未来のオフィスラブはプラトニックである

オフィスラブ小説論 第10回 雪舟えま「プラトニック・プラネッツ」

2017/11/17
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もうこの仕事を長く続けられそうもないな、と思うとき、私たちは強く不安を感じる。
転職できる場所があらかじめ決まっている人なんて、ほとんどいないだろう。今日までずっと、いまの職場に何とか順応し、自分なりに努力して貢献してきた。いまさらよそで働く……これまでの時間と経験を丸ごと失うような気持ちになる。先の見えない失業中の苦しみは、この世界にありふれているからこそ、言葉にならない過酷さがある。

経済誌は「20年後に消滅する仕事」といった類の特集が好きだ。
最近の流行は「AI」。ビッグデータ活用と人工知能の普及によって、これからどんな労働者が「お払い箱」になるのか。そうしたオフィスの未来予想図は、私たちの潜在的な不安にするりと取り入る。未来の働き方についての物語は、人びとの不安と欲望を貪り食う怪物みたいだなと思う。

厚生労働省は2016年、『働き方の未来2035:一人ひとりが輝くために』という有識者懇談会の報告書を出した。これが良くも悪くも一部で話題になっている。
「2035年には私たちの働き方はここまで変わっている」……そんな経済誌のような中身だが、特筆すべきは、その厚労省の報告書が「いまの労働法などの仕組みを変えよう」と呼びかけていることだ。
報告書は、「個人事業主と従業員(会社員)との境がますます曖昧になっていく」から、いまの労働法制度のままでは「日本で働く人はガラパゴス化し、多くの仕事は国境を超えて世界に分散していく」と、脅しめいた予言をしている。
ざっくり言えば、働く人の「自由」「自立」を実現するために、いまの労働法による労働者保護を弱めるべきだと主張している。そして、国による社会保障やセーフティネットの代わりに民間の充実した保険を入れるべき、と。

だが、少し立ち止まって考えたい。こうした、いろいろな思惑のもとで語られる「未来」とは、果たして本当に「未来」なのだろうか?
自分の「未来」の物語を語る場面を思い浮かべてみる。20年後にはこうしていたい、こんな自分でありたい。そのイメージは、目の前にある「現在」のパーツから組み立てるしかないだろう。その「現在」とは、私たちの現状認識そのものだ。
それゆえ、「未来」の物語は「現在」をひきのばしたり裏返した、私たちの願望の寄せ集めになる。この世界をどこから・どのように認識しているかという語り手の視線が、「現在」をネガフィルムにして「未来」のイメージを焼き付けるのだ。

「労働の未来」は、雑多な欲望や不安が渦巻く物語のフィールドになっていることは述べた。では、本題であるオフィスラブの未来は?
それを探るために、今回は近未来を舞台にしたオフィスラブ小説『プラトニック・プラネッツ』を取り上げたい。作者は歌人・小説家である雪舟えまである。

『プラトニック・プラネッツ』の主人公は、ロボットペットメーカーで事務職として働く二十四軒すわの。学生時代からの恋人の住吉休之助と、巨大な団地の一室で暮らしている。すわのが会社で働き、漫画家をめざす休之助を応援する、という同棲生活を5年間続けている。
物語は夜、会社から帰ってきたすわのが「おとむらい」と呼ばれる儀式に出るところから始まる。

 三千世帯をこえる団地では、いつもだれかが死にだれかが生まれている。屋上では毎週のようにおとむらいがあって、住人たちは棺の死者を見送る宴に参列するのだった。知りあいでもない家のおとむらいに顔を出す人びともいた。とりあえずおとむらいの夜に屋上にゆけば食事と酒にありつけるし歌や踊りを見たりできる。人恋しくて来るひまな人、身寄りのない人びともいた。
(『プラトニック・プラネッツ』(KADOKAWA/メディアファクトリー、2014年)、7~8頁)

歌の上手なすわのは、同じ団地の同級生ハムスに頼まれ、ハムスの祖父・マムフリじいさんのおとむらいで歌うことになった。おとむらいでの歌には、死者の魂がちゃんと次のところへ旅立てるようにする応援歌としての意味があるという。さながらお経のような役割だろうか。
すわのがビジネススーツ姿で自作の歌を歌い、屋上でビールを飲んでいると、空から、死者を迎えにきた飛行船が近づいてくる。物語の重要な舞台となる「斎の船」(さいのふね)と呼ばれる乗り物だ。

