【前編】名物TVプロデューサー“T部長”が誕生するまでの苦難の道のり・土屋敏男(テレビプロデューサー)

失敗ヒーロー!

2018/02/27
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華々しい成功の裏には、失敗や挫折がある。その失敗エピソードから成功の秘訣をヒモ解く『失敗ヒーロー!』。今回ご登場いただくのは、『進め!電波少年』のTプロデューサーとして90年代のテレビ業界を牽引された土屋敏男さん。テレビ業界のレジェンドとして、多くのヒット番組を作り出してきた土屋さんが大事にされてきた哲学とはいったい——。テレビとともに歩んできたご自身の長いキャリアを振り返っていただきつつ、数々の失敗を大胆にも裏返してしまう秘訣を聞き出しました。

他人の人生を見透かしてしまうワイドショーが原点

――まずは、土屋さんがテレビ業界に入られたきっかけからお話いただけますか?

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土屋敏男(つちや・としお)
1956年生まれ。一橋大学を卒業後、日本テレビに入社。ワイドショーのディレクターを経て、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』で初のバラエティ番組を担当。この時、テリー伊藤と出会い、バラエティ番組制作のノウハウを学ぶ。また、ほどなくして、萩本欽一に出会い、エンターテイメントの本質を知る。その後、1992年に『電波少年シリーズ』を手がけ、大ヒットを飛ばす。ダース・ベイダーのテーマ曲とともに登場するTプロデューサーはお茶の間の人気キャラクターとなった。2005年には、第2日本テレビ事業本部で活躍。また、2012年にはテレビ番組制作ではない新規事業として「人生の映像化」を提案する『LIFE VIDEO』の事業に着手。現在、1964年の東京をVRで再現する一般社団法人『1964 TOKYO VR』の代表理事を務める。

土屋敏男(以下、土屋):こないだね、高校の同級生に会ったら、俺、高校の時からずっとドキュメンタリーを撮りたいって言ってたんだって。高校時代は新聞部だったし、目指す方向はマスメディアの方にもともと向いてたのかな。ただ、直接のきっかけは、大学三年生の時に学園祭で企画した「クラブ対抗歌合戦」。学園祭って普通は、プロのミュージシャンを呼んでコンサート開くんだよね。でも、俺は大学生による大学生のための催し物をやりたくて。俺の通ってた一橋大学にはクラブごとに代々伝わる春歌(*猥褻な内容の歌詞を含む歌)があったんだよね。どれもくだらなくて面白いから、クラブごとに披露してもらう場を作ろう、と。そうしたら、参加者もお客さんもみんな喜んでくれて。その時、初めて人を楽しませる仕事っていいなぁって思ったんだ。

――テレビ業界に対する憧れはあったんですか?

土屋:全くなかったなぁ。だいたいね、今も、採用の面接でテレビを見るのが好きだから受けに来る奴がいるんだけど、大抵ダメなんだよ。好きだからって来るんじゃねぇ、って思っちゃう。そうじゃなくて、作りたい、世に送り出したい、っていう強い気持ちが大事なんだ。憧れだけで番組は作れない。そんな生易しいものじゃないんだよ。

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――土屋さんは1979年に日本テレビに入社されます。最初は編成部からキャリアをスタートさせたと伺いましたが、その当時、理想と現実のギャップなどは感じられましたか?

土屋:編成部って、いわゆる事務方なんだよね。俺は番組を作りたかったから制作に行きたかったんだ。でも、その夢は最初叶わなかった。先輩に、どうすれば制作に行けますかって聞いたら、企画書を書いて持って行けばいいんじゃない?って言われて。それで、毎週1本書いて、制作のデスクに勝手に持って行ってた。1年で50本、2年で100本。120〜130本くらい書いた3年目にようやく企画が通って、制作に異動するきっかけを作ることができたんだ。

本当は、当時、日本テレビでやっていた『アメリカ横断ウルトラクイズ』の制作に携わりたかったんだ。でも、最初に配属されたのはワイドショー。俺、今でもそうなんだけど、他人の結婚や不倫や離婚とか興味ないの。当時も嫌々、インターホンを鳴らして突撃インタビューをしては怒られて、またインターホンを鳴らしての繰り返し。でもね、ある時、記者会見の場で16歳くらいの元体操選手の女の子のスキャンダルを追及している光景を眺めてたら、その子の人生が全部見えちゃった気がしたんだ。テレビってこんなところまで映しちゃうんだって驚いた。その体験が強烈なインパクトを残したんだと思う。今から考えると、後に『電波少年』を始めた時の着想はワイドショーでの経験が根っこにあったんだろうなぁ。

自信が打ち砕かれた初めてのバラエティ

――25歳くらいで、後の名物プロデューサー“土屋敏男”を形作る原体験をしたわけですね。

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土屋:ワイドショーを担当させてもらってテレビの特性を知ることができたと思う。その後、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』がスタートする時に、プロデューサーのテリー伊藤さんのもとでディレクターをやらせてもらうことになったんだ。俺はもともとバラエティがやりたかったから、自信はあった。俺にも面白いVTRが撮れると思って、青森の田舎で育った人間が東京に初めて出てきて、驚きの連続を経験するっていうロケを撮ったの。

でも、それをスタジオに出したら、出演者もお客さんも誰一人笑わないんだ。地獄の15分だったよ。VTRが終わって、スタジオに切り替わったらたけしさんが「これは放送では無いことになるので気にしないでください」ってお客さんに言うんだよね。ショックだったなぁ。テリー伊藤さんも、こいつにやらせてもダメだなってことで、それから半年くらいは一人でロケに行かせてもらえなくて。俺、才能無いのかなって、リアルに泣いてた。初めて絶望を味わったね。

――そんな時代もあったんですね……意外です。その挫折をどのように乗り越えたんでしょうか?

土屋:もともと負けず嫌いで諦めが悪い性格なんだと思う。だから、とにかく諦めずに、見よう見まねで笑えるVTRの作り方を必死で考えたね。その時学んだのが面白そうなことと、実際に笑えるVTRは別物だっていうこと。笑わすためにはある種のテクニックが必要なんだ。悔しかったから、どうにかして笑わすことができるVTRの作り方を必死に学んだ。半年くらい経った頃に、一人でロケをしてこいって久しぶりに言われたんだ。自分なりに笑えると思うVTRを撮って、スタジオに出して、出演者とお客さんの反応を手に汗握りながら窺った。そしたら、笑ってくれたんだよ。めちゃめちゃ気持ちよかったね。一生自分はお笑いディレクターの世界でやっていきたいって思えた瞬間だったね。俺の「諦めの悪さ」が吉と出たんだ。

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