2017/08/28 公開

人はなぜ働くのでしょう?

「働く」を考える本 第1回

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著者:長瀬海
 

人はなぜ働くのでしょう。〈働く〉ことについて考えるきっかけとなる本を紹介する、この連載の第一回目では、労働という近代以降、人間の生活に不可欠となった営みの本質ってなんなのかを再考することをうながし、〈働く〉ことと〈人間、社会、生きること〉を一つの輪っかで繋げてくれる三冊をピックアップします。

最初に取り上げるのは、人間にとっての倫理を当たり前のものとせずに、何度も問い直し続けてきた哲学者・小浜逸郎は『人はなぜ働かなくてはならないのか』(2002年、洋泉社)。
本書のなかで、著者はまず次のようなことを述べていきます。

そもそもタイトルのように、「人はなぜ働かなくてはならないのか」という形で問いを投げかけている時点で、そこにはネガティヴな動機がつきまとっている。つまり、〈働く〉ことへの懐疑感情があるのだ、と。そのような人に対して、「勤労はそれ自体が美徳なのである」といった道徳的立場から答えると、そこには抑圧感が漂い、かえって懐疑感情を煽ることになる。だから、そういう問いを抱える人に対しては、答えを急いで与える前に、一度、「人はなぜ働くのか」という問いにかたちを変えさせる必要がある、というわけです。

その上で、著者は、「労働の意義を根拠づけているのは、私たち人間が、本質的に社会的な存在であるという事実そのものである」と答えるのが正しい仕方だと主張します。これはどういうことでしょうか。

著者はこのことには三つの意味があると言います。一つは、私たちの労働は、それが生み出すものを通じて必ず「誰か他の人のためのもの」という規定を帯びるということ。つまり、人は労働によって他者に貢献をし、その社会のなかで一定の役割を担うこととなるというのです。二つ目は、人は労働をする以上、他人の生産物を必要とするということ。要するに、他者の労働が生み出したものと関わることによって自分の労働を可能とするのだということです。これは一つ目の理由と表裏のものですね。そして、三つ目は、ここを著者は一番強調するのですが、労働は社会的な人間関係それじたいを作り出す最も基本的な手段であり、他者への呼びかけという根源的な動機をひそませていること。つまるところ、労働とは、一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認されるために欠かせない条件なのだというわけです。

ここから著者はドイツの哲学者・ヘーゲルの労働観などを用いて、実に小気味よく、人間と労働の関係を丁寧に分析していきます。そしてたどり着いた答えは以下のようなものとなります。

人は一人の立派な人間として認められたいという欲求をそれぞれ持っていて、労働を通じて他人と関係を結びながら、社会的な存在として認められることをゴールとして日々働く。つまり、「労働→他者との相互関係が作る共同体への参加→相互承認の達成」というロジックこそが人間の根っこにある欲求であり、人はそれを満たすために働くのだ、と。

こうして本書は、〈働く〉ことと人間の持つ根源的な承認欲求がほどき難く絡まっていることを教えてくれます。ここでは、小浜逸郎の取り出した労働倫理を〈承認欲求型の労働倫理〉と呼んでみましょう。承認を満たし・満たされ合うことと労働倫理の密接な関係を確認することは、「なぜ人は働くのか」という問いに一つの答えを与える作業になります。

しかし、〈承認欲求型の労働倫理〉にはしがらみがあります。というのも、この論理を突き詰めると、他者との相互承認を通じて、自己成長を遂げることだけがゴールとなりかねません。お互いに認め合いながら働けば成長する。だから、とにかく働こう。そして働きながら、さらにお互いを認め合おう。そのような意識だけで働くのでは、息苦しさ、フラストレーションを生み出す契機にもなってしまう可能性がある。認められなかった時の心配、成長できなかった時の不安が絶えずつきまとうわけですから。また、その相互承認のサイクルはエンドレスに続いてしまいます。

そこで、人間と〈働く〉ことを、別の角度から考えて見る必要があるわけですが、そのときに大きなヒントを与えてくれるのが、今野晴貴『君たちはどう働くか』(2016年、皓星社)です。

