2017/09/07 公開

東京ラブストーリーと貞操をめぐる闘争

オフィスラブ小説論 第8回 柴門ふみ「東京ラブストーリー」

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私は小学生の頃、よく学校を仮病で休んでいた。共働きの両親が出かけるのを布団のなかから見送ったあと、近くのコンビニに好きな菓子を買いに行き、それを食べながら家でひとりテレビを観たりゲームをして過ごす。そして、夕方から始まるテレビドラマ「東京ラブストーリー」の再放送を熱心に観ていた。オープニング曲の「ラブ・ストーリーは突然に」(小田和正)を声変わりする前の声で一緒に歌う、そんな感じの子どもだった。
「月9」ブームに火をつけた「東京ラブストーリー」の放送は1991年1~3月。主人公のリカ(鈴木保奈美)がカンチ(織田裕二)に呼びかける「ねえ、セックスしよ!」は、いまも語り継がれる名台詞だ。

1984年生まれの私は、年齢的にも内容的にもリアルタイムの放送では観られなかった。私が観たのは1994年頃の再放送だったと思う。当時、夕方の時間帯には人気テレビドラマの再放送が繰り返し流れていた。
いまにして思えば、10歳かそこらで観た「東京ラブストーリー」こそ、私がオフィスラブというものに関心をもつ原点だった。
原点回帰というきわめて個人的な理由から、今回は「小説論」の番外編として、ドラマの原作である柴門ふみの漫画作品『東京ラブストーリー』(全4巻・小学館、1990~91年)を読んでいきたい。
ドラマ版は、当時20代前半だった駆け出しの脚本家、坂元裕二独特のロマンスが色濃く織り込まれている。原作とは設定も展開も異なる部分が多いため、今回は原作を扱う。
原作が週刊「ビッグコミックスピリッツ」に連載されていた1989~90年は、短く儚かった「バブル期」の頂点にあたる時代だ。いまの人々の労働観・恋愛観へとつながる曲がり角の時期であり、当時の東京のオフィスラブ模様を知る上でも重要な作品である。

『東京ラブストーリー』は、まず何よりも「上京」の物語だ。主な登場人物4人のうち3人が愛媛の高校の同級生である。
主人公の一人・永尾完治(かんじ)は、地元愛媛の大学に進み、教授のコネで東京の調査・コンサル系の会社に就職する。意気揚々と上京してみれば、そこは社長以下社員8名の小さな事務所だった。
完治は実直な性格で、「最初は東京コンプレックスもってた」が、東京のやつらには負けないという向上心も秘めている。愛媛の実家では伝書鳩を飼っていた自然が好きな優しい青年で、友情に篤く、もともと恋愛には奥手なタイプだ。
完治が就職した和賀事務所唯一の女子社員が、もう一人の主人公・赤名リカだ。社長である和賀の愛人と社内で噂されるリカは、新人の完治を可愛がり、すぐに「カンチ」というあだ名で呼ぶようになる。リカは明るく奔放な性格で、気持ちのおもむくままに恋愛とセックスを楽しむ恋多き女だ。幼少期から11歳までをアフリカ・ジンバブエで過ごした帰国子女でもある。
リカは社内で完治に「キスして」とせがむなど、ことあるごとにちょっかいを出す。完治は当初、完全にひいていて「このテの女に深入りしたくない」と思う。「このテの女」とは、近年の言い方では「ビッチ」ということになるだろうか。
完治は東京で高校時代の同級生、三上健一と関口さとみに再会する。この2人が残りの主人公だ。
三上は地元愛媛の資産家の息子で、東京の医大に通う、容姿端正なプレイボーイ。渋谷のマンションで一人暮らしをし、いつも部屋に違う女性を連れ込んでいる。
一方の関口さとみは、高校時代は「学級委員でバレー部、美人で性格もいい」。完治の憧れの人で、いまは東京で幼稚園の先生をしている、いわゆる「良妻賢母」タイプの女性だ。さとみは「いい加減な気持ちで、いい加減につきあうのは嫌なの」と言い、23歳になるまで恋人がおらず処女であることがほのめかされる。
話の後半には三上の恋人として医学部の同級生・長崎尚子が重要な役割を果たすが、「東京ラブストーリー」の基本的な枠組みは、完治とリカ、三上とさとみという男女4人の関係性の変化の物語だ。

