小さな声に届ける仕事を作るために——島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』(新潮社)

「働く」を考えるベストセラー  第27回

2020/03/04
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著者:長瀬海
 

古くてあたらしい仕事

島田潤一郎((著)
出版社:新潮社
出版年月日:2019年11月27日

ITの技術が凄まじい勢いで進歩し、後期資本主義社会となった現在、起業家たちはイノベーションを起こす何かを求めて躍起になっています。そこでは、人々が追いつけないくらいの速度、これまでになかった斬新なアイディア、一人でも多くの消費者にウケるサービスこそが来るべき超情報化社会で生き残るために必要なのだと叫ばれています。

だけれど、そんな時勢にあえて乗らない、という起業の仕方もあるのです。ものづくりということを、大量消費・大量生産の時代以前に立ち返って考える。誰のために働いているのか、果たして自分が心から納得のいく、好きな仕事をできているのかを考える。ゆっくりと、自分にしかできないことを考える。大事なのは速度ではない。世間の人々が驚くような企画でもない。万人にはウケないかもしれないけど、少数の人々でもいいから、彼らが生涯大切にしてくれるような何かを作ること。そのような信念を抱えて、会社を起こした人物が、ひとり出版社・夏葉社の島田潤一郎氏です。彼の本づくりへの想いを綴った『古くてあたらしい仕事』(新潮社)は、時代の流れに流されない働き方とは何かを訓えてくれます。

はじまりは、大切な人の喪失でした。

「小学生のころ、毎年八月一日になると、東京の羽田空港から高知空港へ飛行機で飛んだ。そして、八月二〇日まで、毎日従兄と遊んだ。ぼくは季節のなかで夏がもっとも好きだが、それは従兄と一緒にいた時間がそれくらいに楽しかったからだ」。幼い頃の記憶の風景のなかに必ず微笑みながら佇んでいた大好きな従兄が、急逝してしまいます。二〇〇八年のことでした。島田氏は、残された彼の両親のために、一つの詩の本を作ることを決意します。本作りのノウハウを持っていない彼は、手探りで、出版社を立ち上げるのです。従兄の両親のため、そして、同じような境遇にある人たちのため、つまり、大きな悲しみを抱えた人のために一冊の本を作りたい、という一心で二〇〇九年、夏葉社が誕生しました。

一歩を踏み出したときの心情を忘却しないために、そのスタートラインを絶えず振り返り続ける島田氏は、だから、本を作るときには必ず、不特定多数の人ではなく、具体的な人の顔を思い浮かべると言います。「ぼくは、よく知っている書店と読者のことを考えながら、本の企画を立て、本のつくりを考える。本ができたときの彼らの反応や感想を想像しながら、著者に原稿の加筆修正をお願いし、ゲラに鉛筆を入れる。そうしたすべてが、ぼくの仕事の基礎なのだ」(本書、131ページ)。全国を行脚した際に出会い、温かい言葉をかけてくれた大小様々な書店の店員さん。書店で、あるいは、ネットで見かけた、自分が作った本を手にとってくれた読者。そして、何より、本が大好きな自分じしん。彼女・彼らが満足してくれるものを作る。その本がそういった人々にとって、かけがえのないものになることを願って、作る。それは決してベストセラーにならないかもしれない。だけど、自分が作った本によって救われる人が一人でもいるなら、それでいい。ここに、島田氏の、夏葉社の、本づくりへの静かな情熱が見てとれるのです。

だから、島田氏は書店に足繁く通います。無名の出版社だからと無下に扱われることに心が折れそうになりながらも、それでも、自分の作った本に興味を持ってくれる書店員を見つけたなら、信頼関係を築いていきます。そこで交わされるのは、「ビジネスの相手というよりも、友人同士の話」です。それゆえに、「嘘をつかない。裏切らない。自分だけが得をしようとは考えない」ことが、島田氏の仕事の理念として、自らの歩く道を照らしているのです。

こだわりをもって、手間暇を、時間をかけて本を作っていく。それは、この大量生産・大量消費が当たり前となった社会において、逆を行くように見えます。しかし、島田氏が「大資本と正面切って戦うのは、あまりに無謀だ。かといって、その傘下で商売をしてみても、顔の見えない相手に振り回されるだけだ」といい、むしろ、「ぼくは、こうしたあらゆる巨大な資本から逃れて、自分の仕事の場所をつくりたい、と願う」と綴るとき、私たちの社会に何が欠けているのか、私たちが失いそうになっているものは何かを映し出してくれるのです。

それは、本書の言葉を借りるなら「大きな声」、つまり、社会のなかでマジョリティを動かすだけの力をもった人々の声によって急かされ、強迫観念的に仕事をするのではなく、むしろ、「小さな声」、時代に取り残されたように見える、けれど、屹然とした個をもった人々の声を聴きながら、ものを作るということになるでしょう。「大きな声は要らない。感じのいい、流通しやすい言葉も要らない。それよりも、個人的な声を聴きたい。だれも「いいね!」を押さないような小さな声を起点に、ぼくは仕事をはじめたい」(本書、137ページ)。あたらしい仕事とは、時代が忘れてしまいそうなものを、もう一度、自分の手で蘇らせる仕事のこと。広く共有され、すぐに消費されてしまうものではなく、誰かの人生に影響を与えるようなものを作ることを指すのです。

夏葉社がひとり出版社として、10年続けてこられたのは、こうした軸をぎゅっと握りしめながら、一冊一冊を丁寧に、ゆっくりと作ってきたからでしょう。とはいえ、ひとり出版社は一人で成り立つものではありません。本書には、詩人の荒川洋治、イラストレーターの和田誠、戦後文学を代表する小説家の一人である庄野潤三のご遺族とのあたたかな交友が描かれます。本書から伝わってくるのは、一人の大切な人間の喪失から新たな道を歩き出した島田氏の、それゆえに周りの人々を動かすだけの力をもった人情なのです。

ぼくが本屋さんが好きで、本が好きなのは、それらが憂鬱であったぼくの心を支えてくれたからだ。それらが強い者の味方ではなく、弱者の側に立って、ぼくの心を励まし、こんな生き方や考え方もあるよ、と粘り強く教えてくれたからだ。(本書、191ページ)

本書は、マジョリティに迎合する仕事を否定するものではありません。そうでなければ成り立たないし、それゆえに私たちの生活を便利にしてくれる仕事があるのも確かでしょう。しかし、社会がそればかりにスポットライトをあてることで、速度や利便性だけが追求される世の中は少しばかり苦しい。そうではない方へ。本書に描かれる夏葉社の「あたらしい仕事」は、変化ばかりが求められる社会に生きる人々が忘れているものを、もう一度思い出させてくれるのです。


photo by sabrina’s stash

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