2017/04/21 公開

雨宮まみの「横書き」を褒め足りない

現代偉人論 その5

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忌野清志郎が亡くなった翌日に、彼の死を一面で報じるスポーツ新聞を買った。そのあともキャンディーズの田中好子が亡くなったときにスポーツ新聞を買った。映画のための小道具にしようと思ったのだ。愛するスターが亡くなったときの新聞を、いつか自分が監督する作品の中で登場させる。それが自分なりの追悼だと思っていた。でも、原田芳雄が亡くなった翌日の一面を飾ったのが彼ではなくラモス瑠偉の母親の死だったときに、コンビニで、なんでだよと思って、あれ、今、なんてことを思ってしまったんだ、と思った。俺は人の死に順位をつけているのか。そんなはしたないことを、やりたいわけじゃない。それからは自分のスターが亡くなってもスポーツ新聞を買わなくなった。2011年のことだ。

でも、去年の11月に、雨宮まみが亡くなったときに、彼女の訃報を一面で報じるスポーツ新聞があればいいのにと思った。知り合いでもないのに、そのニュースに驚いて、取り乱して、気持ちの持っていきどころがなく、そのときにふと、昔スポーツ新聞を買っていたことを思い出した。雨宮まみは自分にとってスターだったんだなと、そんな感覚が逆説的に、はしたなく、とても悲しく胸にこみあげた。寂しいけれど、あらためて今ここで、彼女の冥福を祈りたい。

ご存知ない方にも説明すると、雨宮まみは、2013年から2年連続で流行語大賞にノミネートされた「こじらせ女子」という言葉の生みの親。2015年に発売された『東京を生きる』では、著者紹介のところに、こんな言葉が書かれてある。

〈ライター。アダルト雑誌の編集を経て、フリーライターに。女性の自意識との葛藤や生きづらさなどについて幅広く執筆。女性性とうまくつきあえなかった頃を描いた自伝的エッセイ『女子をこじらせて』出版後、「こじらせ女子」がブームとなる〉

雨宮まみがこの世からいなくなってから半年が経つ。胸の奥にしまってきたけれど、やはり褒め足りないことがある。彼女にはもう届かないことを承知で、雨宮まみの「横書き」の素晴らしさについて書いていきたい。

雨宮まみの横書きの文章は日本で一番だと思う。今でも思う。どのように素晴らしいか説明を続けるよりも、実際に読んでいただくほうが、話が早く、彼女の横書きの息づかいを感じることができると思う。彼女の文章を読んだことがある人も、初めて読む人も、ここであらためて、大和書房のウェブサイトへ飛んで、『東京を生きる』の冒頭の一章、「はじめに」を読んでみてほしい。

後ろめたさと、愛と憎しみ。故郷へ、両親へ、そして自分へ、雨宮まみは歯をくいしばるように句読点を打ち込んでいく。そうやって綴られた文章は、ウェブで、横書きで黙読されるときに、いちばん熱を放つのではないだろうか。

縦書きの文章はそれだけで詩的だ。日本語は縦に組まれるだけで情緒がある。でもインターネットの横書きの文章には、熱をこめにくい。それなのに雨宮まみの句読点には熱がこもっている。黙読しているうちに、自分の声と彼女の声がユニゾンするような、不思議な声が生まれていく。

そんな彼女の横書きがどうやって生まれてきたのか振り返りつつ、その熱に触れていきたい。

『女子をこじらせて』はポット出版のウェブサイトで連載されていたエッセイが一冊にまとめられたもので、当初の連載タイトルは「セックスをこじらせて」だった。雨宮まみのライター人生を大きく変えたのは「ウェブ連載」の横書きによる文章だった。連載のタイトルにもなったように、セックスをこじらせ、女子をこじらせ、そういったセンセーショナルな告白の部分に焦点があいがちだが、この本は、文章を書くことに憧れた人間が、自由に思うまま自分の文章を書く勇気を手に入れるまでの格闘の記録だ。

自由が欲しいと、心から思いました。何を言っても、書いてもよい自由。自分自身を女から無理に切り離すのでも女だけを前面に押し出すわけでもなく、女であることも含めて自分なのだとはっきり言える、自分の文章を書く自由。そんな自由は、なかったわけじゃない。いつでもそこにあったのに、ただ私が『何か言われて非難される』ことが怖くてつかみ取れなかっただけでした。(雨宮まみ『女子をこじらせて』幻冬舎文庫、2015年、192頁)

憧れていた職業につき、その仕事を始めたからこそ深く傷つき、おびえ、でも最後には、やはり自分のために、自由に、やりたいことをやる覚悟を決める。そういった意味では、この本は、普遍的な仕事術、ビジネス書の側面もあると思う。

「本当にしたいこと」「やりたいことをやる」なんて、すごい才能のある人にしか許されていないことのように思っていましたが、べつに自分がやったっていいわけです。何か選択肢が目の前に現れたら、自分が楽しそうだと思ったほうを取ろう、選択肢がなかったら自分がいいと思うほうに進もう。そう思って、今までそう思えなかった自分は異常だったと気づきました。(略)
目の覚めるような感覚でした。好きなことを自由に書いてもいいんだと思うと、怖かったけど嬉しくて、書き始めたら止まらなかった。これを諦めるなんて、とんでもないバカなことを考えたものだと思いました。死にたくなって当然です。こんな楽しいことを我慢していたのですから。
そうしてのびのび好きなことを書いた、どちらかというと稚拙な文章は、それまで書いた中でいちばん好きな文章になりました。自分のことを心から好きになれる可能性がまだあるのだと感じました。(同、198—200頁)

