ふしぎの国で働くということ ――東畑開人『居るのはつらいよ』(医学書院)

「働く」を考えるベストセラー  第16回

2019/04/03
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著者:長瀬海
 

居るのはつらいよ

東畑開人(著)
出版社:医学書院
出版年月日:2019/2/18

こめかみから、冷や汗が、ツーっと垂れる。焦燥感。本書(『居るのはつらいよ』医学書院)の著者、東畑開人はパソコンを前に、焦っていました。
彼は、京都大学の大学院まで進み、博士号をとったものの、自らの選択で、大学に残ることはしなかった。臨床心理士の道へ進むことにしたのです。
著者が就職活動をするにあたって、自身で作った条件は次の通り。第一条、カウンセリングがメインの業務。第二条、家族を養えるだけの給料。第三条、地域は選ばない。しかし、Googleで「臨床心理士 求人」と検索しても、明るい未来は見えてこない。必死で夜な夜な仕事を探す日々が続く。焦りは募るばかり。「このまま無職ハカセになってしまうに違いない」そんな思いが心をよぎります。

しかし、昏い生活が続いていたある日、一筋の光が差し込みます。「精神科クリニック、常勤臨床心理士募集 条件:月給25万円(資格手当込み)。賞与六ヶ月」著者は思わず目を疑います。それはスパム広告なんかじゃなかった。確かに、求人広告として、目の前できらめいてたのです。ただし、勤務地を除けば。クリニックの所在地を見ると、そこは、沖縄、だったのです。
それから著者の4年間のワンダーランドでの修行が始まります。最初にぶつかった壁は、「いる」こと。著者は気づきます。

そう、デイケアで過ごす10時間のうちのかなり多くが自由時間なのだ。
それは何かを『する』ではなく、『いる』時間だ。座って『いる』。とにかくそこに『いる』。ただ、いる、だけ。何も起こらなくて、動きがない静かな時間だ。
デイケアとは、とにもかくにも、『いる』の場所なのだ。(本書、42ページ)

ここから、「いる」ことをめぐっての著者の思弁と葛藤が始まります。何もしないで「ただ、いる、だけ」だと穀潰し系のシロアリになってしまう。だから、「ただ、いる、だけ」にならずに、「いる」必要がある。そのためには「する」ことを探さなければならないわけです。だけど、「する」ことは早々見つかるものではない。行き着いた結論は「デイケアは座るに始まり、座るに終わるのだ」ということでした。
 
文筆家の清田隆之は人間の様式を、human beingとhuman doingの二つに分けて考えています。もともと人間とは前者であり、「いる」ことがその本来的な姿だったわけです。しかし、いつの間にか、人々は何かを絶えずしていなければならなかった。特に平成という時代は、そのことが顕著に現れた「真面目さの時代」だったと、清田は言います(「さくらももこ論」『すばる』2019年3月号)。human doing、つまり、「する」ことを巡る人間の存在様式が生み出したもののなかで最たるものといえば、成果主義、というものでしょう。受験勉強、社内競争。そのような環境に慣れてしまった人々は、「いる」ことが苦痛になってきてしまうのです。

すると、どうなるか。退屈になるわけです。著者は、さらに考えを突き進めて、退屈とは何か考えてみようとします。

まず大前提として、デイケアとは退屈な場所だ。僕はこの本を書くための取材で、色々なデイケアを回ってみたけれども、はっきり言ってどこもかしこも、たいへん退屈だった。(中略)デイケアは退屈なのだ。本質的に、宿命的に退屈だ。逆にいえば、退屈はデイケアがデイケアであるために不可欠なことなのだと思う。退屈のないデイケアはデイケアではない。(本書136ページ)

では、退屈とは何でしょうか。著者は哲学者の國分功一郎の言説を持ち出して、退屈とは「引きとめ」と「空虚放置」から成り立っていると論じています。「引きとめ」とは、時間がくずついて動かず、「今、ここ」に引き止められていることを言い表します。時間が凪のように、進まない。その瞬間、私たちは退屈を感じるのです。

では、「空虚放置」とは何でしょうか。これは、簡単に説明すれば、目の前にある物事が、そちらの方から能動的にこちら側に何も提供してくれないことのことを言います。「空虚放置」とは物がないわけではない。周囲の物が自分たちに働きかけをしてこない状態のことを意味しているのです。

そこにデイケアにおける退屈と、退屈をしのいでいるメンバー(デイケアに出入りするクライエントのことを本書ではメンバーと呼んでいます)のケアを考えるヒントを著者は得ます。その考察はまさに退屈から生まれたものであり、何事にも素直で実直な著者の姿勢が垣間見られる場面でもあります。

著者は退屈な日々の合間にこうして、思弁する。それのため本書は、4年間のデイケアでの実録エッセイの体裁を取りながら、学術書、あるいは働くことの指南書としても読める一冊なのです。

例えば、遊びについて。著者は、最初、みんなと混じって遊ぶことが苦手だったメンバーが遊ぶことのできるようになった瞬間を捉え、精神分析学の権威であるウィニコットの言説を持ち出します。「遊びの精神分析」でウィニコットは、次のように言います。孫引きになりますが、ご容赦を。

精神療法は二つの遊ぶことの領域、つまり、患者の領域と治療者の領域が重なり合うことで成立する。精神療法は一緒に遊んでいる二人に関係するものである。以上のことの当然の帰結として、遊ぶことが起こり得ない場合に、治療者のなすべき作業は、患者を遊べない状態から遊べる状態へ導くように努力することである。(本書、152ページ)

すごくシンプルにいうと、砂場で遊んでいる子どもは、決して一人で遊んでいるわけではないということです。常に心のなかに誰かがいる。例えば、母親が。だから、時折、後ろを見て、母親が見守ってくれていることを確かめる。彼女・彼らにとって遊ぶためには、誰かが心のなかにいないといけないのです。

それとデイケアで行われていることも同じ。デイケアのプログラムに遊びが多いのは、ただ暇つぶしをしているわけではないのです。一緒に遊ぶ。本気になって遊ぶ。そのことが、デイケアの治療的仕掛けなのです。

こうして、著者は実践のなかで多くのことを学んでいきます。本書に綴られた言葉の一つひとつが空中に浮かんで消えず、手元にしっかり残るのは、著者が、現場で学び得たものを文字にしているからでしょう。

だけれども、デイケアの日々は楽なものではありませんでした。最後に、著者は、文字通り、血を吐き出します。それが引き金となってデイケアを後にすることになるわけです。なぜ、著者が血を吐き出したのかは、読んでいただければ、わかります。そこには、決してデイケアの問題だけに収まらない、現在の新自由主義的な働き方の悪が潜んでいることがわかるのです。


photo by Steve Mays

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