いものか、という議論がしばらく前にSNS上で巻き起こりました。満員電車にベビーカーと一緒に乗り込むお母さんに対して、ネットでは、周囲への配慮がないという声が相次いだのです。著者は、この問題に対して、子育てに対して理解を示せ、や、他者にもっと寛容になれ、といった安直な答えを提示するわけではもちろんありません。そうではなく、こうした「周囲への配慮」をやたらと持ち出す思考の正体を暴くのです。

周囲、つまり、「みんな」にもっと気を使えと人が口にするときに心のうちに彼らが持っている、本音とは一体何なのでしょうか。著者は、そこには、実のところ「私への気遣いがない」という心情が潜んでいるのだと言うのです。窮屈な思いをしているところに、もっと苦しい思いをするのは嫌だ。だったら私のいないところでやってほしい。そう思うわけです。しかし、そのことが言えない。だから、「みんな」という言葉で誤魔化すわけです。何故か。それは、「私」を持ち出した瞬間に、今度は自分がワガママだと糾弾されることになるからです。

「私」と言う頭を引っ込めて、「みんな」に溶け込ますことで、周りから浮くことを避けるのが私たちです。けれど、それは実は一つの抑圧でもある。自分の感情を押し殺すことで、人々は「私らしくいる」ことをもやめてしまった。そのため、「私のことを気遣ってほしい」と言えない。つまり、彼らの深層心理には、「誰しも自分を大切にしたい。尊重したい。そしてできれば敬意を払われたい。けれども、自分のことよりもみんなに合わせ、協調しないとこの社会では爪弾きされて」しまうという心の揺れ動きがあるわけです(本書、41ページ)。ということは、それは裏から見れば、本当は「私」だって「私」でいたいんだ、でも、そうできないんだ、という葛藤があることを意味するのではないでしょうか。著者は、ここに、自分を肯定したいが、「みんな」に対する恐れからそうはできない人間の真実を見てとるのです。

「みんな」からの逸脱を恐れる。それは、「私」を社会のなかで萎縮させてしまいます。その結果として、「正しさ」を求めようとするときに、自分のモノサシで考えようとすることを放棄してしまうのです。「正しさ」というのは常に自分以外の誰かが用意してくれている。だから、仕事をしていても、上司や会社の意向は絶対だし、それに背いてはいけないと考える。そのため、その「正しさ」の枠組みのなかで成果をあげることだけに力を尽くそうとします。「正しさ」から外れて失敗をすることは許されないのです。しかし、著者が言うように、「世界の側からすれば、人の理解とは常に失敗の連続、誤りにしかならない」わけです。社会が作る「正しさ」はあるときには「誤り」になる。自己の外にある「正しさ」なんてそれだけ不安定で、いい加減なものなのです。だとしたら、正解を追い求めるよりも、失敗を味わい尽くす方が良い。それが「世界のわけのわからなさを『わけのわからないもの』としてまるごと理解する」方法だと著者は言うわけです。

とはいえ、そのような足場に立っているのは不安だと人間は感じてしまうもの。そうした心許なさを拭うために、ビジネスの世界では、知識を身につけて自信を持て、というマインドセットのフレーズが飛び交います。そこに著者は疑問を投げかけます。不測の事態に備えて知識を身につけたところで、果たして不安は消え去るのでしょうか。そうではないでしょう。未来は常に予測できないもの。頭を使って予行練習をしたところで無敵になれるわけではないのです。では、どうしたら良いか。著者が提示するのは、職人的身体、というものです。職人は常に自信に満ちている。彼らは、「知識としての『答え』ではなく体得しか信じていない」。情報や知識を収集しながら「答え」のようなものを見つけるのではなく、職人のように、身体的体験に基づいて自分を信じることこそが必要だというわけです。

他の誰でもない自分だけの身体的感覚を、しかし、同調圧力の強い社会は消去しようとします。著者が本書で「社会人」という言葉に、出来合いのルールに従う人間のあり方を見ているように、社会では「みんな」と同じ思考、行動を強制/矯正されます。そこから逸れることは迷惑だというわけです。しかし、そのような批判を繰り出す人たちは、自分という確かな存在を見失っているだけではないでしょうか。著者は言います。

迷惑やワガママといった言葉で誰かを非難したがるのは、他人の言葉が常に問題なのではなく、それが自らの不安や自信の欠如を突いてくる側面を持っているからではないでしょうか。もしかしたら、私たちは自信のある生き方をしていれば、そうそう他人の言動をチェックして迷惑だのワガママだのと言い募ることはしなくなるのかもしれません。(本書、175ページ)

他者の行為を迷惑だとかワガママだとか、そういう言葉で指弾しそうになったとき、立ち止まって考えてみてください。それは「みんな」を恐れている自分の卑屈さの現れではないかと。私たちは自分だけのモノサシで考えることができたとき、迷惑やワガママの呪縛から逃れられるのです。


photo by Hannes Flo

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