本書は「中学生」に向けて問いかける語り口で、とても平易に書かれた〈働く〉ことの指南書です。しかし、その内容はとても本質的、網羅的になっている。というのも、本書の著者はNPO法人POSSEという労働問題を専門に扱う非営利団体の代表。現場の声を長年にわたって聴き続けてきた、〈働く〉ことのプロフェッショナルなのです。

本書の第2章もまた「どうしておとなになったら働くのでしょう?」という章題で、先の小浜的な問いが問題となっています。ここで提示される答えは、次のようなものです。まずは、「『生きつづける』ため」。生を営むにはどうしても労働を余儀なくされる。それが太古からの人間社会の習わしである、と。もう一つは、「人々は働くことをつうじてほかの人と関係を取りむすぶ」ため。著者は言います。

なにかを生み出したり作ったりしながら、社会を成り立たせることが、まさに「働く」ことです。そして、働くときには、誰かしらとかかわることになります。あるいは、働いた成果や結果によって、他人に認められるようになり、居場所ができたりもする。
(『君たちはどう働くか』、2016年、皓星社、28ページ)

ここで言われていることは、先の小浜的なロジックと近い。〈承認欲求型の労働倫理〉という言葉をすでに提示しましたが、そのことを別の言い方で言い換えていると考えてよいでしょう。しかし、本書が小浜逸郎『人はなぜ働くのか』と異なるのは、ここには成長を志向せよというマッチョさはなく、極めて実践的に「逃げてもいいんだよ」ということが書かれている点です。〈働く〉ことから逃亡することが肯定されている。ここに本書の新しさがあります。〈承認欲求型の労働倫理〉は終わりなき、承認のサイクルでもありました。そこから一度、逃げる。それは小浜逸郎のロジックにはないものなのです。

こうして、「逃げてもいいんだよ」という視点から、〈働く〉ということと向き合う。そのことで、逆説的に、〈働く〉ことの本質が浮かび上がる。本書はそういう内容となっているのです。

〈承認欲求型の労働倫理〉を抱えた人間は、〈働く〉ことで社会に参加することを自然と求める。ここまでは良いのですが、現在、この自然なありかたが見えなくなっているのは、著者によれば、それが「社会参加」から「賃労働」こそが全てだという論理にすり替わっているからだと言います。そうすると、「ものを考えながら仕事をする」ということが会社にとって邪魔になる。もちろん、ビジネス的なマインドは保ったままに、しかし、それ以外の、いわゆる「なぜ働くのか」という倫理的なマインドは排除することを求められる。著者は、そのことを20世紀に全ての労働モデルを一変させたアメリカのフォード社を例に出して説明しています。

また、そういった労働モデルは経済的な成長が人々に夢を見させている限り、有効であった。しかし、現在はそうはいかない。それならば労働モデルを変えなければならないのに、高度経済成長期、またバブル経済期の働き方しか知らない多くの(もちろん全てではありません)会社は、いつまでも同様のモデルで労働を押し付け、労働者を思考停止にする。その結果、問題となるのが、過労死です。

著者は、こうした現状を熟知するがゆえに、「逃げてもよい」、そのための方法を教授してくれます。具体的な方法はぜひ、本書を読んでください。そのなかで〈働く〉ということを再考して見てください。本書の「おわりに」で、いま求められるのは「がまん」ではなく、「批判的な考え方」だと著者は言います。それは、何でもかんでも文句を言うことではなく、じぶんの働き方をあたりまえのものとせずに、一度、確かめてみることを意味します。それこそが、いまの「社会」にとって必要なことだということを、著者は結論に置くのです。

さて、こうして人間と〈働く〉ことの本質的な関係を見てきたわけですが、最後に、人々が〈働く〉うえで何を大切にするべきなのか、そのことを現代の日本の小説から考えてみましょう。第140回芥川賞を受賞した小説家・津村記久子はデビューから一貫して〈働く〉ことをテーマにした小説を書き続けてきました。社内の見えざる敵との闘争を描いた『アレグリアとは仕事はできない』や、世界一周のクルージングという密やかな夢を糧に働く主人公の、周囲の人間と共振することで揺れ動く心情を描いた『ポトスライムの舟』。そして2011年に書かれた『ワーカーズ・ダイジェスト』では会社員の生活に滲む細やかな感情を描いています。

