オフィスラブと「私」の物語

オフィスラブ小説論 第12回(最終回)

2018/03/22
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この連載の感想を聞いているとき、何度か同じ質問をされた。
なぜ西口は、しばしば女性の主人公に着目し、ジェンダーやフェミニズムの論点に言及しているのか、と。
男性で、定職に就き、異性愛者であるあなたには、当事者性のない問題ではないか。もしかするとそんなニュアンスもあったのかもしれない。

私は確かに、女性の働き方や恋愛・結婚観、人生の選択に対して興味を持っている。
小説を読むときも映画も観るときもそうだ。男のヒロイズムよりも、女性の登場人物たちが何を考え、何を求め、どう行動したかに感情移入する。
ただ、男でいると、ジェンダーやフェミニズムの視点から何かを語り、当事者として話を聞いてもらうには、何らかの自分語りが必要になる。最近そう感じる機会が増えた。
これは主語の問題だ。ことジェンダーの問題について語るとき、男である私が「私」のことをすっ飛ばして「私たち」と語りだしても、その「私たち」が何を指すのか相手にはよく伝わらない。
思えば、私は1年間の連載で何度も「私たち」という主語を使ってきた。
最終回となる今回は、小説作品を紹介するのではなく、この主語の問題に向き合ってみたい。
以下は、これまで語り手だった「私」という人物についての注書きである。

私は連載の初回にこう書いた。

私の両親は、1970年代後半に職場で出会って交際し、半年後に結婚した。幼なじみKの両親も職場結婚だ。私たちはオフィスラブ時代の子供たちである。

このオフィスラブの前史から始めたい。小さい頃から断片的に聞いてきた私の母親の物語だ。

私の母親は、1951年に福岡県郊外の炭鉱の町で生まれた。兄と弟に挟まれた3人兄弟の長女だった。
母の父(私の祖父)は地元で建築会社を営んでいて、家は中流階級の上のほうだった。母は勉強が好きで、運動神経のいい利発な女の子だった。母の母(私の祖母)が病弱な人だったため、将来は医者になりたいと思っていた。
母の父は、当時の経済力のある男たちの例にもれず、ずっと「お妾さん」を囲っていた。半ば公然の事実だったのだろう。専業主婦だった母の母はそのことにとても苦しんでいた。
「私の手に職があれば子供を連れて離婚できたのに……」
多感な娘だった母の胸に、そんなメッセージが深く刻まれた。
母の一家は、母が小学校5年生のときに福岡市内に引っ越した。家業の跡継ぎを期待された長男を良い学校に進学させるためだった。
母の家には蔵書がそれなりにあった。九州という保守的な土地柄にしては、女の子が読書にふけっていても咎められない程度には自由に育てられた。
母は中学2年生の頃にボーヴォワールの『第二の性』を読み、フェミニストとしての最初の洗礼を受けた。高校は県内有数の進学校に進んだ。

医者志望だった母は、高校3年のときに国立大学医学部の入試に落ち、浪人したいと両親に相談した。すると父親から「女の子が大学浪人なんてするもんじゃない」と反対された。
いま聞くと驚くが、半世紀前の当時、地方で娘を育てる親たちの多くが同じように考えたらしい。娘の成績が良いのは喜ばしいが、浪人してまで高い学歴を得てやりたい仕事に就くよりも、婚期を逃さずに結婚して子供をつくることが最優先である、と。
そうした考えの親をもつ母の世代の女性にとって、大学浪人は望んでも手に入らない、性差別ゆえに「贅沢」なものだった。
母は浪人と医学部進学を諦め、滑り止めに受けていた東京の文系私立女子大に進学する。
でもここからが母らしい。女子大は肌に合わないと感じ、こっそり仮面浪人をして、1年後に都内の文系国立大学に入り直した。すでに親元を離れて単身上京している身。2年目に大学を移ることについてもうまく言いくるめたのだろう。

母が大学を移ったのが1971年。
71~72年は、学生運動が先鋭化し、内ゲバがドロ沼化した時期にあたる。連合赤軍による「あさま山荘事件」は1972年だ。
同じ頃、国会には優生保護法改正案が提出される。これは「経済的理由」による中絶をできなくし、「出生前診断で判明した障害児」の中絶を可能にする条項を加える内容で、ウーマンリブ運動を中心に幅広く反対運動が展開された。ここから日本のフェミニズムは、参政権などを求める「第一波フェミニズム」の次の、「第二波フェミニズム」と呼ばれるフェーズに入った。
当時の女子学生の生活を描いた小説に、桐野夏生の『抱く女』(新潮社、2015年)がある。舞台は1972年の東京・吉祥寺周辺。主人公の直子は、自分が安心し納得できる居場所を社会のなかで探しながら、兄や男子同級生たちが未来のない学園紛争の暴力に飲み込まれていく様を見つめる。
母はちょうどその頃に吉祥寺に下宿していた。だが、母からそういった血なまぐさい話は聞いたことがない。学生運動が盛んな大学ではなかったのかもしれない。
母は吉祥寺の中華料理屋でバイトしながら大学生活を満喫していたようだ。中国語を専攻し、ワンゲル部で登山をして、大学の同級生に恋人がいた。