雨宮まみは、ずっと「才能」について書いてきた。女性だけではなく、男性にも彼女の良さが届いて欲しいと願うのは、そういった「才能」についての文章だ。選んだ仕事に誇りをもって、自分にはこれしかないんだと覚悟を決めるその姿は、誰しもの胸を打つと思う。

文章を書くことには、巨大な才能が要ると思っていたし、才能のない人間の書く文章なんていらないと思っていた。なのに自分が文章を書いている。巨大な才能を持たない自分が、持ちあわせた小さな能力をなんとか使って生き延びようとしている。
自分は天才ではない。けれど、気がつけば書くこと以外の人生を考えられなくなっていた。才能について考えても、文章が上手くなるわけではない。少しでも偉大な才能に近づきたいのなら、ただ書くしかない。絶え間なく、書いて、書いて、書き続ける毎日は、氷の上を歩いているようだと思うときがある。いつ薄氷を踏み抜いて、その下にある刃のように冷たい水の中へ落ちてゆくかわからない。(雨宮まみ『東京を生きる』大和書房、2015年、80−81頁)

これは藤圭子の歌に触発されて書かれた文章だ。藤圭子が亡くなり、娘の宇多田ヒカルがMCをしていたラジオ番組の代打を都築響一がつとめ、その最後に藤圭子の「マイ・ウェイ」が流れた。その歌を聴いた夜のことについて書かれている。はずだ。いつ、どのように藤圭子の歌を聴いたのか、そこまで詳しく書かれていない。しかし2016年の10月11日、私はそのラジオを聴いていて、雨宮まみもtwitterに「うっそ、宇多田ラジオ、最後の曲、藤圭子の『マイ・ウェイ』くる」とつぶやいている。

私はここで豆知識を披露したくて細かい話をしているのではない。この、雨宮まみによる「マイ・ウェイ」と題された文章こそが、日本語の横書きの一つの到達点だと思っている。単行本で、縦書きで読んでも胸を打つのだけれど、初めて横書きで読んだときのように、もう一度感激したくて、そのありがたみを伝えたいのだ。日本語の横書きの未来のために、あの文章をウェブでも読めるようにしてほしい。

さて、雨宮まみの「横書き」についての思いのたけを書き切ったうえで、もう一つ、手短に、彼女から引き継いでいこうと私が勝手に思っていることについて。それは自分の仕事を愛する方法のようなものだ。

雨宮まみは、文章を書くのが好きな人だっただけではなく、読むのも好きだった。『まじめに生きるって損ですか?』という本では、人生相談というにはスケールの小さい愚痴を読者から募り、彼女がそれらの愚痴を聞いていく。そんな風に少し変わったアプローチの人生相談だが、いちばん変わっているのは、愚痴にたいする雨宮まみの最初の挨拶だった。

【努力ってなんだよ!?】

非常にビビッドで、ひとことでは説明しづらい感情をぶつけてくださってありがとうございます。まず、本題とは関係ないですが、おくやみさん、文章がお上手ですね。普通、こういう微妙な心の機微って、うまく言葉にできないものなんですよ。非常にスムーズに読めて心にスッと入ってくる、こんな文章はなかなか書けません。(雨宮まみ『まじめに生きるって損ですか?』ポット出版、2016年、15頁)

いかがだろうか。人生相談、読者の愚痴を聞く企画なのに、最初に相手の文章を褒めている。こんな人生相談は見たことがない。

【小沢健二似の美しい元彼】

「すみません、これ、小説にしていいですか?」と聞きたくなるほどの、すばらしいディテールの書き込みぶりに惚れ惚れしますね。「小沢健二似」でグイっと引き込まれ、そこからは「あんな感じのルックスでこんなこと言われたら『私のほうが間違ってる』って思っちゃうよなぁ……思っちゃうよねぇ……」の共感の嵐。そして現れる新彼女は、いま最も元彼の新彼女として殺傷力が高いと思われる、水原希子!(同性から見て、嫌える要素や憎める要素が一切ない)そこにダメ押しでくる「あの子を守ってあげなくちゃいけないから」……! きえええええー!(同、59頁)

この感じ。文章を書くことが好きで、でも、読むことももっと好きで、書く人、読む人、そのすべてを祝福するような言葉を、出し惜しみせずに私たちに届けてくれる。そういう人を失ったのだと、半年たっても信じることができない。

最後に、日本語の横書きの未来のために、彼女が「才能」について書いた文章のなかで、いちばん心に残っているものを引用したい。雨宮まみさん、あなたの句読点は、これからも私たちの宝物です。

仕事がまったくないのに「ライター」と名刺に刷るのはとても恥ずかしかった。ライターに「なる」のに必要なのは、仕事なんてなくても「ライター」だと堂々と名刺に刷る、そのずうずうしさだけだと今も私は思っています。名乗った者勝ちなのです。どんなに文章が下手なライターであっても、その最初のずうずうしさを発揮し、仕事を取ってきたのだったらそれで「ライター」と名乗る資格はあるのです。
みなさんは「なんでこんな文章下手なやつが本とか出してんの?」と思ったことはありませんか? たとえ文章が下手でも、その人は「私、こういうのやりたいです」と仕事を取るずうずうしさや押し出しの強さがあったのです。それは一つの才能だと私は思います。「私にはちょっとできません」「私みたいな下手なのが本だなんて……」なんて言っていたら、どんなに上手くても本なんか出せない。そういうものです。私は謙遜という美徳をこの時捨てました。(『女子をこじらせて』、134頁)


photo by barbara w

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髙畑鍬名(たかはた・くわな)
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