この作品では、異なる職場で働く、二人の佐藤(重信と奈加子)の物語が交互に語られていきます。小説は、それぞれの朝から始まります。奈加子の場合、「アラームは鳴ったが、また八分後にセットしてある。奈加子は、枕の横の充電器を探って、携帯電話のボタンを何度か押し、スヌーズモードを解除する。本当は、いま鳴った時間に起きたいといつも願っている」と、倦怠感のただよう朝を毎日送っていることがわかります。

一方で、重信の物語パートは「寝ていなくても起きられる自信がある。要するに、どれだけ睡眠時間が短くても、ちゃんと決められた起床時間に起きられて、仕事には遅刻しない自信があることだ」という滑り出しから始まり、重信が朝、語学ラジオを聴きつつ、規則正しい生活を過ごしていることが綴られています。こうして対照的な朝を送る二人ですが、疲労感を抱えているという一点では似通っています。

満員電車に揺られる奈加子は「両手で吊り革を握り締めて、自分の手首に額をくっつけて目を閉じる。(中略)奥歯を噛み、その強さに疲れて、すぐに顎を緩める。片目を開けて、窓の向こうを古びた団地が通り過ぎていく様子を手首と手首の間からじっと見つめる」と描写される。無気力な、けだるい感覚のなかで一日が始まるという、会社員の日常としては消極的な描かれ方です。

規則正しい生活を送る重信もまた同じ。起きたばかりの重信は次のように描かれています。

 それでも重信は起きる。うまく理由を思い出せない疲労感が、体全体を覆っていたとしても。
 肉体の経年劣化という言葉が重信の頭をよぎる。その次の瞬間には、シーツがどうもベタベタしてるような気がする、という不快感に顔を歪める。
(『ワーカーズ・ダイジェスト』、2011年、集英社、18ページ)

このように二人の佐藤の感情はところどころでシンクロしていく。このことは読者に、彼らは異なるライフスタイルを送っていても、やがて物語の進展のなかで〈つながる〉のではないかという予感を抱かせます。この〈つながり〉は、果たして恋愛なのか、それとも別種の何かなのか。

もう一つ、二人の佐藤を結びつける要因があります。それは職場で起きる、不条理です。東京から大阪へ転勤してきた重信は連日、理不尽なクレームに悩まされている。一方で、奈加子は富田さんという年上の先輩からいわれのない無視を受け始める。理不尽なクレームと、いわれのない無視。二つの不条理な仕打ちによっても、二人の物語は共鳴し始める。だが、作中でクレームの犯人と無視の理由は明かされない。敵が誰かは不問のままにされるのです。この不条理に対して、例えば奈加子に関しては次のように綴られています。

 今日も富田さんは、奈加子のことを見ようとしなかった。奈加子がせっちゃんに何か話かけると、不満を表すような、注目をほしがるような様子で鼻を鳴らした。話はちゃんと聞いているのだ。
 でももういいや、と奈加子は思う。もういいや、元に戻らなくても。何でもいいや。
(同前、147ページ)

ここには諦めに似た感情がある。この感情はなんでしょうか。少し考えてみると、作者はこの作品において、〈働く〉ことを闘争ゲームとしていないことに読者は気づくでしょう。これまで作者は、〈働く〉ことをテーマとした物語のなかで、敵という存在を——それがはっきり見えるものであれ、不可視なものであれ——描いてきました。例えば、同じ作者の前作『アレグリアと仕事はできない』では、周囲で起きる不条理な出来事と主人公がいかに戦うか、が描かれていました。

津村作品だけではありません。多くの仕事小説・企業小説が、寄る辺ない立場に置かれた主人公がいかにして敵と戦い立身出世、あるいは、周りを味方につけていくかを描いているかというのは、例えばあの大ヒットドラマ『半沢直樹』の原作となった池井戸潤『オレたちバブル入行組』シリーズなどを見てもわかることでしょう。しかし、この作品は、物語をそのような回路へと進めていこうとはしない。そうではないところで、〈働く〉人間にとっての〈連帯〉を描こうとします。

