2017/06/02 公開

オフィスラブとセクハラの境界

オフィスラブ小説論 第5回 綿矢りさ「手のひらの京」

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手のひらの京 』は、小説家・綿矢りさがはじめて自身の故郷である京都を舞台に書いた長編小説だ。
この著者を「さびしさは鳴る。」(『蹴りたい背中』)という有名な書き出しで記憶している人もいるだろう。本作も、冒頭の一段落を読めばすぐに、この作品全体に満ちている空気が伝わってくる。

京都の空はどうも柔らかい。頭上に広がる淡い水色に、綿菓子をちぎった雲の一片がふわふわと浮いている。鴨川から眺める空は清々しくも甘い気配に満ちている。春から初夏にかけての何かはじまりそうな予感が、空の色にも溶け込んでいる感じ。凛が思いきり息を吸いこむと、水草が醸し出す川の香りが胸を満たした。
(『手のひらの京』(新潮社、2016年)、3頁)

主人公は奥沢家の三姉妹だ。図書館に勤めているおっとりした長女・綾香(あやか)、大手電子メーカーの新入社員で恋多き次女・羽依(うい)、京都に息苦しさを覚え始めた大学院生の三女・凛(りん)は、定年退職したばかりの父親、同じく「私も主婦として定年を迎えます」と二度と食事は作らないと宣言した母親と、ともに生家で暮らしている。
仕事と恋愛、家族との関係にもがきながら自立していく三姉妹の心の揺れを、四方を山で囲まれた京都の四季を背景に描く。京都で暮らす生活者の視点はこれほど瑞々しいのかと驚かされる。

ただし、そうは言っても綿矢りさ作品。本作も、そういうきれいな紹介では伝わらない、著者独自の観察眼によるゴリゴリした人間関係が描きこまれている。当連載で取り上げたいのは、まさにその筆致が冴えまくっている次女・羽依のオフィスラブの顛末である。

羽依は小学生の頃からずっと男子に囲まれてちやほやされ、自分のモテに自信をもってきた。希望の会社へ入社後、新人研修ではやくも彼氏をつくる。恋の相手は、同じ新入社員ではなく、指導役だった30過ぎの上司・前原智也。男前で仕事のできる爽やかな前原は、女性新入社員のなかでも一番人気で、会社中の独身女性が狙っている存在だ。
初めは喜んでいた羽依だが、付き合って一カ月が経たない時点でこの男が「地雷」であることに勘づきはじめる。前原からのメールを恋愛に疎い妹の凛に見せる場面。

「前原さんから今来たメッセージなんやけどさ、ありえなくない?」
ベッドに腰掛けた羽依が見せてきた携帯の画面を、凛はのぞきこんだ。
『羽依のことはもちろん愛してるよ。でもどうしても会いたいって気持ちは、おれには分からないんだよね。会いたいときに会えばよくない??』
読み終わると凛は脱力して目をそらした。世のカップルたちは、こんなこってりしたメールを毎回やり取りしているのだろうか? 胃が焼ける。
「ひどない? 会うの断るにしても、“会えなくて残念や”とか普通書かへん?」
「会いたい会いたいってってわがまま言ったんやないの?」
「言ってない。“付き合ってすぐのころは、もっとひんぱんに会うのがフツーじゃない?”ってメールしたんよ。そしたら返事がこれ。かなりスカしてるよね、モテる男きどりっていうか、なんか私が“どうしても会いたい”ってねだってる設定になってるし。いったい何様のつもりなん、この男」
(同、14~15頁)

すでに綿矢作品の女性キャラクターが炸裂しているが、このメールだけでは、読者にはまだ前原のどこがおかしいのかピンとこない。恋愛に対するただのスタンスの違い、あるいは歳の差。社内恋愛で、しかも新入社員と研修役の上司という、あまりよろしくない関係性も影響しているのではないか、とも感じる。

しかし羽依はその直観を深めていく。次に前原が登場するのは、初夏の近江舞子に新入社員が集まって琵琶湖畔でバーベーキューをする場面だ。新人だけのイベントだが、慕われる前原はこうした場にも呼ばれている。この日は表向き休日のレジャーでありながら、各人が「会社での評価」を念頭に置き、何がふさわしい振る舞いなのかをきりきりと意識してロールプレイを繰り広げる。非常に読み応えのある一幕だ。誰よりも「空気」が読める女、羽依の洞察は深い。