 すわのはまた祭壇のほうを見やった。斎の船がふんふんふんふんとやわらかな、花の香りをかぎに来た鼻息のような音をさせていよいよ屋上に近づき、祭壇の二十メートルほど上空にとまった。参列の人たちはいまは全員、飛行船の真したで棺をとり囲むように集まっている。
 船の底がひらいて、すうっと光のチューブ、エレベーター筒が伸びてきた。筒が屋上のコンクリート面に届くと、透明なステップに乗ったふたりの男が光の中を降りてくる。黒い礼服すがたのふたりは、ひとりが年輩の責任者風、ひとりは若い。エレベーターから降りると、深く礼をして人びとに向かって挨拶をした。
「フューチャークラシコ葬祭の駿河台です」年輩のほうがいった。「荻原です」若いほうがいった。
(同、16頁)

『プラトニック・プラネッツ』の世界では、肉体は滅んでも魂はなくならない。死は旅立ちであり、すばらしいことだとされる。死者の魂は、つぎの経験を求めてふさわしい星に転生する。転生する前には「待合エリア」で魂たちが憩うらしい。
……そうした物語を用意するのは元来宗教の役割だが、この小説は特定の宗教コミュニティの話というより、世界全体の話として書かれている。

私たちはSF(サイエンスフィクション)というと、記号的で冷たく、過度にメカニックで、人心の荒廃した世界を思い浮かべる。だがこの作家が描く「未来」は、懐かしさとかぐわしさに満ちている。出てくる物や地名によく「フューチャー」とか「未来」といったワードが付けられるのも茶目っ気がある。
「斎の船」は霊柩車と火葬場を兼ねる飛行船である。「おとむらい」の儀式から死者の棺を運びだし、飛行しながら火葬炉で遺体を焼き、遺言や遺族の意向にそって空から散骨する。それに加え、フューチャークラシコ葬祭社は、地上の世界と死者の世界をつなぐ寺社や教会のような役割も担っている。

これまで読んできた古今のオフィスラブ小説では、物語の入口/出口で結婚というライフイベントが登場することが多かった。連載の初回で書いたように、オフィスラブとは「仕事」「恋愛」「結婚」が交差する出来事だから、当然といえば当然だ。
ところが本作にメインで描かれるのは、同じ冠婚葬祭でも「婚」ではなく「葬」。結婚が「二人」の「未来」を祝福するイベントであるなら、葬式は「一人」の「過去」を偲ぶイベントであるという点で、実に対照的である。未来の話でありながら猛烈に懐かしい感じがするのは、『プラトニック・プラネッツ』が「葬」をメインテーマにしているからでもあるだろう。

少し脱線するが、日本が近代化するなかで冠婚葬祭の形がどう変わっていったかを知るには、斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』(岩波新書、2006年)が手っ取り早い。結婚も葬式も、急激な変貌をとげたのが1900年前後、明治30年代のこと。それまではどちらも行列中心のイベントだった。輿に乗った花嫁を囲んで婿の家へ(花嫁行列)、あるいは棺を背負ってぞろぞろと檀那寺や墓場へ(野辺送り)。それが20世紀に変わった頃、「行列型から集会型へ」「移動型から劇場型への質的転換」が起こったと斎藤は書いている。
葬式に関しては、その時にビジネスとして発明されたのが祭壇と霊柩車、そして産業革命の余波としての近代的な火葬技術である。それが当時の庶民にとって未来的な葬儀のあり方だった。
だから、空飛ぶ霊柩車兼火葬場という「斎の船」のイメージには、過去と現在の私たちがしっかりと投影されている。やはり「未来」には現在が詰まっている。

それにしても、雪舟えまが描く「懐かしい未来」には破格のかわいさ、心地良さがある。たとえば、屋上の「おとむらい」から団地の部屋に戻ったすわのが、部屋着に着替えてから会社のメールをチェックする場面。

