2017/02/24 公開

祖父母たちのオフィスラブ伝説

オフィスラブ小説論 第2回 田辺聖子「甘い関係」

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田辺聖子の長編小説「甘い関係」は、雑誌編集記者の彩子(23歳)、中小企業の事務員として働く美紀(29歳)、駆け出しの歌手の町子(20歳)という3人のヒロインの仕事と恋愛のドタバタを描く群像劇だ。
彼女たちは大阪市の西はずれにシェアハウスを借りて共同生活をしている。というと、現代を舞台にした話かと思うかもしれないが、「甘い関係」が新聞連載されていたのは1967年(単行本は68年刊)、ちょうど半世紀前の大阪が舞台である。
今回は「甘い関係」を読みながら、東京オリンピック(1964年)が終わり、大阪万博(1970年)の準備を進めていた頃、日本の高度経済成長期のオフィスラブ模様を見てみたい。

今から50年前、男性の大学進学率は約2割、女性は5%(短大が7~8%)程度だった。女性が高校や短大を出て就職することは珍しくなかったが、「甘い関係」の主人公たちのように、実家が大阪近郊にありながら自立するために家を借りるケースは稀だっただろう。未婚女性は結婚するまで実家にいるのが普通とされ、就職や学校のために実家を出なければならないときは社宅や親戚の家に住んでいたからだ。
しかし、女性が働き、おしゃれや夜遊びを楽しみ、自由に恋愛するためには、実家を出て自分で部屋を借りることは必須とも言える。

いまの若い女のサラリーでは、一人で暮らせるほど余裕はないし、部屋もひどい場所しか当らない。しかし二、三人で組むと、ちょっとした部屋にありつけるし、生活も何かと便利になる。「ワリカン独立」とでもいうべきであろうか。
(田辺聖子『甘い関係』(文春文庫、2010年)、44~45頁)

彼女たちが住んでいるアパートの間取りは、6帖+3帖+台所に「いつもよく故障する水洗便所」。3人で暮らすにはかなり窮屈でも、この貴重な「ワリカン独立」を足場に、ヒロインたちは人生を謳歌する自由を手に入れる。「未婚女性は家に属するもの」という考えが主流だった連載当時、この設定がどれほど読者の憧れと反発を集めたか想像できる。

50年前のオフィスラブを知るために、ヒロインの一人、松尾美紀に注目したい。小説のなかで彼女の職種は「BG」と呼ばれている。「OL」という言葉が生まれる以前、女性の一般事務職は「ビジネス・ガール」の頭文字をとってそう呼ばれていた。

ちなみに、BGがOLという言葉に置き換えられたきっかけは、1964年の東京オリンピックだと言われている。オリンピックを翌年に控えた1963年、「BGが英語圏で売春婦を意味する」という噂が広まり、来日する外国人から誤解されては困るということで、まずNHKが放送での使用をやめた。そして『女性自身』が誌上公募をして選んだ代替語が「OL」だったという。

美紀が連載時の1967年に29歳であったとすれば、彼女は1938年生まれ。いま生きていれば78歳くらいだ。美紀が働いていた当時の企業社会では、男女の人事コースは公然と区別された。男性事務職員は幹部社員に出世するのが前提で、女性事務員=BGは結婚退職を前提に採用された時代だ。
濱口桂一郎『働く女子の運命』(文春新書、2015年)によれば、当時の日本企業では、女性事務員の採用時に「結婚したときは自発的に退職する」旨の念書をとったり、あるいは結婚しなくても、女性のみを30歳・35歳定年とする就業規則が普通に見られた。企業側も「結婚前の娘さんを預かる」という意識だったのだ。

そうして「働くこと」の入口でジェンダーの枷を嵌められるBGにとって、生存・結婚戦略の一つとして、職場内恋愛(オフィスラブ)による結婚相手探しが入ってくるのは必然だった。会社内の女性のほとんどが高卒や短大卒の20代前半の未婚女子。そのなかで、美紀は破格のキャラクターを与えられている。
美紀は「婚期」(当時)をすぎた29歳のベテランBGとして、所内の事務仕事を完璧に把握し、思うまま操っている。さらに給料をコツコツと貯め、副業で事業投資をし、手芸用品店や小さなミルクホール、アパートなどを開業、小まめに事業をひろげて成功している。社内では課長以下多くの従業員にお金を貸しつけているため、誰も彼女に頭が上がらない。さながら女実業家のようなオーラを持ち、どっしりと大柄で声が大きく、酒にも強い。

美紀は彼ばかりでなく、二百人あまりの小さい会社の中の男性すべてに、軽侮に似た感じをもっている。どの男も、あんまりぱっとしないので、若い社員を品定めして、ああだこうだ、といっている朋輩のBGにも、あわれみに似た軽蔑をいだいているのである。
美紀から見れば、すくないサラリーのためにあくせく働いて、妻子も養いかね、麻雀の賭金につまり、パチンコで時間をつぶす会社の男たちが、何ともなさけない、いじましい存在に見える。
(同74頁)

軽蔑、という気持だけが、新鮮な迎え水のように、美紀の生きるエネルギーのポンプに活力を与え、新しい生命の水を噴き上げさせてきたのであった。
(同200頁)