新入社員にとって、ようやく入社できた会社で働く上司たちは憧れの存在として映る。同時にどれだけ敬えば、気を遣えばいいか分からない相手でもある。前原はその心理をうまく利用して、ほかの上司たちとは違い、新入社員たちに分かりやすい距離感を明示した。頼れるし冗談も言い合える上司でありつつも、仕事のこととなると真剣さと敬意をもって接すべき上司だと、直接言わずとも会話の節々で明確なラインを引いた。
 前原と接するときは前原ワールドの掟に従えば、むだに気を遣わずに済むので、新入社員たちも彼とは話しやすかった。また、前原は自分が会社に必要とされていると思わせるのも上手だった。いるよなぁ、年下の理想像のふりをするのだけが上手い、爽やかでデキるお兄さんを演じてるタイプの男って。と、まんまと引っかかっていた羽依は今さらになって思う。
(同、29~30頁)

そういう男は本当にいたるところに生息するのだが、新卒間もない段階でここまで見切っている羽依は特殊だと思う。第2回で紹介した田辺聖子『甘い関係』の美紀のような破格さを感じる。
これほどの眼力をもつ羽依も、前原との関係では誤算をしていた。最初のメールの件以降、デートもろくにしてくれない「さぶい」前原のことを「べたぼれのふりして散々甘やかして、あっちが安心しきったころに捨てたろ」と決めていたのだ。プライドが傷つけられたことへの軽い復讐のつもりだったが、のちにこれが面倒を呼んでしまう。

少しずつ仕事にも慣れてきた9月、羽依は職場内で先輩の女性社員からいやがらせを受けるようになる。
羽依はもともと学校時代からいじめの対象になりやすく、独自にいじめへの対処術を身につけていた。会社内でもいつかターゲットにされるだろうと気を付けていたが、きっかけは前原との接近、さらに課内の有力なお局にプレゼントをあげる風習に気付かなかったことだった。
このいやがらせ、小説内では「京都の伝統芸能『いけず』」として皮肉たっぷりに紹介され、「京都」を単純には美化しないための仕掛けの一つとして機能するシーンだが、内容は地味にえげつないものだ。具体的には、お土産物などを一人だけ配られない“お菓子外し”、羽依に対するひそひそ話、当番制の掃除の異様なチェックの厳しさ、休憩室であからさまに避けられること、つっけんどんにしか仕事を指導してくれずそれでミスが増えて「無能だ」と罵られる、など……。
しばらく耐えた羽依は、ある晩、家で「明日会社に行きたくない」と感じる。そして腹をきめる。「よし、爆発しよう」。
翌日の終業時間後、ロッカー室で着替えている羽依に、後から入ってきた先輩たち6人が愚痴・噂話の体で「いけず」を始める。本論にとって重要なシーンなので少し長めに引用したい。

「ほんまお洒落とか男のこととかばっかり考えてる人やから、仕事の内容がいつまで経っても覚えられへんのやろね」
「同期の子らとは大違い。他の子は仕事でもお茶を出すのでも、よう気がつくわ。私も新入社員の時分は言われる前に何が必要かとアンテナめぐらして、ぱっぱと動いたもんやけどね。なーんも気ィつかんと、ぼけーッと言われたことだけやって、平気な顔してるんやから、何考えてんのか想像つかなくて、恐ろしいくらいやわ。男の人らには良い面だけ見せるから、うまいこと騙せてるみたいやけどね」
「でも男でも見抜いてる人いるで。前原さんとか。ちょっと付き合って良くないと思たから、一回やって捨てたんやって」
 笑いが起きる。よし来た、このタイミングや。
「それ私に向かって言うてんの?」
 鬼の形相で素早くくるりと振り返ると、お局たちの驚愕した顔があった。京都ではいけずは黙って背中で耐えるものという暗黙のマナーがある。しかしそんなもん、黙ってられるか。私はなんでも面と向かって物言うたるねん。
「私に向かって悪口言うてるんかと聞いとるんや!」
 ほとんど咆哮に近い羽依の怒声がロッカー室中に響き渡る。怯えた取り巻きどもが集まって固まりだしたが、羽依は一番力のあるお局だけに焦点をしぼって歩みよった。
「どうなんやさ!」
「私、悪口なんか言うてへんで、ねえ」
 こわばった笑みを顔に貼り付けて、隣の取り巻きと顔を見合わせて二人でうなずいている。
「そうやんな、まさかこんな近いとこで私の悪口言うほど根性ねじまがってないもんな」
 羽依の普段の女らしい態度とは正反対の、敬語さえ使わないぞんざいな口ぶりの迫力に、お局は怒り返す勢いもなく、弱々しい笑みを浮かべたまま、「そうそう」と繰り返すばかりだった。
「言うとくけど、私は前原さんと寝たりしてないし、もちろん捨てられてもいないから。いい加減なデマを社内で流したら、パワハラや言うて訴えてやるからな! いままでのお前の嫌みも全部持ち歩いてたICレコーダーに録ってあるから、法廷出たら覚悟せえよ!!」
(同、86~88頁)

