2017/09/29 公開

ワークライフバランスって何??

「働く」を考える本  第2回

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著者:長瀬海
 

仕事から帰宅して、時計を見るともう23時。楽しみにしていた連ドラも録画が溜まっていくばかり。売れ残ったスーパーの弁当とチューハイを飲んで、歯を磨いて寝る。シャワーは、明日の朝浴びよう。

まさにワークライフバランスを失った現代人の典型ですね。ワークライフバランスとは、仕事と生活をうまい具合に調和させ、個人にとって働きやすい仕組みを作る、ライフスタイルのことです。仕事に生活が侵食されず、自分のプライベートの領域を絶妙に保ちながら、〈働く〉こと。現代の会社員が失いがちなのはこの働き方。今回は、ワークライフバランスについて考える三冊を紹介します。

大沢真知子『ワークライフバランス社会へ 個人が主役の生き方』(岩波書店、2006年)は、グローバル社会のなかで仕事と生活の調和のとれた社会を実現するにはどうしたら良いのか、世界の例を取り上げながら、日本の問題点を洗い出しつつ、来たるべきワークライフバランス社会についての提言を行っている一冊です。

著者は2000年代の初め、各国の社会を調査する上で、次のことに気づいたと言います。「仕事中心の社会から、仕事と生活のバランスのとれた社会へ、その経済政策を変化させてきた社会に身を置いてみると、豊かさとはお金だけによって実感されるものではない」のだ、と。つまり、「お金と時間をどうバランスさせるか」こそが、個人の〈生〉を豊かにする、そんな時代が到来していたのだというわけです。

では、日本はどうか。著者は言います。

 ひるがえって、わたしたちが住む日本という国をみてみると、仕事中心社会のままで、生活とのバランスが取れているとは言いがたい。最近になってますますその傾向が強まってきているようにおもう。それが日本はお金の価値でみると豊かな国であっても、わたしたちひとりひとりがその豊かさを、生活のなかで実感できない理由なのではないだろうか。(『ワークライフバランス社会へ 個人が主役の生き方』、8ページ)

本書が書かれたのは10年以上前のことですから、「日本がお金の価値でみると豊かな国」であるかどうかは、少し微妙なところですが、著者のこの指摘は現在も有効でしょう。所得と個人に与えられる自由な時間の調和が果たしてとれているのか。この問題は今も根深いものとして、日本社会に刺さったままです。

その理由として、雇用神話の崩壊があると著者は言います。経済のグローバリズムの弊害として、非正規雇用が増えた。そのため、正社員一人ひとりの負荷が大きくなる。すると、所得と生活のバランスは崩れてしまう。これが第一に日本の抱える問題である、というわけです。

では、どうすれば良いのか。例えば、ワークライフバランスや働きやすい社風であることをアピールするために、様々な制度を取り入れる会社が増えています。育児休業制度、フレックス制度などがそれです。しかし、それだけではダメだと著者は言います。制度を新しく設けるだけでは、根本的な働きやすさは変わらない。企業の抱える無意識をこそ変革せねばならない。それは、企業文化と呼ばれるものです。

 企業文化とは「組織の歴史に深く埋め込まれた価値、シンボルであり」、このなかには目に見え、意識されているものだけではなく、「無意識の、当然だと思う心情、認識、考え、感じ方」と言ったものが大きく影響している。
 企業文化を変えるためには、実は、この無意識の価値観を表面に浮かび上がらせて、自分たちが当然だと考えていることをもう一度見直すという作業が必要になる。(同上、176ページ)

企業の無意識の顕在化。そこにこそ、変革の可能性がある。そうした抜本的な改革なき変化は、ただの見せかけのシステムであり、いくら新しい制度を作ろうとも、ワークライフバランスの取りやすい風土は根付くことはないのです。

また、著者は個人の家庭像の変化に対応する、新たなコンセプトとして、アメリカの教育学者のドナルド・スーパーが提唱する、「ライフキャリアレインボー」という概念を紹介します。現代社会のなかで、私たちは、既に「仕事か家庭か」と言った二者択一の選択では済まなくなっている。人生の様々なステージで、個人はそれぞれの、七色の虹のように〈生〉を彩るような、役割を選びとっているのだというわけです。ある時は、「余暇人」として。ある時は、「家庭人」として。ある時は「市民」として。そうした、それぞれの役割を個人に与えられた使命として生きていくことになる。その時に、仕事と生活のバランスをうまく調整する必要が出てくるわけです。

「自分なりの人生を生きる」とはこのことをいうわけで、個人がそれぞれの役割を全うできる社会——労働にそのことが阻害されない社会——こそが、現在、実現されるべき社会である、と著者は提言します。