はじめ完治は、リカの積極的なアプローチをかわしながら、再会した昔のマドンナ・さとみへの思いを再燃させ、付き合ってほしいと告白する。しかし、さとみが反発しつつも恋をしている相手は三上だった。完治は失恋し、トレンド調査の仕事に打ち込むうちに、避けていたはずのリカの人柄や生い立ちに興味をもつようになる。

リカ「生まれて11年目に、いきなり日本に戻ってきたわけ。裸足の足に無理矢理、靴をはめこまれてさ」
完治「いじめられた?」
リカ「『アフリカ人』てはやしたてるのは、序の口」
完治「……で? ほかにどんないじわるされた?」
リカ「…………」「カツアイ。とても口に出して言えない」「……で、まあ、とりあえずグレようと思ったんだけど」
完治「グレる?」
リカ「今までのやり方をねじまげて生きるよりは、破滅をめざそうと思ったんだけど……」「『きみ、変わらなくていいよ』って言ったわけ」
完治「誰が?」
リカ「当時のあたしの日本語家庭教師」
完治「それが赤名リカの初恋の男!」
リカ「違うわ!!」「初恋じゃない! アイデンティティよ!!」(中略)「そんな一言にでもすがらなきゃ生きてゆけなかった……」
(『東京ラブストーリー』第1巻(小学館、1990年)、171~172頁)

完治がリカの背景を知るこの場面のあと、リカは2週間の長期休暇をとってアフリカへ行く。その間にさとみと三上が付き合い始めたことを知り、完治はさらに落ち込む。
リカは、都市化が急速に進んだ故郷ジンバブエをみて、その変わり様に驚いて帰ってくる。「あたしの慣れ親しんだ草原は、もう記憶の中にしか存在しないみたい」「そこで……ま、あたしも近代化しようと思って」。故郷喪失者となったリカは、以前にまして仕事に打ち込むようになる。

かの有名な「ねえ、セックスしよ!」は、そうしたタイミングで出てくる。自由で動物的でありながら都会的な女として描かれるリカの、性的自己決定の象徴のように記憶される台詞だ。
だが、女子漫画研究者のトミヤマユキコが指摘するように、この台詞が表している状況はそれほど単純ではない。
リカは、担当した接待の席で、完治が席を外している間に相手から強制わいせつに等しいセクハラにあう。それまでのリカであれば相手を殴っているような状況だが、「近代化」することを自分に課していた彼女は、自らを殺してそれに耐え、新規契約を取りつける。接待が終わったあと、その最悪な気分を解消するという口実で、リカは完治に「ねえ、セックスしよ!」と持ちかけるのだ(ちなみに、ドラマ版ではこの接待中のセクハラという重要なエピソードは切り捨てられ、同じセクハラだが、社内で性的中傷の噂を流される別のエピソードに代替されている)。
仕事や接待の席で女性が受けるセクハラや性暴力について、当時のリアルを反映したシーンであることは確かだろう。だが、現在の私たちから見れば、接待の場でのリカの行動は「近代化」とは反対方向の努力だ。一見新しい時代を象徴するようで、その実「旧弊な女」であるとのトミヤマの批判はもっともである。
一方で、物語の上では、このとき完治がリカの誘いに乗ったことが、2人が恋人関係になる重要な契機となる。接待のあとに入ったホテルから出て、深夜の街を歩いていく場面。

リカ「カンチは『愛』とか『責任』とか考えてんじゃないの?」
完治「そういう部分もあるかもしれない」
リカ「そんなのいらないわ、よけいなことよ」
完治「(え!?)」
リカ「送ってくれなくてもいいわよ」
完治「そうじゃなくて……ひとつ聞いていい?」
リカ「なに?」
完治「今日、赤名さんはどういうつもりで俺を……」
リカ「カンチが、どんな顔して女抱くのか見てみたかった」(中略)「よかったよ、かわいかった。一生懸命、100m全力疾走の少年の顔!」
(同・第2巻、6~7頁)

こう言われて、完治は戸惑い傷つく。完治が想像していた女性の欲望とは異なる欲望を自分に向けられたためだろう。
ステディな関係(愛とか責任とか)に向けて捧げるものでも、オーガズムを得るためだけでもないセックス。「どんな顔して女抱くのか見てみたかった」というリカの欲望は、物語の後半にもう一度出てくる。

