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絶対安全不倫小説

オフィスラブ小説論 第3回 東野圭吾『夜明けの街で』

2017/03/24
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オフィスラブは人に言えない。今回は、オフィスラブが必然的にはらむ「人に言えなさ」に注目したい。

この連載の初回に、「公私混同」と書いて「オフィスラブ」とルビをふれると言っても過言ではない、と書いた。日本がオフィスラブ大国でありながら、その恋愛が職場で隠される理由は、第一には公私混同であるためだ。
小説家の伊井直行は、『会社員とは何者か? 会社員小説をめぐって』(講談社、2012年)のなかで、会社員とは身体を二つに――「公」と「私」に分断された存在だと指摘している。
職場で発生する「オフィスラブ」に対して、仕事上に支障がなくとも生理的な気持ち悪さを感じる人も少なくないだろう。それはおそらく、オフィスラブが、「公」「私」という会社員の本質に関わる境界を侵犯するものだからだ。
もう一歩、具体的に考えよう。オフィスラブ小説論である以上、嫌われ疎まれるオフィスラブの代表例についても言及せずには済ませられない。家庭をもっている人が職場で別の人と恋愛をしているケース、つまり「不倫」である。
オフィスラブで、かつ不倫の場合、人に言えなさは頂点に達する。当事者にとっては、職場(公)で人に言えないだけでなく、家庭(私)でも隠し、嘘をつかなければならない。その関係性には存在の足場もない。「公」と「私」という2つの丘の裂け目、暗い暗い谷底での恋愛になる。

東野圭吾『夜明けの街で』は、そんなオフィスラブ×不倫の「人に言えなさ」を主題とし、見事にエンターテインメントに昇華させた小説である。
主人公で語り手の「僕」、渡部は、東京の日本橋にある建設会社に勤務している。30代半ばで、現場の電気系統を担当する25人ほどの部署に在籍し、役職は主任だ。学生時代から付き合っていた有美子と結婚して9年が経つ。4歳の娘・園美(そのみ)との3人暮らしで、2年前に購入したマンションに住んでいる。有美子は出産を機に仕事をやめ、現在は週に1日カルチャースクールの講師をしている。子供が生まれてから夫婦は別々に寝るようになった。
お盆休み明けの酷暑の日、渡部の部署に派遣社員の仲西秋葉(あきは)が配属される。最初はとくに気に留めていなかった渡部だが、その週末に開かれた秋葉の歓迎会で、彼女が31歳であること、眼鏡の下は「和風美人タイプの整った顔立ち」であること、そして恋人がいないことを知る。酒席で皆から恋愛観を訊かれ、秋葉は「結婚してくれる気のない人とは付き合いません」と言う。

「どんな相手が自分に向いているのか、どんな相手とだったら幸せになれるのか、よく分からないんです。だから理想と言うのはありません」
では逆に、絶対にだめだというのはどんな男か。秋葉は即座に答えた。
「夫としての役割を全うできる人でないといやです。ほかの女性に気持ちが向くような人は失格です」
 でも旦那さんが浮気したら? 彼女の答えは明確だった。
「殺します」
ひゅーっと誰かが口笛を鳴らした。
(東野圭吾『夜明けの街で』(角川文庫、2010年)、11頁)

その夜以来、職場の男性たちは恐れをなして秋葉と距離をとるようになる。渡部は彼女と仕事上の直接のやりとりがなかったため、個人的に言葉を交わすこともなかったが、あるささいな「出会い」が2人の関係を大きく変える。
金曜の夜、渡部は学生時代の友人たちと酒を飲んでいた。そのまま皆で繰り出したバッティングセンターで、秋葉がひとり一心不乱にバットを振っているところに出くわす。驚いた秋葉は「会社ではいわないでくださいね」と言う。友人の一人が秋葉をカラオケに誘うと、彼女も合流し、さんざん歌って最後には酔いつぶれ、渡部が家に送ることになる。夜明け前、秋葉はマンションの前で渡部のスーツの上着に嘔吐し、汚れた上着をひったくるように取って、茫然とする渡部に何も言わずそのまま部屋に帰ってしまう。
後日、渡部と秋葉は終業後に職場の外で会う約束をする。渡部ははじめ、上着の返却と謝罪の言葉を期待していたが、いっこうに上着は返ってこず、秋葉もなぜか「ごめんなさい」という一言をどうしても言わない。渡部はいらだちと不信感を抱きながらも、次第に、彼女の不器用で挑発的な性格にひかれ始める。2人は上着と謝罪をめぐって口論した後、和解しようと横浜のレストランで食事をする。

