高木新平/NEWPEACE代表 頭で考えても自分らしさは見つからない【前編】

2019/04/16
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成功の裏には、逆境が隠されている。そんな逆境をはねのけ活躍する“インディペンデントな人たち”の成功の秘訣に迫る『逆境ヒーロー!』。今回はNEWPEACE代表の高木新平さんが登場。フリーランス時代から『よるヒルズ』編集長として注目を集めていた高木さんですが、NEWPEACE設立までにはやはり逆境がありました。空っぽな自分に対する虚しさと向き合い、どのようにして自分らしくいられる場所までたどり着けたのか、詳しく伺っていきます。

服作りにこだわった学生時代

――早稲田大学時代は、洋服を作っていらっしゃいましたよね。どのような大学生生活を送っていたのでしょうか?

高木新平(たかぎ・しんぺい)Vision Architect / NEWPEACE CEO
大学卒業後、(株)博報堂に入社。SNSなどを活用した統合クリエイティブに携わった後、独立。「よるヒルズ」「リバ邸」などコンセプト型シェアハウスを全国各地に立ち上げ、シェアハウスブームを牽引する。また、ネット選挙運動解禁を実現した「ONE VOICE CAMPAIGN」を主導、2014年の東京都知事選でネットをフル活用した選挙戦をプロデュースする。 2015年4月 VISIONING COMPANY「NEWPEACE」を創業。社会文脈を起点としたビジョン作りを武器として、2025年までに50個のビジョンを打ち出すことを掲げる。自動運転、シェアリングエコノミー、クラウドホーム、フィンテック、D2C、卓球日本代表など、新たな潮流を仕掛け続けている。ベンチャーキャピタル「NOW」、イノベーション政策共同体「Public Meets Innovation」理事も務める。

高木新平(以下、高木):もっと早慶戦とか観に行きたかったですけど、大学ではほとんど服作りしかしてないです。地元の富山では自分はイケてるほうだと思っていたのに、受験で東京に来た時、みんなすごくカッコよく見えて、負けてられないなと青髪で入学式に行ったんです。そしたら誰からも勧誘してもらえなくて、サークルに入りそびれてしまったんですよ。まさか新入生じゃないよね? みたいな目で見られて(笑)。服作りを始めたのは2年生からで、結局卒業までみっちりやりましたね。

――服作りにはどういったところにこだわりを持っていたのでしょうか?

高木:僕はただ服のデザインを考えるというより、普通のおばさんとか子どもの生活を観察して、その人たちが自分の個性を表現できる服を考えるのが好きでした。例えばいつも羽織を着ていたおばさんがいたんですけど、庭を手入れする時はいつもそれを脱いでから始めるんです。その庭の手入れをしている時間を何かデザインできないかなと考えた時、大きい黒い布に紅葉の切り絵を描いた羽織を作りました。手入れの時に脱いでハンガーに掛けると、差し込む夕日によって紅葉の絵柄が浮かび上がる仕掛けです。その人のライフスタイルだからこそ生まれるデザインの服を作って発表していましたね。

それはそれで楽しかったんですが、ファッションショーをやろうと思ってもチケットが手売りで大変というのが悔しくて。いくら努力しても、やっぱり知られないと意味がないんだなと思ったし、特別服にこだわらなくてもいいかなと思い始めました。その時にたまたま出会った博報堂の人が言っていた「生活者発想」というビジョンに感銘を受けて、博報堂に入ることを決めたんです。

僕にとってシェアハウスは、孤独からのセーフティネットだった

――博報堂ではどういったお仕事をされていたのでしょうか?

高木:博報堂ではみんな自由に複業しまくっているし、職場環境は最高だったんです。ちょうどTwitterやFacebookが盛り上がり始めたタイミングで、僕はそういったSNSを使って企画を立てていく「インタラクティブ・プランナー」という仕事を希望して、無事その職種に就けました。といっても、新卒で希望していたのは僕だけだったんですが(笑)。

「インタラクティブ・プランナー」として任せてもらえた仕事の中に、「原発は安全だ」と伝えるための企画仕事がありました。SNSを通じて原発の安全性について生活者とフラットに議論したいと言いながらも、結局広告として都合のいい情報だけ載せる仕様っていうのが納得できなかった。広告なら広告としてやるべきだし、中途半端な態度が一番よくないと思ったんです。僕は入社1年目だったけど、「そんな嘘はバレますよ」とか「そんなんじゃ本当の議論も信用も作れないですよ」とか言いたいことははっきり言ってましたね。でも営業部長から「大人になりなさい」と叱られてしまって。

――そういった自分の気持ちとのジレンマが、独立するきっかけとなったのでしょうか?

高木:そうですね。ちょうどそのタイミングで東日本大震災が起きた。世の中的に大きな不安があるなかで、自分の熱量や人生の時間をこういう納得できない形で使っていていいんだろうかとすごく反省したんです。それに、震災で困っている人たちのために、何か自分にできる事をしたかった。でも、震災直後の1ヶ月、企画職は本当にやることがなかったんです。考えたCMもキャンペーンも震災の影響でできなくなって、ただただ力不足を感じる日々でした。

自分にできることはなんだろうと考えるなかで、被災した人たちは写真や思い出の品などいろいろ探しているという状況を知り、これだ!って思いました。誰もがその人に紐づけて写真や想いを載せられるサイトを作ったんです。地元メディアと連携したかったので、個人よりは会社の取り組みとして進めたほうがいいと思って会社に相談したら、「今すぐ削除しろ」と言われてしまって。今思えば企業リスクとして止めた人の気持ちもわからないでもない。でもその当時は若くて熱量があったし、このままだと「やる、やらない」の判断軸を手放して、自分を殺してしまうなと思ったんですよ。それなら博報堂を出て、自由にやろうと決心しました。

――フリーランスとして独立した後の計画はあったのでしょうか?

高木:それが全くなかったんです。とりあえずお金がないから、震災をきっかけに「なんか違う」と思って仕事や働き方を変えようとしている周りの人たちを集めてシェアハウスを作りました。僕にとっては所属する会社もなくなり、地元から離れて家族もそばにいない。当時は本当に孤独だったんです。孤独って、人間の1番辛い状態だと思うんですよ。独りでハローワークのベンチに座っている時に涙が出そうになりました。だからシェアハウスをやってなかったら死んでいましたね。シェアハウスは僕にとって、セーフティネットというか生きていくための居場所でもあったんです。

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