 すわのは休之助の手からカップをとり、居間へ出てゆく。ソファーにおいた通勤バッグからノートを取りだしてひらき、「クレオパトラー」と呼びかける。青白い光と芳香を放ってノートは立ちあがった。(同、25頁)

この「ノート」はタブレットPCの進化版のようだが、紙のノートのような映像が浮かんでくる。
また、すわのが勤めるラブリーテクニカ社は、「ほんものそっくりのロボットアニマルで業績を伸ばしてきた会社」だ。そのIT先端企業でも、ロボットペットに与えるエサが「擬似小松菜」だったり、社員たちがクレーム対応に苦慮していたりする。返品されてきたうさぎのロボットペットの不具合が、「うんちをしすぎる」というのもいい。

すわのは「おとむらい」の晩、亡くなったばかりのマムフリじいさんと夢のなかで再会する。ここが死んだ人の「待合エリア」で、真っ白のカフェのような空間だ。そこへ、あの荻原という葬祭社の若い社員が現れる。
荻原楯(たて)が「君は、歌のじょうずな、すーさん」とすわのの名前を呼ぶと、「草むらに風が吹くように皮膚のうえを鳥肌がざーっと駆け抜け」る。すわのは、おとむらいの屋上で出会った楯に一瞬で恋をしていたのだ。

荻原楯との出会いが、すわのの運命を大きく動かしていく。
同じ頃、休之助の作品がついに漫画新人賞を受賞する。喜び合った翌日、すわのが休日出勤をしていると社屋で火事が発生。立ち往生していたら、なぜかフューチャークラシコ葬祭社のあの飛行船が迎えにくる。楯が光の筒からビルの窓に片手をかけ、すわのを抱き上げて救い出すシーンは、ちょっと「魔女の宅急便」の逆バージョンみたいである。
この日、すわのは初めて斎の船の内部を目にする。彼らとおとむらいをいくつか回っているうち、ある喪主から代理で歌うよう頼まれる。多くの人に愛されたおじいさんのおとむらいだ。すわのは全身全霊で歌いきり、こっちがほんとうだという思いに胸が熱く満たされる。私が本当にやりたい仕事はこれだ、と。
その後の決断は早かった。彼女はロボットペットの会社を辞め、フューチャークラシコ葬祭社に歌い手として雇ってもらう。そして、休之助と暮らした団地を出て一人暮らしを始める。

すわのが仕事と私生活を同時にリセットした背景には、休之助が漫画家としてデビューしたことも影響している。
受賞式に着る服を買いに出かけた時、すわのは試着室から出てきた休之助を見て「休之助はこんなにりっぱになった」と思う。もう、私がいなくてもこの人はだいじょうぶ。
休之助は根っからの芸術家肌で、作品を描いているときは他のことが何もできなくなる。すわのはそんな彼を応援しつつ、生活面ではもっぱら教育者・支援者の役割だった。二人の関係性は、休之助の漫画家デビューによってゴールを迎えてしまったのだ。
仕事面でも、すわの自身「これがわたしの仕事と呼べるようなことをまだしたことがないかもしれない」と感じていた。

私たちは転職するとき、住む場所やパートナーシップといった私的な問題も大きく変化することがある。
どんな仕事をして社会と関わるかという問題と、プライベートで誰と一緒に過ごすかは、どうしても繋がってくるのである。すわのは「これがほんとうだ」と思える仕事を見つけ、同時に衝動的な恋心に突き動かされ、新天地を求める。

小説は中盤から、すわのの視点とともに、新人賞をとった休之助の担当編集者・高島平堀子の視点が交互に入ってくる。
堀子は小さい頃からBL作品が大好き。国内最古のBL雑誌を抱えるエレメンタルコミック社に入社したばかりだ。ちなみに、小説内では「BL」はボーイズ・ラブではなく、「男同士の恋愛ジャンル『BL(ブルー・ラブ)』」と、どこかパラレル・ワールド的な位置づけがされている。
やや唐突な印象がある編集者・堀子の語りの導入は、実は作品全体、さらに雪舟えまという作家にとって重要な意味がある。雪舟作品を語る上で、BLもしくはGLという要素はスルーできない本質的なものである。

