2017/06/08 公開

宮藤官九郎の「非シリアスさ」を褒め足りない

現代偉人論 その6

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好きな映画を問われたときには、『GO』が好きだと即答している。好きな理由は明快だ。この映画によって、人生を変えられてしまったからだ。『GO』をみて、映画監督になりたいと思った。なぜそんなことを思ったかも、とても明確に覚えている。「人種差別という題材を、こんなふうに明るくユーモアを爆発させながら、かつシリアスに描くことができるなら、自分もそんな映画を作りたい」と、高校生の私は思ったのだった。

父はアメリカ人で、母は日本人、日本に生まれて日本に育ったが、私はストレートな日本人じゃない。日本の社会にうまく溶け込めるように、なんとか周りから浮かないように、子供のころから自分の中の外国人性を押し殺してきた。しかし2001年、高校二年生の秋、『GO』をみて考え方がガラリと変わる。ストレートな日本人じゃないことを押し殺すのではなく、そうやって悩んできたことを俺もいつか、物語にしたい。そう思うようになった。

映画『GO』の原作が直木賞をとった金城一紀の小説であることも、在日韓国人の青年が主人公で、彼が日本人の女性と恋に落ちる物語であることも、何も知らずに劇場に行った。2000年のテレビドラマ『池袋ウエストゲートパーク』(以下、『IWGP』)で窪塚洋介にメロメロになり、相手役も『バトル・ロワイヤル』に出ていた柴咲コウ、しかも脚本は『IWGP』と同じ人らしい、くらいの情報だけ把握していて、単純に彼らを目当てに劇場へ入った。だから映画が始まってすぐに、主人公が「日本人じゃないこと」に戸惑ったのを覚えている。主人公が日本人じゃない日本映画を、生まれて初めて見たのだ。

戸惑ったのも束の間、私はすぐに笑っていた。「主人公がナニ人か」という問題を、脚本の言語感覚がブッ飛ばしていたからだ。映画を見ているときは脚本家の名前を知らなかったが、見終わって、エンドロールで確認するだけでは気が収まらずパンフレットを買って、そこから宮藤官九郎の仕事を追いかける人生が始まった。

宮藤官九郎は、どのように脚本という仕事と向き合っているのだろう。何を考え、どのような哲学をもってして、世界を面白がっているのだろう。今回はその方法を、彼の仕事から学んでいきたい。

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宮藤官九郎は、脚本家としてのキャリアを原作モノの脚色からスタートさせている。『IWGP』も、『GO』も、もともとは小説が原作だ。それぞれの原作における主人公は、クールで知的で、言ってみればスーパーヒーロー。しかし、映像化された作品を見てみると、主人公はスーパーヒーローというには少し間が抜けている。面倒くさがりの、そのへんにいそうな若者として描かれる主人公は、原作よりも親近感をもてるキャラクターになっている。

ここには宮藤官九郎の「戦略」があると言えるだろう。『IWGP』の脚本を手がけるさいに、主人公のキャラクターを原作から大きく変えた理由を、彼はインタビューで次のように答えている。

たぶん僕自身が10代、20代の時に、ドラマの主人公になるような生き方をしてないからだと思うんですよね。どっちかって言うと名前もない役で――まあ俺は俺が主役だと思って生きてるけど(笑)――パッと俯瞰で見た時に突き抜けた感じじゃ絶対ないじゃないですか。(略)だから、俺と同じところどっかないかなって考えたときに、母親にだけ全然接し方が違うとか、「ああ、俺もそういうとこあるわ」みたいなところを何個か用意したんですよね。それがないとなんかこう、立体的じゃないというか、自分のものじゃない
(宮藤官九郎インタビュー「特集:テレビドラマの脚本家たち」『ユリイカ』青土社、2012年5月号、175—176項)

