【前編】「紙からネットへキャリアチェンジしたから見つけた自分だけの“マーケット”」・佐々木俊尚(作家・ジャーナリスト)

失敗ヒーロー!

2018/05/08
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華々しい成功の裏には、失敗や挫折がある。その失敗エピソードから成功の秘訣をヒモ解く『失敗ヒーロー!』。今回ご登場いただくのは、『キュレーションの時代』をはじめ多くのベストセラーを手がけてきた作家であり、ジャーナリストとしても幅広くご活躍されている佐々木俊尚さん。フリージャーナリストとなる前に、新聞記者をしていた時代がある佐々木さん。前編では、その時代に体験した壮絶な事件記者の世界と、手痛い失敗エピソードを語ってもらいました。

「特に目標もなく、ものすごく適当に生きてきましたね」

――佐々木さんはまず新聞記者としてマスメディアの世界に入られました。記者を目指した理由を伺えますか?

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佐々木俊尚(作家・ジャーナリスト)
1961年生まれ。1988年に毎日新聞社に入社し、12年にわたって事件記者の日々を送る。記者時代にはオウム真理教事件、ペルー日本大使公邸占拠事件など歴史的事件にも立ち会う。その後1999年に『月刊アスキー』編集部へ移籍し、2003年に42歳で独立。以降はフリーのジャーナリスト・作家として、ITやコンピューター技術により社会がどう変革するかを基本テーマに取材執筆活動を展開。著書には「2011年新聞・テレビ消滅」、「仕事するのにオフィスはいらない ノマドワーキングのすすめ」、大川出版賞を受賞した「電子書籍の衝撃」、「キュレーションの時代」、「『当事者』の時代」、「簡単、なのに美味い! 家めしこそ、最高のごちそうである。」など多くのベストセラーや話題の書がある。

佐々木俊尚(以下、佐々木):実は大学に7年も在籍していて、さすがにそろそろ就職しないとまずいかな、ということになりました。ただ、一浪もしていたのでその時点で普通の新卒者より4歳も年上で、結果的に新聞社しか受けられなかった、というのが理由です。当時は、入社資格に年齢制限があってほとんどの企業は受けられなかったんです。でも、新聞社は30歳くらいまで入社試験を受けさせてもらえた。だから朝日新聞と毎日新聞に応募したのですが、朝日新聞は寝坊して試験を受けられず、唯一受けた毎日新聞に受かったというわけです。毎日新聞は学歴不問だったので、結局大学を卒業せずに入社しました(笑)。

――佐々木さんというと知的でクールなイメージがあるので、人生設計も綿密にされてきたのかなと思いきや、冒頭からかなり破天荒なお話です(笑)。

佐々木:思い返せば当時からものすごく適当に生きてきましたね。特に目標を持つタイプでもなく……。

――意外です(笑)。ではジャーナリズムに関心があったわけでもなかったのですか?

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佐々木:何か文章は書きたかったという漠然な思いはありました。小学生の頃からすごく読書が好きで、10代の思春期の頃は誰よりもたくさん本を読んでいたと思います。本当は出版社に入りたかったのですが、年齢的に無理だったんです。でも、実際に新聞社に入ってわかったのは、新聞社で記事を書くのは一部の記者だけで、多くの人は実際には記事を書かないということでした。僕は社会部のいわゆる事件記者だったので、データマンとしていろいろな取材データを集めることが担当でした。集めたデータを先輩の記者、いわゆるアンカーマンに渡して、記事が書かれるというシステムだったんです。思えば、それが最初の大きなつまずきだったと思います。

――激務のイメージが強い新聞記者ですが、実際はどのような仕事内容だったのですか?