男はサラリーマンとして安い給料で一生会社に縛りつけられ、女はそんな情けない男に経済的に依存して家庭に入らないといけない。お見合いや社内恋愛、寿退社、妊娠・出産……美紀から見れば、そんなシステムは馬鹿げているし、その仕組みに嬉々として乗っかる男女もあほらしい。その窮屈さやくだらなさから逃れ、自由に生きるために何より大切なもの、それは自分の仕事で生み出すお金なのである。
だが、美紀にも社内に好きな男がいる。経理部の「痩せてちょっとにがみ走った好男子」、26歳の北林だ。このウソつきで頼りなく、万事にだらしない上に経済力もない年下の男が、美紀には可愛く見える。結婚するつもりはないが、仕事帰りに北林と一緒に焼鳥屋で酒を飲んで(美紀のおごりで)、彼のアパートに寄ればつい男女の関係を続けてしまう。屈託がないわけではないが、後先のことを気にせず、自分の欲望や快楽に素直に従う美紀というヒロイン像は新しかっただろう。というか、私の同世代の友達の話を聞いているみたいだ。

ある日、美紀は上司の小山田課長から、高校を出たばかりの新米の後輩トモ代が妊娠したという噂が流れていると聞く。よりによってその相手とされているのは北林だった。裏切られたという怒りで泣きながら寝た翌朝、美紀は始業前にトモ代を湯沸室に呼び出す。

「わたしはね、若い娘さんをあずかってる身ですからね。十九やハタチの人にそんな噂たてられたら、わたしが会社で、しめしがつかへんやないの!」
「ああ、そうか、結局、松尾さんが上役の人によびつけられて叱られへんか、と心配してはるんですね」
「それだけやありませんよ、あんたのことを考えて……」
「つまり、あたしがうらやましいんですの? それほどもててる、いうことが」
「誰がうらやましいもんですか。……おまけに、相手の人、知ってんの? 評判の悪い男よ。たとえ、デマにしても」
「アハハ……それはデマとちがうわよ」
 トモ代は再び、おかしそうに笑った。
「そこはほんとうよ。あたし、北林さんと結婚するんやもん」
「うそ!」
「うそなんて、なんで、そんなこと松尾さんにいえるの?」
トモ代は美紀の体をおしのけて、しゅんしゅんと煮えたぎる湯沸しのガスをとめた。
「北林さんと結婚するってほんと?」
 美紀は顔から血の気が引いていくのが分った。
「はあ、北林さんは、来年の秋ぐらいいうてはるのよ。でも、あたしは春にはしたいんです」
トモ代は、顔いっぱいに、愛嬌のある笑いを浮かべて美紀にすりよった。
「あたしね、あたしね……ほんと、松尾さんには悪いことしたと思うてます」
「何がなの?」
「いえ、北林さんとのこと」
「北林が何をいったの?」
 美紀は思わず呼び捨てにして、トモ代をにらみすえた。
「何を北林から聞いたのか分からないけど、何もかもデマやわ!」
「まだ、あたし何もいうてないのに、デマやなんて――」
 とトモ代はますます落ち着き払って、美紀の逆上ぶりを興味ありげに見ている。
(同87~88頁)

美紀が「若い娘さんをあずかってる身」と言っているのは、すでに書いたような企業側の雇用慣行があったためだ。
10歳もの歳の差があり、結婚相手探しのためには実力行使も辞さないタイプの小柄で愛嬌があるトモ代と、そうしたすべてに違和感を感じている美紀が、一人のダメな男を巡って争うこの場面。ともすれば、よくある女同士のドロ沼の確執として処理されるシーンだ。
しかし、著者・田辺聖子の語りは、ヒロインの美紀の視点に立ちながらも、どちらの立場をも肯定も否定もしない柔らかさがある。彼女たちのひりひりするような切実さ、情熱を同じだけ認め、冴えわたる筆致でリアルな大阪弁の応酬を描き出す。「甘い関係」は、全編にわたり、決して高見から見下ろさないこの作家特有のあたたかいユーモアに満ちている。半世紀以上もの間ずっと支持されてきたゆえんだろう。

新聞連載小説らしく、「ワリカン独立」をした3人のヒロインには、息をつく間もなく次々と試練がふりかかる。東京に出て歌手として勝負する町子、最後に新進小説家となる彩子とともに、美紀にも怒涛のドラマ(と修羅場)が押し寄せ、意外な形で新しい幸せへの足掛かりを見つける。誰とどうなるのか、ぜひ読んでみてほしい。
56年ぶりのオリンピックがもうすぐ東京にやってくる。今、学校を出て就職する人たちの祖父母の世代が、ちょうど美紀たちの世代だ。「甘い関係」という小説を媒介にして、あなたの祖父母に、若かりし頃のオフィスライフについて聞いてみるのも楽しいと思う。きっと、想像を超える豊かで生き生きとした物語が、あなただけに語られるはずだ。


photo by Anssi Koskinen

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西口想(にしぐち・そう)
1984年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、テレビ番組制作会社勤務を経て、現在は労働団体職員。仕事は主にリサーチ、労使交渉、企画・編集、原稿書きなど。文学と映画が好き。
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