横浜駅から電車で帰る間、僕は幸福な思いに浸っていた。ただしこの時はまだ、今夜かぎりの気分だと自分にいい聞かせていた。
 それが大きな間違いだったと気づいたのは、その次に会社で秋葉を見かけた時だった。彼女の姿は輝いて見えた。目のレンズの焦点がそこに合わせられたように、ほかのものはぼんやりと、そして彼女の姿だけはくっきりと映った。僕の胸は高鳴っていた。
 仕事をしていても、いつの間にか僕は彼女を目の端で捉え、彼女が発する声には耳が敏感に反応した。それどころか――呆れることに、驚くことに、ほかの男性社員が彼女に話しかけているのを見て、軽く、いやいやかなり真剣に嫉妬していたのである。(同39頁)

職場のなかでの一つの背景でしかなかった人物が、ちょっとした非日常での出会いを契機に、突然前景としてせり出してくる。恋愛感情に限らずとも、多くの人が、毎日通うオフィスでそうした経験をしたことがあるのではないか。偶然その人の私的な部分に触れてしまったことで、違う角度から照明があたり立体的に見えるというような。

自分の感情に気付いた渡部は、妻の有美子には「ゴルフの練習」や「接待」などの嘘をつき、土日にも秋葉と会うようになる。車でドライブに行き、2人で食事したり酒を飲む程度の関係だ。渡部は最初、秋葉に本気になることはないと思っていた。「自分の家に一歩入れば、いつも通りの夫、いつもと同じ父親に戻れる」と。
「不倫する奴なんて馬鹿だ」というのが渡部の持論だ。不倫の代償はあまりにも大きい。社会的信用も家庭生活も全てを失い、ときに失職さえする。だから目移りすることはあっても、決して心まで奪われてはいけない。

一方で彼は、会社員となって、順風な結婚生活を送ってきたこの10年で、いかに自分が多くのものを失ってきたかという思いにとらわれている。瑞々しい恋愛感情と情熱的なセックスは、その「失ったもの」のなかでも大きな比重を占めているようだ。
2人でドライブや食事を重ねるうちに、秋葉の過去に何か重大な事件があったことが分かってくる。それが彼女がどうしても「ごめんなさい」と言えない理由に関係している。秋葉は、今は事情を話せないが、来年の3月31日が過ぎれば話せると言う。「その日はね、あたしの人生にとって、最も重要な日なんです……」。

ある日、渡部はデートの帰りに秋葉を実家まで送った際、出がけだった秋葉の父親に出くわす。すると秋葉は、予期せぬ遭遇に戸惑った父親にあてつけるように、渡部を豪邸に招き入れる。大理石のテーブルと革のソファーがある広大なリビングに通され、酔っている秋葉からおかしな話をきく。かつてこの部屋で、しかもこの大理石のテーブルの上で、殺人が起きたと言うのだ。帰ろうとする渡部に、秋葉は「こんなところで一人にしないで」と抱きつく。その夜、2人はあっさりと結ばれてしまう。
越えてはならない一線を越えた夜、ようやくスイッチが入ったように、物語は東野圭吾ミステリーへと急旋回していく。
『夜明けの街で』は、一言で言えば、社内不倫の相手が時効の迫る未解決殺人事件の容疑者だったという話だ。

事件が起こったのは15年前。秋葉はまだ高校生だった。
その頃すでに秋葉の両親は離婚し、家には父親の仲西達彦と、家事を手伝いにきていた母親の妹の浜崎妙子、そして父親の秘書の本条麗子が出入りしていた。
ある日、仲西家の実家のリビングで、秘書であり父の愛人でもあった本条麗子が、何者かにナイフで胸を刺されて死んでいるところを発見される。最初の発見者は秋葉。彼女はその場で失神して倒れてしまう。帰宅した妙子と父親は、リビングで倒れている2人と、庭側のガラス戸が開いているのを見つける。
麗子のバッグがなくなっていたことから強盗殺人事件として捜査されるが、ガラス戸やナイフの指紋はすべて拭き取られており、目撃者などの手がかりも一切出てこない。神奈川県警は15年間容疑者を逮捕できないまま時効の日が迫っていた。