ワークライフバランスの取れた人生を送る個人。それは既存の働き方に縛られず、じぶんなりの〈働く〉仕組みを作り上げることに成功した人のことを言いいます。駒崎弘樹『働き方革命―あなたが今日から日本を変える方法』(筑摩書房、2009年)
はまさに、従来の働き方を打ち破り、新しいタイプの仕事を作り上げる方法を示す一冊です。著者は「地域の力によって病児保育問題を解決し、育児と仕事を両立するのが当然の社会をつくれまいか」という問題意識のもと、NPO法人フローレンスを設立。日本で初の「共済型・訪問型」の病児保育サービスを開始し、「小規模認可保育所」として空き家を使った「おうち保育園」を展開してきました。そんな著者が、どうやって新しい働き方を作り出したのか、そのヒントが本書には綴られています。

若くして起業家となった著者はまさにワーキングマシーンとして、プライベートなき生活を送っていました。無駄な時間を手にするのが怖い。歯を磨く時間、髭を剃る時間、電車の待ち時間。この暇な時間に何か業務に関することをしていないと落ち着かない。だから、常に仕事のメールをチェックする。電車に乗ってても、ご飯を食べてても、就寝時も。著者の表現を借りれば「重度の喫煙者が休憩時間の度に一服するように。酒好きのロシア人が胸元の銀色の携帯水筒からウォッカをあおるように。ドラッグユーザーがそっち系のキノコを押し入れで日々栽培するように、メールと共に生きるようになった」といいます。同時に、それだけの時間の節約をしているうちに、インプットする時間、つまり本を読み学びを得る時間すら無駄に感じ始めます。ましてやエンターテイメントに対する時間などもっての外。すると自身のメンタリティに変化が起きます。

他人とコミュニケーションをうまくとれなくなる。部下には常にいらいらしている。自分の思い描いたスピードで業務をこなさない部下に強く当たるようになってしまう等。(ここまで読んで、あれ?と思い当たるマネージャー層の方も多いのでは?)

そんな著者に転機が訪れます。それはアメリカでのリーダーシップ研修の時のこと。そこで著者は運命的な「働き方革命」のメソッドを見つけるのです。彼がどのような出会いを果たしたのかは本書を読んでみてください。そこからワーキングマシーンだった著者は、具体的なライフビジョンを持ち、幸せな「働き方」を求めるようになります。「私は朝9時から夜6時で働き、十分に成果を出している。そして残った時間はライフビジョンの実現のために投資し、そのプロセスにいつもワクワクしている」といった理想の自分を書き出し、自動で自分宛にその宣言を綴ったメールが届くようにプログラムします。

あとは有言実行。9時6時のコアタイムで全ての業務を完了させるために、仕事のスマート化・スリム化をはかっていきます。ここが著者の尋常ならざる手腕が光るところです。躊躇なく、これまで無駄の多かった業務の徹底的な効率化を図っていく。さらには、自分だけでなく、自分より下のマネジメント層にも同様の「働き方革命」を半ば無理やり押し付ける。するとポジティブな連鎖が起き、会社全体の雰囲気が変わっていきます。黒が白に変わる。奇跡のような革命の瞬間が本書には記されています。

働き方に革命が起きると、今度はプライベートにも革命が起きる。余暇を使って家事をマネジメントしはじめたり、仕事で用いるレポートトークとは真反対のラポール(安心)トークでパートナーの相談に乗りやすくしてみたり。あのワーキングマシーンだった著者が次のようなことを言うのだから、人間は鉄の塊でできているわけじゃないんだなぁとしみじみ思います。

好きなことをしている時の彼女の表情は、本当に綺麗だった。少なくとも毎日時間がない、と言ってやりたいことができない人の表情を毎日見るよりも、よっぽど気分のよいものであった。(『働き方革命―あなたが今日から日本を変える方法』、130ページ)

最後に著者は綴ります。〈働く〉の定義とは、「働くことを狭く限定せず、僕たちのあるべき人生の姿を形作る作業全体」のことである、と。仕事に追われ、そればかりか他人をも仕事に追いやり、ライフヴィジョンをうまく描くことができなくなってしまった人、〈生〉のあり方を見失ってしまった人にオススメの一冊です。

ところで、ワークライフバランスの変化は小説にどのように映っているでしょうか。伊井直行は『会社員とは何者か?――会社員小説をめぐって』のなかで近代以降、日本の小説のなかで会社員という存在がどのように描かれてきたか、を考察しています。そのなかで著者は、仕事と私生活のバランスが文学においては問題になるというわけです。まさにワークライフバランスです。