大学卒業が近づき、就職先を選ぶにあたって母が最も重視したことは、女性が結婚後も働き続けられる仕事だった。「手に職があれば離婚できた」という自分の母親の無念を、ずっと忘れずにいたのだ。
最初の男女雇用機会均等法ができるのはまだ10年先。4年制大学を出た男女の間には厳然たる就職差別があり、女性には、将来にわたる雇用と収入が約束された就職口はほぼ無いも同然だった。
当時、文系の4大を出た女性が定年まで働ける仕事と言えば、教員かマスコミの記者職くらいだった、と子供の頃に母から聞いたことがある。
母は新聞記者の職を何とか見つける。学生時代から付き合っていた恋人は大手メーカーに就職した。彼がエリートサラリーマンとして転勤族になるのが確定したので、専業主婦になりたくない母は、別れることを決めたようだ。

母は就職してから数年後に、社内の別部局にいた3歳上の私の父と付き合い始める。二人は資料の貸し借りを通して知り合った。
二人とも長時間労働でとにかく時間がなかったので、深夜営業をしている新宿の喫茶店で夜遅くに待ち合わせ、一緒にコーヒーを飲んで話すだけのデートを重ねた。
二人は付き合って半年後に結婚の誓いをする。その際、母は結婚の条件として「家計も家事・育児もすべて二人で協力して折半すること」を求めた。母にとっては絶対に譲れない条件だった。
父はそれを受け入れ、二人は結婚した。結婚してしばらくして私の兄が生まれ、3年後に次男の私が生まれた。1984年のことだ。

しかし育児が始まると、母が懸念していた通り、負担は彼女に集中した。
母は「話が違う」と思ったという。家計はきっちり折半なのに、なぜ家庭責任は平等に分け合えないのか。
30代後半になっていた父は、転勤こそなかったものの、海外との折衝を担当する部署で多忙をきわめ、毎日終電で帰ってくるような生活だった。その上、突然1ヶ月や2ヶ月の海外出張を命じられることも珍しくなかった。
母も長時間労働の男性職場で、休みは日曜のみという過酷な労働環境だった。当時はまだ「ハラスメント」という概念もなかったが、職場でのいやがらせなどはあったかもしれない。
母は、保育ママ制度から公立保育園、そして隣近所のサポートをフル動員して、育児と仕事の両立を何とか乗り切っていた。保育園の閉園後は子供たちを保母さんの家に連れて帰ってもらい、夜遅くに迎えに行く。毎日が綱渡りだったはずだ。
大人になって考えると、母が倒れずに育児を終えられたのは奇跡としか言いようがない。母はいまだに「当時お世話になった人たちには足を向けて寝られない」と言っている。

母はフェミニストだったが、テレビのなかのフェミニスト像とはまったく違っていた。
記者という職業もあったのだろう。議論好きではなく、正義感は強いが怒りを露わにすることは少ない、いつも人の話を静かに聞いているタイプの人だ。
そんな母が求める人生のモデルは、おそらく最初から明確だった。
自分の意思が人として尊重されること。
女性であるという理由で差別されないこと。
世の中を良くするための仕事をすること。
仕事を続けて収入を確保し、対等な関係のパートナーと家族を築くこと。
そして、いつでも離婚できる状態にしておくこと。
母は希望するほとんどを手に入れたが、真に対等な夫婦関係だけは思い通りにいかなかった。大人になってから出会うしかない、「配偶者」という他者をコントロールすることは難しかった。

それでも、団塊の世代の男にしては、父は家のこともそれなりにやったし、母の考えに理解のある数少ない男性だったはずだ。だから二人は40年以上夫婦関係を続けられたのだろう。
今回、あらためて母に『第二の性』を読んだ年齢を訊いたとき、隣にいた父は「ぼくは中1で読んだよ」と口を挟んでいた。私にとっては、父の人生のほうが謎が多い。
これは私が勝手に思っていることだが、母は彼女の人生で思い通りにいかなかった部分を子育てに託していた。自分が産んだ二人の男の子を真に自立した男性に育てることで、母の母から受け継いだ課題を、次の世代に引き継いだ。
子供に早いうちから家事を手伝わせ、料理をすれば褒め、特に性差別的な発言は見逃さず、「家のことは女がやってくれる」という観念を持たないように育てた。そして、自分自身の人生の話を聞かせた。
私は誰より母を尊敬していたので、そんなメッセージをしっかりと受けとって育った。
ただ、大学を出て就職するまで、自分が母の人生からそれほど深く影響を受けているとは気づいていなかった。