長年この事件を追ってきた捜査一課の芦原刑事とともに、殺された麗子の妹・釘宮真紀子も独力で捜査していた。渡部の前に次々と現れる彼らは、当時高校生だった秋葉こそが真犯人なのではないかとほのめかす。動機は、両親の仲を引き裂かれた恨み。たしかに渡部は、秋葉自身の口から「時効の日を過ぎれば話せることがある」と聞いていた。
渡部は秋葉との不倫関係から抜けられなくなっていく。不倫の秘密と嘘にまみれながら、15年前の殺人事件にも巻き込まれ、「もし秋葉が犯人だったとしても愛し続けられるか」と自分に問う。
そして時効の日。秋葉は、事件の起こった実家のリビングに渡部と父親、妙子を呼び出す。深夜0時を過ぎ、時効が成立した瞬間、秋葉は15年間誰にも言えなかった真実を語りはじめる……。

不思議な読後感をもたらす小説だ。職場と家庭の間で引き裂かれる主人公の姿が、不倫による歓楽とともに描かれる。最後に妻・有美子の「気づき」が間接的に伝えられはするが、倫理上の問題は不思議ときれいに洗い流されている。エピローグとして付された「おまけ 新谷君の話」は、そのことへの作者のエクスキューズなのかもしれない。
ひとまず、オフィスラブ小説論の立場からは、この作品が使った「置き換え」について指摘しておきたい。

『夜明けの街で』ではまず、渡部が家庭と秋葉のどちらを選ぶか、という葛藤が示される。そのよくある不倫の葛藤は、過去の未解決殺人事件の詳細が少しずつ明かされるうちに、秋葉は真犯人なのかどうか、もし秋葉が殺人犯だとしても(家庭を捨ててまで)愛せるか、という葛藤に置き換えられていく。
一見、葛藤の度合いは深まっているようだ。しかし、実はこの置き換えは主人公にとって都合が良い。なぜなら、殺人事件の謎は、不倫とは本来まったく別の話だからだ。殺人犯という「答え」は、主人公のコントロールできない外部にある。
犯人が誰かという問題と、渡部が誰を愛するかという問題が一体のものとされることで、ミステリーの最後の謎解きが不倫の葛藤もまとめて処理してしまう。本作の冒頭でも示唆されるように、不倫とは、他でもない自分自身の行動によって、公と私の谷間へ転落する過酷さをともなうものだ。だが、この置き換えが主人公の行動の責任をあいまいにし、悲劇を巧妙に回避させている。

この小説の興味深い点はもう一つある。『夜明けの街で』で置き換えられているのは、家庭を選ぶか秋葉を選ぶかという葛藤だけではない。オフィスラブ×不倫による渡部の「人に言えなさ」が、次第に、殺人事件の真相をずっと胸中深くに抱えてきた秋葉の「人に言えなさ」に置き換わっていく。
謎解き=結末が単なるご都合主義に陥っていないのは、この物語の構造に関わる組み換えが、手品のような手さばきで行われるためだろう。言えないことの中身だけでなく、言えない主体さえもすり替わってしまうのだ。見事である。

とはいえ、本作はやはり、不倫に手を染めた男にとって都合の良すぎる話である。
渡部は、クリスマスやバレンタインデーに秋葉に会うために奔走するが、つねに秋葉の求めに応じる形であり、本質的には徹底して受け身だ。主人公の受動性はこの小説全体を貫いている。
秋葉が目の前に現れ、秋葉が身を投げ出し、問いを出し、最後に秋葉が答えまで言う。渡部は差し出された禁断の恋を惚けた表情で味わうだけだ。苦悩してみせるが、最後まで決定的な行動には踏み出さない。その徹底した受動性と、不倫の倫理的問題の回避は、明らかに手を結んでいる。エンターテインメントと言ってしまえばそれまでだが、2つの「置き換え」を作者が意図して行っていることは看過できない。
オフィスラブ小説論では、『夜明けの街で』を、ミステリーの枠組みを使った「絶対安全不倫小説」と呼びたい。もちろんこのコピーは語義矛盾だ。半分は揶揄しているが、もう半分はこの作品のもつ後ろめたい魅力をあらわしている。「絶対安全な不倫」に興味がある人は、ぜひ本作で東野圭吾に騙されることをおすすめする。


photo by Mekkjp

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西口想(にしぐち・そう)
1984年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、テレビ番組制作会社勤務を経て、現在は労働団体職員。仕事は主にリサーチ、労使交渉、企画・編集、原稿書きなど。文学と映画が好き。
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