『IWGP』を書くにあたって、スーパーヒーローのような主人公を自分に引き寄せるために、自分のものにするために、宮藤官九郎は原作にない設定をいくつか付け足している。わかりやすい例でいえば、主人公が素人童貞であることが母親にバレている設定だ。よくOKが出たなと思うほど原作と違う主人公像になっているわけだが、繰り返す、これは宮藤官九郎の「戦略」なのだ。知的でクールな小説の主人公に、情けなさを加えることで、主人公の愛嬌を引き出している。

では、なぜこのように、主人公から愛嬌を引き出す必要があるのだろう。それは、主人公の日常生活を魅力的に描くためだろう。映画やドラマで大切なのは、ドラマチックじゃない部分、取るに足らない日常をどう描くかだ。そして映像作品では知的でクールな主人公よりも、愛嬌のある主人公のほうが日常にユーモアをもたらしやすい。いかに日常の生活を魅力的に描けるかが脚本家の腕の見せ所で、宮藤官九郎はそういった場合、これでもかというほど、ギャグを詰め込む。そこには、彼の強いこだわり、仕事哲学があるはずだ。

*

ここでは、冒頭で触れた『GO』の脚本を見てみよう。宮藤官九郎は原作に脚色を加えているのだが、それはどんなものだろう。例えばシーン8、上映開始9分40秒の場面。主人公の家族が食卓を囲んでいるこの場面は、原作では冒頭、つまり作品のオープニングを飾る重要な場面だ。〈朝鮮籍で共産主義者の父親がテレビに映る特番を見つめながら「ハワイか」とつぶやく。すると、それを聞いた母親が小さくガッツポーズをして、父親がハワイ旅行に生きたくなるように彼の肩を揉む。〉そんな日常の一コマだ。さて、では同じ場面を宮藤官九郎は、どのような脚本に置き換えたのだろうか。重たいテーマの物語を描くときに、日常生活の部分で、宮藤官九郎はどのようなギャグを入れているのだろう。

補足しておくと、次に引用するシーンの直前に脚本で描かれるのは、警察署でのやりとりで、〈補導された息子を引き取りにきた父親が警官の目の前で息子をボコボコに殴り、家庭裁判所に出向かなくてすむようする〉といったドラマチックな場面だった。「杉原」というのが主人公の名前で、「秀吉」が父親、「道子」が母親の名前となっている。

  TVの中、芸能人がハワイで楽しそうにゴルフや買い物をしている映像。
   それをぼんやり、見ている秀吉。
   ご飯を食べている杉原。腫れあがった顔。
   道子はしゃぶしゃぶの肉をお湯に潜らせる。
道子「ほれ」
杉原「……(うんざり)」
   杉原のご飯の上にタレに漬けた肉を乗せる道子。
   杉原、リモコンでTVのチャンネルを変える。
   道子がすぐ元のチャンネルに戻す。
道子「いくらアンタがイキがったって、お父さんには勝てないの。
   日本ランキング第7位だものホレ」
杉原「……なんで全部やっちゃうんだよ、自分でシャブシャブさせろよ!」
道子「母ちゃんがやった方が美味しいんだよ、ほれ」
杉原「シャブシャブさせろよ」
道子「母ちゃんがやった方がウマいの!」
秀吉「ハワイかぁ」
道子「……おし、もらった! (小さくガッツポーズ)」
秀吉「ハワイなぁ」
杉原「なんだオッサン、行きてえのか」
秀吉「どこに?」
杉原「こないだまで『堕落した資本主義の象徴』とか何とか言ってたくせに」
   壁に金日成の肖像画。
道子「そんなね、主義なんて流行んないの。
   ベルリンの壁だってソ連だって寒さに負けたんだから。
   寒いと鼻ん中凍っちゃうでしょ。だから主義も凍るの」
秀吉「……(おもむろに立ち上がる)」
道子「どこ行くの?」
秀吉「ハワイ」
杉原「え?」
秀吉「そうだ、ハワイへ行こう(と出て行く)」
(宮藤官九郎『GO』角川書店、2003年、11−12項)