羽依の「キレ芸」の迫力がビシバシ伝わる場面だ。「どんなんやさ!」がアツい。
かなり派手に反撃したとはいえ、ふだん労働問題を仕事にしている私からすると、彼女が相手に「パワハラ」だと指摘していることはまことに正しい。羽依はただキレただけではなく、「いけず」(いじめ・いやがらせ)が現代の職場では「ハラスメント」と呼ばれるルール違反行為であると言っているのだ。

もし私が羽依から相談を受けたら、「人間関係からの切り離し」などの典型的パワハラに加えて、異性関係へ言及された部分はセクハラとしても追及できると答える。

セクハラという概念が日本に現れたのは1980年代末のこと。その画期として有名なのが福岡セクハラ訴訟(1989年提訴)だ。
この民事訴訟は、男性上司が原告の女性の私生活上のうわさを職場内外に広め、性的中傷を行ったことが不法行為であると訴えられたものである。92年の判決では「セクシャル・ハラスメント」という言葉自体は使われなかったものの、日本で初めて、被告の上司について原告の人格および職場環境の侵害が、また会社の使用者責任が認められた。
羽依がロッカー室で受けた「いけず」はこれと同種のものだ。つまり、職場という公的な領域にふさわしくない私的(性的)生活への言及・中傷である。福岡セクハラ訴訟以降、全国でセクハラ訴訟が数多く争われるようになり、こうした性的中傷は基本的にアウトになった。
90年代以降の判例を受け、労働法上の規制も次第に形成されてくる。男女雇用機会均等法には、1997年改正の際にセクハラについての職場環境配慮義務(努力義務、2006年改正で措置義務へ強化)が明文規定された。このとき示された厚労省の指針 は、現在まで改正が重ねられ、労使が「セクハラとは何か」を考える際の重要な枠組みになっている。2014年改正では同性間のハラスメントを含むと明記された。

いったん羽依の物語に戻ろう。
本人のひそかな心配をよそに、羽依のキレ芸は功を奏し、先輩たちからのいじめは止んだ。羽依は辛いときにも気にかけてくれた同期の梅川と付き合い始める。そんなとき、研修から半年も経ち疎遠になって自然消滅したはずの前原が、自販機の前で声をかけてくる。
「……キミ、梅川と、付き合ってるらしいやんかー」
前原の軽い口ぶりに隠された、彼の歪んだ憤りを見て取った瞬間、羽依は理解した。女性社員たちの間で回っていた「羽依は前原に一晩でヤリ捨てされた」という噂は、前原本人が流している(!!)。
それを裏付けるように、嫉妬に狂った前原は、典型的なセクハラを羽依に仕掛けるようになる。「あっちの男にもこっちの男にも媚売って、ちゃんと仕事できてるんかいな」。この発言の時点でもう完全にアウトなのだが、羽依は、前原に断固とした姿勢で対処することをためらう。一時とはいえ交際した相手で、いまの彼氏・梅川の直属の上司でもあるからだ。
そこから前原の執拗な電話とつきまといが始まる。一匹狼として生きてきた羽依は自分を過信している部分もあったのだろう、「最後の一回でいいから俺と真剣に話す場をくれ」という前原の呼び出しにしぶしぶ応じ、自宅へ行ってしまう。
読者の安心のために、申し訳ないがネタバレをする。ここでは最悪の事態は回避される。だが羽依は半日以上、前原の家に監禁されることになる。表面上は馴れ馴れしく装う前原がいつ暴力を爆発させるか分からない、この作品で唯一の悪夢的なシーンだ。