話が横道にそれるが、このリカの言葉は、今年日本で公開された映画『20センチュリー・ウーマン』(マイク・ミルズ監督・脚本、2016年)に出てくる台詞を想起させる。主人公の15歳の少年ジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)は、思いを寄せる二つ上の親友のジュリー(エル・ファニング)に、どうして好きでもない男たちと寝るのかとたずねる。ジュリーの答えは、「オーガズムは感じないけど、そのときの男のカッコ悪さが愛おしいのよ」。彼女がこだわり守ろうとしている自身の「性」は、セックスはセックスであって、愛とは別のものでありうるということだ。『20センチュリー・ウーマン』の舞台は1979年のアメリカ西海岸で、ジュリーは実は『東京ラブストーリー』のリカとほぼ同世代である。彼女たちはセックスについて共通した価値観を語っているように思える。

「ねえ、セックスしよ!」という言葉の文脈だけを見ても分かるように、リカというキャラクターは両義的な存在である。これは一つには、リカが体現しているとされる「自由」が、周囲の男たちが彼女に投影する幻想だからだ。
それが露骨に語られているのが、事務所の社長・和賀が、(パナソニックを思わせる)「梅下電気」を辞めて独立した理由をタクシーのなかで完治に話す場面である。

完治「社長はなんで梅下電気をやめたんです?」
和賀「人間関係に息が詰まった、派閥間の抗争とか……」「外に出て、思いきり深呼吸したかった」「大企業にはメリットがある、やっぱり大きいとこは強い。利用すればでかいこともできるし、やりがいもある。しかし、もっと自由に自分の力だけを試してみたかった」
和賀「赤名リカはいいよ」
完治「え?」
和賀「あの娘を見てると、ハッとさせられる」「なんにもとらわれず自由に生きてる。空を舞う野鳥と同じだ」「人間は本来そうあるべきじゃないか?」「彼女を見てると刺激される……」「いい女だと思わないか?」
(同・第1巻、40ページ)

和賀の言葉は、大企業のなかで企業戦士として戦う不自由さや苦しさの話から、いきなり「いい女」「自由な女」であるリカの話に直結する。リカには、日本型労働社会の牢獄にいる男たちの欲する「自由」が、オフィスラブというフィルターを通して、一方的に投影されているのである。
完治もまた、リカに幻想を見ている。それは和賀よりもさらに錯綜した「自由」のイメージだ。完治にとってリカとは、愛媛の高校時代に自殺した性的に奔放な同級生・田々井アズサであり、実家で飼っていた自由に空を舞っては戻ってくる鳩であり、気まぐれでわがまま、刺激的ゆえに疲れる「東京」という都会そのものでもある。望郷の思いと都会での生活が混然一体となってリカに投影されている。

完治とリカは最初のセックスのあと、なし崩し的に付き合い始める。ここから、『東京ラブストーリー』の主題が本格的に展開されることになる。
完治とリカ、三上とさとみという2組のカップルは、貞淑と奔放、本命と浮気という対照的な貞操観の鏡合わせになっている。この物語が「自由」というキーワードの周りをぐるぐると旋回しながら描いていくのは、セックスと、結婚へ通じる恋愛(ロマンティック・ラブ)との関係についてだ。
さとみはドン・ファンのような三上の浮気と他の女の影に何度も苦しみ、完治もまたリカの性的奔放さやセックスの「軽さ」に苦悩する。さとみは完治に「男はどうして浮気するの?」と問うが、完治ものちに「女はどうして浮気をするんだ?」とさとみにすがるように聞く。
バブル期のトレンディなイメージとは裏腹に、「貞操」、そして浮気される苦しみという、それはそれで古臭いテーマが、『東京ラブストーリー』の基調をなしているのである。
この「貞操」という主題は、関口さとみの人物背景を確認するだけでも明らかだ。
さとみの愛媛の実家はラブホテルを営んでいる。地元ではそれを理由に陰口をたたかれることも多かった。その影響か、さとみはセックスを「汚れ」と捉えている部分がある(「もうお姫様でもなんでもないこと、完治くんが一番よく知ってるくせに」「薄汚れてみすぼらしい、ただの女よ」)。
ラブホテルは、婚外セックスを象徴する場所だ。さとみが東京に出てきた理由の一つは「ここだと、ウチがラブホテルをやってることを知ってる人間に出会わない」。美人だが23歳まで彼氏がいたことはなく、セックスマシーンのような三上と同棲したあともセックスが好きになれない。さとみの小さい頃の将来の夢は「お嫁さん」だ。