私が最初に就職したのは、主にテレビ局から番組制作を受注する制作会社だった。
従業員300人以上の業界では大きな会社で、誰もが知っている長寿番組から映画制作までを幅広く手がけていた。私は大学生のときにインターンで入った映画の現場が面白かったので、映像制作を仕事として学びたいと思って入社した。その会社には5年間いた。
私は学生の頃、好きなことを仕事にしなかったら働く意味がないと思っていたので、働き方は二の次で、本質的な問題ではないと考えていた。
入社前から分かっていたことだが、テレビの制作現場には「勤務時間」という概念がなかった。編集作業に入ると1~2週間家に帰れず泊まりこむこともザラだ。
家に帰っていても、いつ急な連絡が入るか分からない。
2ヶ月以上、一日も休むことなく働いていると、休日の過ごし方が分からなくなる。久々の休みは嬉しさよりも戸惑いのほうが大きかった。
私はその働き方を「合宿状態」と呼んでいた。スタッフは、寝食をともにしつつ寝食を忘れて仕事をするので、四六時中一緒にいる。すると公私もへったくれもない関係になる。
仕事とプライベートの区別がつかない職場では、社内恋愛、社内結婚、社内不倫が常態化する。打ち合わせ場所、ロケ先、編集室など至るところに密室があった。会社の役員や有名なプロデューサー・ディレクターが新人の女子社員に手を出しているという噂を幾度となく聞いた。ハラスメント体質の人が多く、中傷と暴言、暴力も絶えなかった。
私は最初の就職でオフィスラブの魔窟のようなところに飛び込んだわけである。

その頃、私も同期の女の子と付き合っていた。
日付が変わってから職場を出て、タクシーで彼女の家に向かう。お酒を飲んでその日にあったことを話して、一緒に眠った。当時、2ヶ月に一度は2週間程度の海外ロケが入っていて、会える時間は限られていたから、オフのときはほとんど一緒にいた。
だんだん仕事に慣れ、番組制作の面白さが分かってきた頃、将来について考え始めた。
仕事を続け、そのうち結婚をして、運が良ければ子供を授かるかもしれない。このままいけばそれが順当だろう。上司の収入を知っていたので、経済的な面は心配していなかった。ただ、職場の男たちを見ていると、家族のために時間を使える働き方でないことは明らかだった。
当時付き合っていた彼女は「男は外で稼いで家族を守るものだよ」と私に言っていた。それは、彼女が自分の両親を見て受け継いだ性別役割モデルだったが、全然ピンとこなかった。
これで良かったんだっけ……? 靄のような疑問や不安が、身体のどこかから湧いてきた。

一方で、当時の上司だったテレビ業界の男たちは、仕事で激しく鍛えられていることもあって、話していても魅力的な人が多かった。モテるしお金もあるから、異性関係が派手だった。
ただ、成功者でマジョリティである彼らと話していると、根っこのどこかに「損している」という感覚があるように感じた。
「損している」と感じているから、それを取り返そうとして、過剰に仕事に依存したり、とっかえひっかえ若い子に手を出したりする。そうして自分の家族との距離をさらに広げ、「損している」という感覚を深めていく。羨望を集める地位にいる男たちが、どうしてそんなことになるのかが不思議だった。
女性社員にすぐ手を出すことで知られる、自分の父親くらいの歳の役員が、あるとき私にこんな話をした。
「おれはこんなに家族のために頑張って働いてきたのに、家族は分かってくれなかった」。
その言葉を聞いたときに、やっぱりそうなんだ、と思った。彼らは傍からは強者のように見えるが、どこか取り返しのつかない虚しさを抱えている。それは、仕事とジェンダーと社会との関わりから生じる構造的な虚無感であり、「損している」感覚だと思った。
私は、本当にこういう人生を送りたいのだろうか?

男というジェンダーについて、私が当事者として真剣に考えたのはそれからだ。そのときに初めて、自分の人生に対して決定的な選択を迫られたのだと思う。
以降、日本の労働環境の歪みと、それに大きく影響を受ける家族のあり方について勉強するようになった。そして母親の人生の物語が、どれほど自分の考え方に影響を与えているかを自覚した。
私は、2012年に労働団体のスタッフという畑違いの業界に転職した。現在は微力ながら、誰もが人として尊重され、幸せに働き続けられる職場環境をつくるために仕事をしているつもりだ。
現実を知れば知るほど、目指す道のりの遠さに茫然とするけども。

私は、そんな地点から「オフィスラブ小説論」を書き始めた。
1年間お付き合い下さり、本当にありがとうございました。


photo by Yoshikazu TAKADA

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西口想(にしぐち・そう)

1984年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、テレビ番組制作会社勤務を経て、現在は労働団体職員。仕事は主にリサーチ、労使交渉、企画・編集、原稿書きなど。文学と映画が好き。