なぜこんなことが起こったか。
小説は、社会的なメッセージをそのまま伝えるメディアではないから、作者自身にもよく分からない理由によるのかもしれない。ただ、オフィスラブ小説論としては、この機にどうしても書いておかなければならない。
『手のひらの京』の羽依の物語が明らかにしているのは、私たちがよく目にするある種のオフィスラブが、根本的には「セクハラ」と同じ力学で作動するということである。

福岡セクハラ訴訟の時代からこの問題の理論・実践を第一線で担ってきた牟田和恵は、恋愛とセクハラの境界は曖昧であり、はじめが恋愛だったかどうかは、セクハラかどうかを判断するのに決定的な基準というわけではない、と述べる。その上で、オフィスラブの「権力と恋愛」の問題についてこう指摘している。

セクハラにおいて、男性と相手の女性は「対等」ではないのです。上司と部下、正社員と契約社員、派遣先と派遣社員、指導教授と学生。そこには力関係があります。そもそもその関係があるからこそ、女性は男性を尊敬し魅力的に思い、交際が始まったのです。
 つまり、仮に恋愛として始まった関係であれ、結果として仕事が続けられない状態になっているとすれば、それは「結果オーライ」ならぬ、「結果アウト」なのです。
(牟田和恵『部長、その恋愛はセクハラです! 』(集英社新書、2013年)、136~137頁)

……セクハラ恋愛では、上司や取引先として、指導教員として、会社や大学という組織から与えられた力が私的に濫用されているのです。意図的であろうがなかろうが、地位に付随した力を濫用することがセクハラなのです。組織がセクハラを問題とするのは、その濫用によって組織の目的や機能が妨げられるからです。
(同、142頁)

オフィスラブとセクハラの境界について考えることは、このオフィスラブ小説論の問題意識と重なる部分が大きい。
伊井直行による、会社員を特徴づけるのは「公」と「私」に分断された身体だという指摘。川上弘美がニシノユキヒコのオフィスラブの相手として年上の上司・真奈美を造形したわけ。また、なぜ東野圭吾は『夜明けの街で』の不倫相手に「派遣社員」を選び、ミステリーの作法でそのあからさまな権力構造の無効化をはかったのか。
何より、綿矢りさは読書を始めた頃から田辺聖子作品の愛読者であることが知られている。牟田の以下の指摘は、第2回で扱った田辺聖子『甘い関係』から、約半世紀後の2016年に書かれた本作までの時代の変化について、明快に説明する。 

かつて女性たちは、そんな気まずい思いをするくらいならと、仕事を辞めることで問題を「解決」してきました。でも現代の女性たちは、そんなことは言ってはいられません。独身・既婚を問わず、働くことは当たり前となり、女性が自分の生計を立てたり家族を支えるのも珍しくなくなりました。心理的な意味でも、仕事に人生をかけるようなやりがいを感じ、仕事は自分のアイデンティティの一部です。仕事が「小遣い稼ぎ」や「嫁入り前の腰かけ」ではない女性たちにとって、セクハラによって職を危うくされるのは死活問題。女性たちにとって仕事の意味が大きく変わった現代だからこそ、セクハラが社会問題として浮上してきたのです。
(同、138~139頁)

一方で私たちは、高度成長期の大阪を生きた『甘い関係』の主人公たちが、当時すでに仕事を通じた自立を目指し、「自分のアイデンティティの一部」にしていたのを知っている。そういう女性はこれまでもたくさんいたし、私の母親もその系譜に連なる。
『甘い関係』の美紀は羽依の精神的な先達だ。セクハラの社会問題化は、ようやく社会の側が彼女たちに追いつき始めたことの証左でもある。

『手のひらの京』は、この「胃が焼ける」ような羽依の物語に、長女・綾香、末っ子・凛の物語も交差する家族小説である。新潮社のコピー「綿矢版『細雪』」とは伊達ではない。性格の違う三姉妹は、それぞれのペースで自分の人生の問題に向き合っていく。当番制になった夕飯作りで、互いの部屋を訪ねて話す愚痴や相談事で、胸にモヤモヤを抱えて帰宅した深夜のリビングで、大人になった彼女たちは適切な距離を探りながら支え合う。
激しくもやわらかい綿矢小説の成熟を味わえる、新境地の傑作である。


photo by Shoichi Masuhara

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西口想(にしぐち・そう)
1984年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、テレビ番組制作会社勤務を経て、現在は労働団体職員。仕事は主にリサーチ、労使交渉、企画・編集、原稿書きなど。文学と映画が好き。
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