なぜこの時代にあらためて「貞操」の問題が、言い換えれば、セックスとロマンティック・ラブの関係が切実なものとして問い直されたのだろうか。
それを考えるにあたって、実は、「労働」という観点は外すことができない。

まず、教科書的な説明になるが、『東京ラブストーリー』が描く労働社会は、男女雇用機会均等法(1986年4月施行)後の時代だということを再び確認したい。最初の均等法は、募集・採用・配置・昇進における性差別禁止という点で、ほとんどが努力義務にとどまる実効性に乏しい法規制だった。
その半端さが「一般職」という新たなカテゴリーを生み、1995年の日経連「新時代の『日本的経営』」以降は、そうした女性職種の非正規化・外注化が政策的にも進められた。それが現在の著しい正規‐非正規格差、そして男女の賃金格差につながっていることは周知の通りだ。
その一方で、日本の均等法を生み出したのが、単に労働の分野にとどまらない世界的な動向であったことも忘れるべきではない。
国連は1975年を「国際婦人年」と定め、1985年までの10年間で、加盟各国に、あらゆる分野での男女差別撤廃のための行動計画の策定と実行を求めた。いわゆる「国際婦人の10年」である。日本の均等法は「国連との約束」の期限ぎりぎりに滑り込んだのだ。そして、こうした国連の動きは、第2波フェミニズム、あるいはウーマン・リブと呼ばれる1960年代後半以降の世界的な女性権利運動の一つの成果であった。
第1波フェミニズムが参政権や財産権を要求したのに対し、第2波フェミニズムが中心的に問うたのは、女性の経済的自立に必須となる労働・教育環境での性差別撤廃、そしてリプロダクティブ・ライツや性的自己決定、つまり性愛の自由だった。

近代(モダニティ)の研究で知られるイギリスの社会学者アンソニー・ギデンズは、『親密性の変容』(1992年原著刊)のなかで、「生殖」の必要から解放されることによる「セクシュアリティ」の獲得が、こうした第2波フェミニズムの権利要求にとっていかに重要であったかを述べている。

 今日、「セクシュアリティ」は、発見され、多様なライフスタイルの発達を切り開き、また多様なライフスタイルを可能にしてきた。セクシュアリティは、われわれ一人ひとりが「手に入れる」もの、あるいは育むものであり、もはや個々人があらかじめ定められた規律として受け入れるような生得的な身体条件ではない。(中略)セクシュアリティは、可変性をもった自己の一面として、また、身体や自己のアイデンティティと社会規範との根源的な接合点として、機能しているのである。
(アンソニー・ギデンズ『親密性の変容 近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』(而立書房、1995年)、31頁)

ギデンズは、個人の「セクシュアリティ」の獲得――ありていに言えば、性指向やセックスの相手を自分の意思に基づいて決めること――は、近代社会の中心課題であるアイデンティティの形成という点で非常に重大だと指摘する。
なぜなら、モダニティとは、それ以前には「自然現象」と見なされていたあらゆるものの「社会化」(社会システムによるコントロール)をその特徴とするからである。
人間の身体においては、生殖こそが「自然」の代表的なものであった。「異性愛=生殖=自然」が普遍の等式とされ、異性愛は他のすべてのことがらを判断するための基準として機能した。それゆえ性愛は、一人ひとりが自覚し、選択し、問い直していけるような固有の特性とは考えられなかった。避妊法と生殖技術の発達・普及というテクノロジーがこの等号を切断したことで、はじめて「自由に塑型できるセクシュアリティ」が創出され、アイデンティティの問題になったのだ。

さらに、ギデンズがフーコーらの議論を批判的に参照しつつ強調するのは、「セクシュアリティ」に焦点をしぼる際の、男女のジェンダー差である。
近年まで人々は男性のセクシュアリティを何ら問題がないものと見なしてきた、とギデンズは言う。逆に言えば、それまで「性」が問題化されるときは、いつも女性の問題だったのだ。男性のセクシュアリティの本質を隠蔽してきたものとして、ギデンズは以下の「社会的作用」を挙げている。

(1)男性による公的領域の支配
(2)性の二重の道徳基準
(3)そのことと関連する、汚れのない女性(結婚するにふさわしい女性)と汚れた女性(売春婦、淫婦、妾、魔性の女)の分離
(4)性差を創造主や自然界、生物学的法則がもたらしたものと見なす解釈
(5)女性のいだく願望や行いの点で、女性を愚かで道理のわからない存在として問題視すること
(6)性別分業
(同、167~168頁)