いかがだろうか。〈知的でクールな小説の主人公に、情けなさを加えることで、主人公の愛嬌を引き出す〉という宮藤官九郎の得意技を感じていただけただろうか。このシーンには、原作とも、物語の進行とも、まったく関係のないギャグが3つ仕込まれている。一つ一つ、みていこう。

まずは「自分でシャブシャブさせろよ!」という母への文句だ。こんなセリフを一生に一回でいいから書いてみたいと思うほど意味がない。「シャブシャブさせろよ」というセリフひとつで母と主人公(息子)の関係性が見事に表現されていることに注目したい。

続いて、「寒さで凍る主義」についてのギャグ。この部分は、原作では「寒さって、人の心を凍らせるのよ。主義も凍らせてしまうのよ……」と母親が哀切をこめて芝居を打っているが、映画では「寒いと鼻ん中凍っちゃうでしょ。だから主義も凍るの」と、ずいぶんセリフのニュアンスが変わっている。鼻の中が凍ると、主義も凍るのか? そんな話は聞いたことがないが、この一言によって母親のデタラメさが原作よりも明るい方向に強調されていると言えるだろう。

加えて、原作ではギャグを言わない父親が、映画では珍妙なセリフを口にすることにも注目してほしい。つまり3つ目のギャグである「そうだ、ハワイへ行こう」は、鉄道会社のキャッチコピー「そうだ 京都、行こう」のパロディで、父親のこのセリフにより、食卓を囲む全員がユーモアのあることを言っている。

*

と、細かく宮藤官九郎のギャグをみてきたが、ここで大事なのは、日常生活のなかで「ハワイへ旅行する」という意思決定がユーモアを交えて描かれていることだ。では、なぜそこに笑いの感覚が必要だったのだろう。それは、この直後の展開と深い関係がある。

食卓での日常生活が描かれた次の場面で、主人公たちは大使館にいって「朝鮮籍」から「韓国籍」へと国籍を変える。あまり日常的ではないが、シリアスな場面だ。そして物語が進んでいくうちに、「国籍なんて変えられる」ということを父親が息子に示すために「ハワイ旅行」が口実として使われたことがわかってくる。いっけん日常の一コマにすぎない「ハワイかぁ」というセリフがキッカケとなって、「俺はナニ人だ」という物語の大きなテーマが動き出す。食卓で何気なく口にされたハワイに行く決断は、実は一大事だったのだ。

宮藤官九郎は、物語のシリアスな要素や重いテーマが直後に出てくることを見越して、原作には登場しないギャグを3つも食卓の場面に埋め込んでいるのだろう。主人公だけではなく、食卓を囲む全員がユーモラスなことを口にする。このような日常生活のギャグがあることで、シリアスな題材の物語が「普遍的な青春映画」として表現されているのだ。

物語の進展と関係のなさそうなギャグが、そこかしこに埋め込まれているからこそ、私は『GO』のシリアスなテーマを受け止めることができた。主人公が日本人じゃない日本映画の、その主人公が「俺はナニ人だ」と自問自答しながら自分の殻を破ろうとする姿を、シリアスな要素だけで描いていたら、『GO』は私の胸をあんなにも明るく打つことはなかっただろう。自分の国籍や人種について悩むこと。その深刻さ、重たさを知っているからこそ、もしシリアスな側面ばかりが描かれていたら、ただひたすら息苦しかったに違いない。

つまり、逆説的なのだが、シリアスなメッセージを伝えるには、日常生活の場面で非シリアスな要素をどう入れるかが大事になってくるのではないか。宮藤官九郎の脚本を読むと、そのことに思い当たる。この「シリアスと非シリアス」のブレンド具合こそが、彼の脚本の真骨頂と言えるわけだが、2008年に東野圭吾のミステリー小説『流星の絆』を連続ドラマ化するさい、宮藤官九郎はエッセイの中でこんなことを書いている。