二人の佐藤は作中、二度だけ交差します。1度目は物語前半。重信が奈加子にクライアントとして仕事を依頼する場面。そして、二度目は、物語の終盤、重信がボーナスで買った鍵盤ハーモニカを公園で吹いているところに奈加子が通りかかる場面です。

この一度目と二度目の邂逅の間も、二人は何度か、ふとした瞬間にお互いのことを考える。
奈加子は周囲の人間関係に疲弊しながら、何故か重信のことを思い出す。

 べつに何でも言い合わないし遠慮し合っているけど、ジャッジもし合わない気楽な友達が欲しいと思う。(中略)仕事相手じゃない人と逆に知り合わないなあと、ぶつぶつ考えながら、なんとなく十二月に社長の打ち合わせの代理で会った名字が同じ男の人のことを思い出す。あの人とは誕生日も一緒だし、身長も同じくらいだった。でも下の名前は思い出せない。
(同前、69ページ)

重信も、同様のことを思います。
 

 自分という機関が動き始めて三十二年、もう二度と清らかになることはないだろう。(中略)ああそういや、あの人も今日が誕生日か、と重信は手のひらで額を温めながら、先月の大阪出張で打ち合わせに来た、自分と同じ名字を持つデザイン事務所の女性社員のことを思い出した。あの人は自分より若く見える。女は大抵男より若く見えるけれども。あの人も、自分と同じようにまだ動いていることを不思議がっているだろうかと思う。
(同前、50ページ)

二人はお互いのことを必ずしも必要としているわけではありません。また、二人が求めているのは特定の他者との絶対的な結びつきでもない。恋愛感情でもない、ある奇妙な感情の芽生えによって、二人はお互いのことを思い出すのです。

作者はこうして物語を絶妙なバランスのシーソーに載せます。もし少しでも二人の関係を恋愛の方へ傾けたら、この作品は「オフィスラブ」の小説として成立する。実際に奈加子は10年付き合っていた彼氏と別れ、新しいパートナーを作中で求めているので、重信がその相手となる可能性もあったわけです。しかし、そうした恋愛の回路は最後まで開かれません。

かといって、二人で共闘して、それぞれの敵と闘う方面へと向うわけでもない。作者は前作で労働者とその敵をめぐる小説を描き上げたと先に記しました。しかし、この小説はその方途へ向かうのでもない。

そのような巧妙なバランスを作り上げた上で、最後に作者の津村記久子は、そのどちらでもない、現代の働く人たちにとってありうべき〈連帯〉の新たな仕方を描きます。

物語の終盤、重信は自分がインポテンツであることを奈加子に告げ、奈加子は初めて笑顔を見せます。わたしはそこに、現代の会社員にとっての新しい〈連帯〉があると考えます。

少しうがった見方になるかもしれませんが、インポテンツである重信は性的に〈つながる〉ことができない。しかし、二人の会社員にとって、そんなことはどうでもいい。大事なのは敵と戦うことでも、無理やり恋愛のなかで〈つながる〉ことでもなく、〈共鳴〉すること。誰かと〈緩やかにつながる〉こと。過剰な結びつきを排し、闘争状態へと自己を追い込むことでもなく、いつでも切断可能な、そうした新しい〈連帯〉があることによって〈働く〉ことが可能になる。そのような情景を描くこと。それこそが今の時代、会社員にとっての〈働く〉ことの指針となりうるのではないでしょうか。


今回紹介した本

『人はなぜ働かなくてはならないのか』

小浜逸郎 (著)
出版社:洋泉社
出版年:2002年

book-1

『君たちはどう働くか』

今野晴貴 (著)
出版社:皓星社
出版年:2016年

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『ワーカーズ・ダイジェスト』

津村記久子 (著)
出版社:集英社
出版年:2011年

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photo by Takayuki Miki (三木貴幸)

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長瀬海(ながせ・かい)
1985年千葉県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科修了。ケーブルテレビ系の通信・放送会社勤務を経て、ライター・インタビュアー・書評家へ転身。音楽、文学が専門。現代日本文学、海外文学、エンタメ、SFなどジャンル問わず書評します。
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