清野とおる「もう赤羽しかない」足掻いた末の最終手段【前編】

失敗ヒーロー!

2020/06/23
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華々しい成功の裏には、失敗や挫折がある。その失敗エピソードから成功の秘訣をヒモ解く『失敗ヒーロー!』。今回は『東京都北区赤羽』のヒットにより、一躍、人気漫画家の仲間入りをした清野とおるさんが登場。この出世作を筆頭に、独特な視点によるルポ漫画で知られる清野さんですが、デビュー時の作風は不条理ギャグ。当時の作風が認められず、苦悩の時を過ごしたといいます。では、清野さんはどのようにしてルポ漫画に舵を切り、現在の成功を手にしたのか。その歩みをヒモ解くと、どん底を知るからこそのチャンスのつかみ方が明らかに!

清野とおる(せいの・とおる)
1980年生まれ、東京都出身。高校在学中の1998年に「ヤングマガジン増刊青BUTA」掲載の『アニキの季節』で漫画家デビュー。2008年より携帯コミックサイト「ケータイまんが王国」で自身が住む赤羽を舞台としたルポ漫画『東京都北区赤羽』の連載を開始。後にドラマ化されるほどのヒット作に。ほかの主な作品に『その「おこだわり」、俺にもくれよ!!』『ゴハンスキー』『清野とおるのデス散歩』などがあり、現在は「東京ウォーカー」にて『東京怪奇酒』を連載中。

一生、漫画家として生きていけると勘違いしていた

――ルポ漫画『東京都北区赤羽』で人気漫画家の仲間入りをされた清野さんですが、デビュー時の作風は不条理ギャグ。当時の作品が評価された理由について、どのように振り返られますか?

清野とおる(以下、清野):これはもう、運が良かっただけですね。タイミングが良かったに過ぎないと思っています。僕の漫画が初めて商業誌に載ったのは1998年のこと。当時は新人漫画家に対して寛容だったし、不条理系のギャグ漫画が一部の人に喜ばれていた時代だったんです。いろいろな漫画雑誌が新人賞を設けていたし、今ならまず掲載されないようなヘンテコ漫画が、ちょこちょこと載っていて。漫☆画太郎先生や吉田戦車先生に和田ラジヲ先生など、名だたる不条理漫画の先生たちが第一線で活躍されていた、不条理系のギャグブームの終盤ですね。デビュー当時の僕もぎりぎり、このブームの恩恵を受けられただけ。ただただ、幸運だったんです。

改めて振り返ってみると本当にあり得ないような、舐め切った作風でしたからね。いくら不条理ギャグがブームだったとは言え、あまりにも支離滅裂な漫画でしたから。今にして思えば、誰かに注意してほしかったですよ、「この作風じゃ先はないよ」って(笑)。それでも当時は、勘違いしてしまったんです。若気の至りというか無謀というか、ただの無知ですよね。時代と運のおかげとは知らず、一作でも商業誌に掲載されれば、そのまま一生、漫画家として生きてけるものだと思っていたんです。当然、そんな幸運は長続きしません。好調だったのは滑り出しだけ。「ヤングマガジン」の増刊号でデビューしたものの、以降はネームを描いてはボツにされる毎日でしたから(笑)。

焦っては転び貧すれば鈍する、負のスパイラル

――漫画家として生きていける。そう思っていただけに、余計にツラかったのではないでしょうか。

清野:好調な滑り出しから一転、一気にどん底まで突き落とされましたね。デビューしてから二作目が掲載されるまでに、1年くらいは要していますから。それでも軌道に乗れず、どんなにネームを描いても認めてもらえない。そればかりか、担当編集からぞんざいな扱いをされるんですよ。打ち合わせのために編集部を訪れても、約束の時間から1時間、2時間と待たされることもザラ。ネームの返事もなかなかくれない。だんだん負のスパイラルに陥って、「僕をぞんざいに扱った担当編集を後悔させるには、どうすべきか」ということばかりを考えていました。完全に負の感情ですよね。そこで移籍を画策。デビュー当時にお世話になっていた「ヤングマガジン」からライバル誌の「週刊ヤングジャンプ」に、移籍を試みるわけです。

今となっては、あの当時の無能な僕に担当をついてもらえただけでも御の字ですし、漫画に関しても一から鍛えてもらったので大感謝していますけど。ちなみにその後、当時の担当さんとは仲直りして、飲みに行ける関係にまでなりました(笑)。

――「週刊ヤングジャンプ」への移籍は、負の感情が原動力だったのですか。そこで始まったのが清野さん初の連載漫画『青春ヒヒヒ』ですね。

清野:『青春ヒヒヒ』も、その次に描いた『ハラハラドキドキ』という漫画も、半年で打ち切りでしたけどね(笑)。連載が始まるたびに自信を回復させては、打ち切りが決まるたびにどん底ですよ。しかも自分がダメな時に限って、友人が結果を出すんです。今も付き合いのある押切蓮介くんとか、当時は同い年の漫画家仲間が何人かいて。彼らが成功すると、どうしても焦ってしまうんですね。焦ってはうまくいかず、次第に自分の粗ばかり気になるようになって。他人のちょっとした仕草や言動が自分を馬鹿にしているように思えて、疑心暗鬼に陥るというか。うまくいかない時は、とことんうまくいかない。負の連鎖です。

板橋の実家を出て、赤羽で一人暮らしを始めたのも、この時期です。負の感情が折り重なって、いたたまれない想いから実家を出たんです。最も苦しかったのが、赤羽に引っ越してから『東京都北区赤羽』の連載を始めるまでの5年間でしたね。ほぼ無職の状態で、貯金を切り崩しながらの生活。さすがに途中からバイトを始めたものの、貯金額が減っていく恐ろしさは尋常じゃないですよ。貧すれば鈍するって、あの言葉は本当ですね。ちょこちょこと載せてもらっていた読み切り漫画も次第に減っていって、1年近く一作も載らない時期もありましたから。

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