60~70年代以降の「性革命」を待つまで、「性の二重の道徳基準」は強固なものとして存在した。その性のダブルスタンダードでは、男性が多くの女性と性関係を持つことは一般に好ましいこととされ、反対に、性関係の豊富な女性は「尻軽女」つまり「ビッチ」として社会で周縁化されてきた。ちなみに、いまでも男性の女性表象には「聖母」か「娼婦」の両極端しかない、と言われることは多い。その根はまだまだ深く残っている。
ギデンズが(1)に挙げた「公的領域」の代表的なものには当然、職場・オフィスや学校が入る。性の二重規範と、労働・教育の場での女性差別は裏表一体なのである。

こうした経緯を確認していくと、『東京ラブストーリー』が主題化した「貞操」の意味も少し見えてくるようだ。
『東京ラブストーリー』は、法制度上の権利保障は希薄だったとはいえ、女性が労働を通じた経済的な自立を本格的に勝ちとるようになった時期を背景としている。オフィスでは、女性は男性から一人の同僚である以前に「女」として見られた。第5回で触れたように、当時の日本では「セクハラ」という概念も十分に知られていなかった。
机を並べ普通に働いているリカを「自由」や「自然」の象徴のように見なす男たちの姿からは、性の二重規範がいかにオフィスに根付いていたかを読みとることができる。
そうした時代の恋愛を描く『東京ラブストーリー』が、完治とリカ、三上とさとみという2組のカップルの交錯から問い直したのは、まさに性の二重規範の存在そのものであった。
彼らは、貞淑さ/尻軽さにおいて男女を反転させたカップルである。この2組の関係性の変化は、性の二重規範がどれほど生き残り、どれくらい失効しつつあるかを観察できる実験装置だ。男女がともに自身の「セクシュアリティ」を獲得できるようになった世界で、ドン・ファンのような、性的奔放さが個性として評価される女が現れたら、恋人の男はどうするのか……。

「ニコニコ笑って、待ってるだけの女になりたい」としおらしく語っていたさとみは、三上の度重なる浮気に堪えかねて、結局は同棲している家を出る。完治にその思いを話す場面が私はけっこう好きだ。

さとみ「彼と暮らしてた時……彼はとても優しくしてくれて、それがとても幸せだったの」「それを100パーセントの幸せとするでしょ」
完治「うんうん」
さとみ「……で裏切られて、別れて……もう一回会って、また優しくしてくれて……」「それもまたうれしかったの、でも98パーセントの幸せなのよ」
完治「2パーセントはどうしてもわだかまりが残っているわけ?」
さとみ「もう100パーセントあの人を信用することは、不可能だわ。この先ずっと……」
(同・第3巻、139頁)

「性革命」後の時代においては、ある面でさとみのナイーブさを表わす台詞である。しかし、性の二重規範の弱体化が当時よりは進んだ現代においても、彼女が言う「100パーセント」の意味に共感できる読者は少なくないはずだ。
それはいわば、性愛関係における「闘争領域の拡大」(ウエルベック)が全面化したあとの、「ロマンティック・ラブ」の戦後処理である。誰もがセクシュアリティの獲得を通じて自己を確立する世界では、セックス=愛の証明とはならないことを頭では理解せざるを得ない。しかしそれでも、愛する人が自分以外と性交渉したという事実は、とにかく耐え難く苦しいのだ、と。
『東京ラブストーリー』の新しさは、リカというヒロイン像にあるというより、従来女のものであったその「貞操」をめぐる苦しみを、主人公の完治が共有していることにあったのではないだろうか。

ともあれ、本作もまた、これまで取り上げてきた作品群と同様、主人公たちの「結婚」を結末に置いている。あの時代、リカと完治たちはセックスとロマンティック・ラブにどう向き合い、答えを出したのか。それを振り返るためにも一読の価値がある名作である。
しかも今年、リカや完治たちの「現在」を描いた続編(柴門ふみ『東京ラブストーリー After 25 years』小学館)が出版された。私たちが生きる現在までの時間で、登場人物たちの何が変わり、何が変わらなかったのかが丁寧に描かれた秀作だ。『東京ラブストーリー』にキュンキュンした方は、ぜひこちらも読んでみてほしい。


photo by Kevin Dooley

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西口想(にしぐち・そう)
1984年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、テレビ番組制作会社勤務を経て、現在は労働団体職員。仕事は主にリサーチ、労使交渉、企画・編集、原稿書きなど。文学と映画が好き。
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