シリアスと非シリアス。
下ネタ同様、自分の中の大きなテーマです。本気と冗談と言い換えてもいい。
ドラマを書き始めてちょうど10年が経ちますが、今でもその匙加減に悩んでしまう。ちょうど今『流星の絆』というドラマを書いていて、これがまたシリアスなテーマを扱っている。何しろ主人公は両親を惨殺されていますから。それでも隙あらば冗談を書いてしまう自分がいる。
(略)
おそらく僕という人間の日々の過ごし方、日常の捉え方の問題ではないかと思います。常日頃、自分の周りで起こっている事をシリアスに受け止めるか冗談と受け止めるか。まあ僕は後者なんですけど”
(宮藤官九郎『いまなんつった』文春文庫、176—177項)

宮藤官九郎の仕事哲学が垣間みえる文章だ。常に冗談を探すのが「普通の生活」としてリアルだと感じるからこそ、シリアスと非シリアスの匙加減に悩みながらも、宮藤官九郎は脚本に冗談やギャグを書き込む。むしろテーマがシリアスであればあるほど、日常生活のパートに冗談を放り込むことで、登場人物たちの日常を一生懸命に「普通」に描こうとしているのだと思う。

宮藤官九郎は、人種差別の問題や遺族の悲しみを描くさいに、登場人物たちに延々と深刻な顔をさせない。そうではなく、宮藤官九郎は冗談を言い合う彼らの「普通の生活」をユーモアを交えながら魅力的に描く。そうした方が、問題の核心を浮かび上がらせるのだ。少なくとも私にとってはそうだった。非シリアスへのこだわりは、そのような信念を感じさせる。

*

さて、それでは最後に、宮藤官九郎がシリアスと非シリアスのバランスを実際どう書き分けているのか見ていこう。非シリアスなセリフ、つまり冗談を書く時には、どんなことを考えているのだろう。シリアスな作品の中に、非シリアスな要素を入れるには勇気がいる。だって、そんなことをしたら普通は怒られるから。そのあたりの、彼の仕事哲学が表出している部分がこちら。

一般的にテレビは表現の規制が激しいと言われています。でもその殆どは自主規制、明確な線引きはありません。関わっている人間の倫理観が物差しです。(略)思いもしないセリフがNGだったり、逆に叱られる覚悟で書いたセリフがスルーだったり。日々ルールが更新されているので気が抜けません。
 (略)
 僕にとっての作家生活は「あ、いいんだ」と「あ、ダメなんだ」の繰り返し。でもそれで良いと思っています。怒られたらやめればいい。怒られる前に控える必要はない。失言や暴言で大臣が辞職するご時世だからこそ、敢えて踏み込んで行こうと。幸い僕は何大臣でもないし身近に注意してくれる人もいるし、何より作品を楽しんで欲しいので、これからも数少ない「あ、いいんだ」を目指して頑張ります
(宮藤官九郎『え、なんでまた?』文春文庫、180−181ページ)

「あ、いいんだ」を目指すこと。宮藤官九郎は、シリアスと非シリアスのバランスを考えながら、ギャグを入れるときは「叱られる覚悟」で放り込むのだ。この勇気を見習いたい。

ここには「炎上の時代」を生き抜くためのヒントが隠されているように思う。私たちだって、さいわい、何大臣でもないではないか。もし、身近に注意してくれる人がいるのなら、せめて企画書・提案書を書くとき、打ち合わせの場では、「叱られる覚悟」で、自分が面白いと思ったことをぶつけるべきなのではないだろうか。叱られる覚悟で作られたものだけが、広げられる世界が確実にある。実際、宮藤官九郎はそうして「世界」を広げてきた。

悲しくないと笑えないし、笑えないと悲しくない。単純なのか複雑なのか、シリアスと非シリアスの匙加減に答えはないのだ。そのことに感謝しながらも、叱られる覚悟で、宮藤官九郎の仕事哲学をしっかりと継承していこうと思う。この文章をシリアスに書きすぎたことを、ちょっとだけ反省しながら。


photo by Lucas

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髙畑鍬名(たかはた・くわな)
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