伊井は、「サラリーマン」と「会社員」という言葉を厳密に区別し、「サラリーマン」という用語の不用意な乱用を避けなければならない、ということから論を始めています。

「サラリーマン」という言葉は、非常にあいまいな意味をもつ言葉。たとえば、「サラリーマン」と聞いてイメージするのは、通勤電車で汗だくになりながら新聞を読むスーツ姿のおじさん。じゃあ、彼らは何者でしょうか。ホワイトカラーの労働者か。たぶんそうでしょう。それでは、「サラリーマン」とはオフィスワーカーのことか。ブルーワーカーはじゃあ給与所得者じゃないのか、といった問題が浮上してくるわけです。

だから、つまるところ、「『サラリーマン』という言葉は、『ホワイトカラー』の会社員と給与所得者という二つの意味を持つ」のである。 そしてこの、二つの意味の含有、ということじたい、社会的には意識されていない。そのため、伊井はまずその問題に自覚的になることを喚起して、より厳密に「会社で働く人」という意味での「会社員」という言葉を用いることを提唱します。

それでは会社員小説とは何か。まず、それは経済小説と区別されなければならない、と著者は言います。経済小説では物語の中心は日本あるいは世界の経済の動きにあり、そこでのダイナミックな動きがエンターテイメント的な展開を生むわけです。そのため、登場人物は「役割としての登場人物」、あるいは「キャラクター」や「コマ」に近いものとなります。経済小説の通俗性はそこにあるわけで、それはやはり、純文学とは大きく異なる形式で成り立っているのです。

経済小説が会社員小説と区別されるというのは、経済小説がいわゆる純文学的な近代小説とは区別されるということとほぼ同じ意味においてです。だから、「近代文学が、たとえば夏目漱石の小説が中心にあるような世界――人間を描くことが手段ではなく目的であるような世界――であるとすると、経済小説はその周縁、あるいはその縁の外側に位置することになる」のです。 会社員小説とは、そのため、経済小説の通俗性を極力排除したものである必要がある。伊井直行は「会社員小説にとって、仕事、業務内容は必ずしも重要ではない」と言います。それは、「人間を描くことが小説の重要な役割であるとすれば、会社という条件下において現れる人間や、その関係を描くこと」に意義を見出すのです。そうすると「会社員小説とは、会社を舞台として、その中に現れる人間のありようを表現する小説」と一応、定義できるでしょう。それは逆に考えると、会社を物語のメインのバックグラウンドとしなければ、表現できない世界の物語化、ということになる。そして日本文学は純文学の領域であれエンターテインメントの領域であれ、そのような小説が書かれることを必要としてきたのです。

では「会社員小説」とは具体的に何を描いてきたのでしょうか。例えば、「第三の新人」と呼ばれる戦後小説家に庄野潤三がいます。彼の芥川賞受賞作、「プールサイド小景」(1954年)を例に考えてみましょう。

この小説は、青木弘男という中年男が、プールサイドで、水泳を楽しむ自分の子どもたちを見つめる場面から始まります。そこに大きな飼い犬を連れた夫人がやってきて、青木と子供ともども一緒に家に帰る。それを見て、水泳のコーチがまさに理想の家族だ、などというところまでがイントロです。

しかし、コーチの想像とは異なり、まさにこの家族は破綻しようとしている。実は、課長代理だった青木は会社の金を使い込み、会社を解雇されてしまったのです。子どもが寝静まったあと、夫婦二人でかわす会話にはこの世の終わりに似たトーンがただよう。妻は夫に、バーの話を聞く。夫は、男の人が簡単に引き込まれてしまうほどの美貌を持った姉と不美人などんくさい妹でやっているバーにしきりに足を運んでいたと言います。夫ももれなく姉の美貌に魅惑されていたのです。そこで、夫は妻に、この姉と二、三回デートをしたこと、しかし、それ以上の関係にはならなかったことを話します。使い込んだ会社の金の行先は、ここであったわけです。

けれども、妻にはこの話じたいが胡散臭く思えてしまいます。妻は、夫にはこれとは別に、ほかに女がいることに気づくのです。「〈女がいる。夫が大金を使い込んだのは、女のためだったのだ。〉この考えが、夫の話を聞いている途中、霹靂のように彼女を打った。彼女は自分の内部に生じた動揺を隠した。(中略)夫が話したことは、それはどうでもいいようなことなのだ。彼が秘密にしなければならないのは、もっと別のことである。」夫が会社を解雇されてから、妻はじしんに襲い掛かる理不尽なまでの苦境に頭を悩まします。また、夫は妻に、会社のことを——おそらく結婚してから初めて——話す。会社では、夫は課長代理という身分でありながら、絶えず何かに怯えていた、と言います。しかし、それは、夫に限ったことではない。会社にいる大部分の人間が、何かに怯えながら出勤していたのです。彼らは何に怯えているのか。

