【前編】「やりたい仕事なら怒られるのは仕方ない。大切なのはいかに“喜び”を見出すか」・大根仁(映像ディレクター)

失敗ヒーロー!

2018/04/10
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華々しい成功の裏には、失敗や挫折がある。その失敗エピソードから成功の秘訣をヒモ解く『失敗ヒーロー!』。今回ご登場いただくのは、ドラマ・映画監督として『モテキ』をはじめとした数々の大ヒット作を世に送り出してきた大根仁さん。深夜ドラマからミュージックビデオ、そして映画作品と幅広いジャンルで活躍される大根さんの人生哲学とは何なのでしょうか。その秘訣を伺っていくうちに、何事も「プレイ」だと思うことが大事だという、キーワードが出てきました。

「サラリーマンになれない」人生を変えた数々の出会い。

――大根さんがテレビ・映画の業界に入られるきっかけは何だったんですか?

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大根仁(おおね・ひとし/映画監督・演出家)
1968年生まれ。映像系の専門学校時代に作った作品が堤幸彦監督に認められ、アシスタント・ディレクターとしてキャリアをスタート。TVドラマ『TRICK』(00)、『演技者。』(02〜04)など深夜ドラマに携わる。その後、演出家として数々のドラマを手がけ、『週刊真木よう子』(08)、『湯けむりスナイパー』(09)といった作品で手腕を発揮。なかでも久保ミツロウ原作のコミックを森山未來主演でドラマ化した『モテキ』(10)が大きな話題を呼ぶ。11年、同タイトルの映画版で映画監督デビューを果たした。テレビドラマやCM、雑誌でコラムを執筆するなど多才なクリエイターとして注目を集める。

大根仁(以下、大根):僕は昭和43年生まれなので、自発的にテレビを見るようになった昭和50年代ってちょうどテレビにとっての青春期が始まった頃だったと思うんです。マスメディアのなかでも、映画やラジオに取って代わって、大衆のための媒体となりつつあった時代。あの頃はテレビがまだ自由に好きなことをやれていたんです。子供向けの番組にしてもアヴァンギャルドなものがいっぱいありましたし。小学校5、6年生になると『THE MANZAI』が始まって、お笑いブームが来て、『ひょうきん族』などそれまでにない番組がたくさん誕生しました。あの時代のテレビには、自由がゆえの魅力が詰まっていたんです。

――ただ、大根さんは、テレビだけの人ではないという印象です。どのあたりにご自身のルーツがあると思いますか?

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大根:中学生くらいから音楽や雑誌『宝島』が発信するサブカルチャーにのめり込んでいったんです。そのうちに、テレビ、音楽、サブカルチャーが自分のなかでごちゃ混ぜになっていって、テレビ番組を作る人というよりは映像全般に興味が湧いていきました。ただ、テレビ局に入りたいって全く思わなかった。テレビ局員って結局サラリーマンだし、自分がサラリーマンになれないっていうのがなんとなくわかってたんだと思います。

――「サラリーマンになれない」の裏返しには、表現者になりたいって気持ちがあったんですか?

大根:いや、そこまでの才能もないだろうなって思っていましたね。けど、表現活動のなんらかには関わりたかった。そして、作り手になるってことを目指していたってよりも、ただ同時代のカルチャーを享受していたのが僕の青春期なんじゃないかなと思います。一流企業とかに興味がなかったから大学進学もしませんでした。そもそも勉強が苦手だったので、大学は無理だなって諦めていました。諦めと見極めはいまでも早いんです(笑)。でもモラトリアムの時間はほしかったから、映像系の専門学校に行くわけです。

仕事で人と付き合う時は、一番若い人に積極的に話しかける

――そこで映像クリエイターとしての道を目指す決意をされたんですね。

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大根:そんなかっこいいものじゃありません。ただ、校内のビデオコンテストがあって、一人で作ったプロモーションビデオを、当時、講師として来ていた堤幸彦さんに認めてもらったんです。その年頃の、ひねくれたガキっていうのは根拠のない自信だけがあるもので。他の生徒が作ったものよりはセンスがいいぞ、とか思ってたわけです。そうしたら、賞とかはあげられないけど、引っかかるものがあるねって堤さんに言われて。当時、堤さんと秋元康さんがニューヨークに「SOLD OUT」という会社を立ち上げていたので、そこにいつでも遊びに来てもいい権利というのを頂きました(笑)。

――いわばニューヨーク優待券ですね(笑)。実際に行かれたんですか?

大根:はい。3ヶ月くらい行きました。いま考えればこの3ヶ月はとても大きかったと思います。専門学校に通っている2年間はバイトで忙しくて、将来のことなんて考える暇がなかったんです。初めて、時間に余裕ができて、マンハッタンを歩きながら今後の人生についていろいろ考えました。とは言っても、何かあてがあるわけでもなかった。3ヶ月経って、「そろそろ帰ります」って言ったら、「帰ってどうするの?」って堤さんに聞かれて。「決まっていません」って答えたら、「じゃあ、とりあえずうちで働きなよ」と(笑)。それから制作会社に入社してADになるわけです。でも、いま思い返せば、相当なブラック企業ですよ。他のADも入社したそばから次々に辞めていきましたし。過酷な労働環境でした。まぁ、最初の一年で仕事を通して映像業界の場数をたくさん踏めたのは、いまでは良かったかなって思います。

――そんな劣悪な環境のなかでどうして大根さんは続けられたと思いますか?

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大根:僕はそんなに辛いって思わなかったからだと思います。現場で撮影したものが作品になるっていうのが、単純に楽しいって思えたんです。エクスタシーを感じたっていうか。あとは、縦社会や体育会系なノリに対する順応性があったんでしょうね。上の人に取り入るのもうまかったと思いますし。

――現在は監督として現場で様々なスタッフと一緒に仕事をすることが多いかと思います。そのときに気をつけていることってありますか?

大根:現場には、撮影部の他に、照明や美術、録音だったり、衣装、メイクなどいろんな人たちがいます。なかには物を言えない立場の人たちがいるんですよ。お弁当を配ってたり、ロケ場所を確保したりするセクションとか。僕は、そういった各部署の一番若い奴に話しかけたり、名前で呼ぶようにしたりしています。彼・彼女らが、撮影している素材をどう見ているかっていうのを非常に気にします。かつて、自分もそういう場所にいたわけだし、そのときに、何も考えていなかったわけではない。ひょっとしたら観客に一番近いかもしれない。だからこそ、そういう仕事をしている人たちの声に耳を傾けたいなって思いますね。

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