佐々木:私が事件記者として最後に就いた警視庁捜査一課の担当チームの仕事だと、毎朝、桜田門にある警視庁本部へ向かい、捜査一課長の10時からの記者会見を聞きます。でも、それだけでは記事にならないので、まだ公には明かされていない捜査状況について、刑事の家に直接聞きに行くこともありました。けれど、刑事は帰宅が遅いことが多いので、夜10時くらいから家の近くで張り込み、帰ってきたところを狙って話を聞きます。しかし、基本的には無視されます。話してもらえるのは、気心知れた仲になった記者に限られています。割合にすると、100人に1人ほどでしょうか。だからいいネタなどそうそう教えてもらえません。そして翌朝は5時くらいに起き、刑事が出勤する7時くらいを狙ってまた家の近くで待つんです。「夜討ち朝駆け」というやつです。オウム真理教事件が起きた1995年頃にいたっては、睡眠時間は毎日平均2時間ほどでしたね。

――小説に出てくるような世界ですね……。

佐々木:まさに横山秀夫さん(代表作に『半落ち』『クライマーズ・ハイ』など)の世界ですよね。あの方は新聞社にいたので、新聞記者の日常がリアルに描かれていると思います。

新聞記者時代の“特オチ”という失敗

――文章を書きたいのに書けないというジレンマもあったのではないですか?

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佐々木:「書きたいのに書けない」というジレンマの中で、やりたくもない夜討ち朝駆けをつづける日々でした。それでも警視庁捜査一課の担当部署というのは、新聞業界ではエリートと言われる部署なので、会社からは評価されていたのかもしれません。

――新聞記者時代に大変だったエピソードはありますか?

佐々木:山ほどありますね(笑)。事件記者にとって最も辛いのは、特ダネを他社に抜かれることなんです。特に、全ての他紙が特ダネとして抜いているのに、自紙だけが抜けなかったという“特オチ”と言われる状況になったときは辛い。私にもそんな経験があります。

1996年に起きた葉山在住のデザイナー誘拐事件(※)のことでした。30代のデザイナーを名乗る男が誘拐され、自宅に本人の小指が送りつけられて大騒ぎになったのですが、結局本人による自作自演の狂言誘拐だったという事件です。事件の最中、警視庁と長野県警が共同で山林を捜索しているという情報が飛び込んできたんです。記者の間では「遺体が出んじゃないか!?」と噂されていました。だから、私は警視庁捜査一課長を夜討ちし、「課長、あれはデザイナー誘拐事件の捜索ですよね?」と訊ねました。すると課長は「違う、それはない。絶対に違う」と頑強に否定したんです。そこまで強く否定するのだから、さすがに嘘はないだろうと思って、私はすぐに本社に電話し、「課長が全否定しています」と報告しました。結果、用意されていた『遺体の発見か!?』という記事はボツになったのですが……。

※編集部注:自称デザイナー・小田嶋透による偽装誘拐事件。事件が起こった当初から、自身が絡む巨額詐欺事件と殺人を隠蔽するための自作自演の誘拐なのではという疑いがあったが、後日、小田嶋の貸し別荘の近くで発見された白骨遺体により、それが確定的になった。小田嶋は逮捕され、2006年に東京地裁より無期懲役の判決を受ける。

――それが “特オチ”になってしまったのですか?

佐々木:はい。新聞社では他社の朝刊の最終版が夜中の3時に見られるようになっているのですが、その3時に電話がかかってきたので出てみると、上司が特オチだと怒鳴っている……。聞いた瞬間、血の気が引いて、ヘナヘナと崩れ落ちました。それで早朝にもう一度、捜査一課長の官舎に行ったんです。「ひどいじゃないですか、信じていたのに」と。すると「いやあ佐々木さん、僕、目で合図したでしょ」とか言うんです。この一件は本当にキツかったですね。

でも、この話には続きがあるんです。その後、被疑者のデザイナーがいつ殺人容疑で逮捕されるかというのが焦点になったのですが、その具体的な日にちを各紙とも全くつかめない時期がありました。そんなある日、僕が記者クラブに詰めていると、電話が鳴って。相手はその捜査一課長でした。「佐々木さん、明日、◯◯(デザイナーの名前)を再逮捕しますから」。彼はこう言うとすぐに電話をガチャンと切りました。捜査一課長と私はそれなりに付き合いがあったので、さすがに特オチの件を悪いと思ったんでしょうね。いままでやってきた夜討ち朝駆けは無駄ではなかったと思うこともできましたね。

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