 彼らを怯えさせるものは、何だろう。それは個々の人間でもなく、また何か具体的な理由というものでもない。それは、彼等が家庭に戻って妻子の間に身を置いた休息の時にも、なお彼等を縛っているものなのだ。それは、夢の中までも入りこんで来て、眠っている人間を脅かすものなのだ。もしも、夜中に何か恐ろしい夢を見てうなされることがあれば、その夢を見させているものが、そいつなのだ。(『会社員とは何者か?――会社員小説をめぐって』、138ページ)

妻は、夫がこれまで15年間このような気持ちで、働いていたことにいまさら気づき、そのことは逆に15年間夫婦のあいだに空白のようなものがあったことを教えます。これまで、夫は会社のことで忙しく、二人でゆっくり話をする時間すらなかった。そのことに思い当たった妻は、何かを考えなかなか寝付けない夫のまつ毛とまつ毛を重ね合わせ、「よく眠れるおまじない」をかけるのです。

物語は最後、ある不気味さを伴って終わります。夫はいつまでも家で頭を悩ましているわけにはいかない、と思い、職探しに出かける。その直後、電車の中からある乗客がプールを見つめる場面に移る。プールには、男の頭が浮んでいる。水泳のコーチらしき男が、プールの底に沈んだ草などを足で拾っているのです。

さて、この物語で重要なのは、ここに会社員の公と私の分裂が見られるところです。

この小説には、会社員の公、つまり仕事の部分がほとんど描かれない。それもそのはず、青木はすでに会社をクビになっているのですから。会社員という身分をはく奪され、はじめて私生活に引き籠ることができたわけです。だからこの物語は、見ようによっては、公の部分を失った人間の私への引きこもりを描いた小説なのです。

また、青木はこれまで、会社のことを家庭にもちこまなかった。だから、妻は会社での青木のことを知る由もなかった。これは、公の部分のなかで私を語ることができなかった証左でもあります。

こうして、伊井は、まず、「会社員小説」というのは、仕事の内容、社内の人間関係、私生活、といった三つのレイヤーから作品が成立すると言います。さらに、それらの作品の主な特徴として、ほとんどが独身であり、さらには恋愛をテーマとした作品はめったにない、とも。また、もっとも重要なのは仕事と家庭のどちらに比重を置くかで、極端にその全体像が変わることなのです。つまり、会社員を主要人物としながら、その家庭のなかの人間関係を描くのであれば、会社や仕事の内部について詳細に描くことを諦めなければならず、その逆もまたしかり、だというわけです。伊井は言います。

こういうことだ。そもそも会社員となった人間は、身体を二つに――「公」と「私」に分断されている。つまり、半身ずつで存在している。そうであるなら、現代的な人間像である会社員という存在は、実に不可思議で不気味なものだ。たとえば文学において、半身であるから、会社員を現実の似姿として小説に取り込もうとすると、登場人物としてうまく機能しない。会社員としての属性を活かそうすると、会社員としての半身しか描けない。一方、私生活の側からとらえようとすると、会社員である必然性を求めにくくなる。両方とも描こうとすると、今度は物語として破綻する。(同上、208ページ)

「公」と「私」の二つの生活を両方とも見せようとすることは、作品の膨張を生む。それはそもそも日本の会社員が、「公」と「私」の側面のどちらかで分断されているからです。このことと、近年、ワークライフバランスという言葉がやたら叫ばれるようになっているのは無関係ではないでしょう。日本の「会社員小説」は見事に会社員のワークライフバランスの調和・不調和を捉えて、描いてきたのです。


今回紹介した本

『ワークライフバランス社会へ 個人が主役の生き方』

大沢真知子 (著)
出版社:岩波書店
出版年:2006年

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『働き方革命―あなたが今日から日本を変える方法』

駒崎弘樹 (著)
出版社:筑摩書房
出版年:2009年

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『会社員とは何者か?――会社員小説をめぐって』

伊井直之 (著)
出版社:講談社
出版年:2012年

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長瀬海(ながせ・かい)
1985年千葉県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科修了。ケーブルテレビ系の通信・放送会社勤務を経て、ライター・インタビュアー・書評家へ転身。音楽、文学が専門。現代日本文学、海外文学、エンタメ、SFなどジャンル問わず書評します。
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