恋愛小説にとっては完全にネタバレになるが、先回りして書いてしまおう。すわののオフィスラブの相手になるはずだった萩原楯とは、その後どうなるのか。

楯とすわのは、同僚としての信頼関係を築いていく。
そんなある日、楯はすわのに「女性に興味がない」と告白する。同性愛者でもない。最近の言い方では「アセクシャル」のような感じだろうか。勇気を出して告白した楯に、すわのは大きなショックを受ける。しかし彼女はしっかりとそれに応答する。

「楯さんや楯さんが住む世界にどうしてこんなにひかれるのか考えたんです。楯さんは、わたしには未知の考えかたや働きかたを知っていて、軽やかで、きれいで、あなたと一緒にいると、わたしもっと自由になれそうな感じがした」
 すわのはつづける。
「さいしょは、恋人になれたらなって思いました。周りの人から期待されてるのもわかってたし、このままほんとにそうなれるんじゃないかって。でも、楯さんはわたしにそんなこと望んでない。――正直とまどいました。こんなに親切にしてくれるのに女としてまったく想われていないっていう関係が、経験なくて」
 好意には下心があるものだという思いこみ。その点では、おシャアさんと自分は似たもの同士だったとすわのは思う。
「わたしじゃだめなのかなって、ちょっと落ちこむこともありました」
 すわのは自分の足もとを見おろす。片足をゆらゆらとしてみる。足首にずっとつながっていた鎖が、解けたかのような軽やかさの中で、
「でもいま、すっきりしてる自分がいます。楯さんの前では、わたし女じゃなくていいんだなーって、わかって」
(同、189~190頁)

雪舟えまは本作以降、荻原楯と兼古緑(かねこみどり)という2人の男の恋愛・パートナーシップを軸にした「みどたて」シリーズを書くようになる。

未来のオフィスラブを描く『プラトニック・プラネッツ』で、途中からBL編集者の視点が導入され、主人公の恋も相手が異性愛者ではないがゆえに一度破れ、すわの自身がある部分で解放されること。これらすべてが、「現在」を反映させた「未来」のオフィスラブだ。
私たちの現在は、「女」として見られること、「男」としてふるまうよう求められることが、仕事と恋愛両面での個人の幸福の追求にとって、重い足枷になっているのだ。

すわのは楯の告白を受け入れたあと、ともに仕事をしながら、生と死の世界、広い宇宙のなかを旅することを楯から教わる。二人で美しい光景をたくさん見て、男女の性愛をともなう恋愛関係にならなくても、熱い感情を分かち合うことができると思うようになる。

物語のラスト、すわのが休之助と住んでいた団地を再び訪れる場面もいい。
懐かしいドアの前に立ち、変わらない表札を見て、すわのはこう思う。
「いま、はじめて心からやりたいことをして生きている。その点ではやっと休之助で対等になった気がする」。
これが、すわのがずっと望んでいたものだ。

「未来」の物語が私たちの現在の裏返しであるなら、いまのオフィスとラブに足りないのは『プラトニック・プラネッツ』が描いたもの――「これがほんとうだ」と思えるようなアイデンティティとなる仕事と、対等なパートナーシップ――に尽きるのだろう。

天職だと思える仕事が見つかり、それに一生を捧げられるなら、どれほど幸福な人生だろうか。
ただし、いま喧伝されている、「自由」で「自立的/自律的」な働き方こそが未来の仕事であるとして飛びつくのは、やや早計だと私は思う。そうした宣伝の裏にあるのは決まって、目ざとい誰かのビジネスに過ぎないからだ。
もう一つの、対等なパートナーシップは、どこで手にすることができるのだろう。
この点でも、権力関係の総本山であるオフィスラブの分は非常に悪い。オフィスラブは、そもそもがヘテロセクシャル中心で、ハラスメントの温床である。血縁・地縁の代わりを社縁が果たした高度経済成長期の遺物だと見なされても仕方ない。多様性と共生を旨とする現代社会では、端的にいって時代遅れなのかもしれない。

本作が描いたオフィスラブの未来は、第一に「プラトニック」であった。その含意を正面から受け止めてなお、このオフィスラブ小説論には、まだ何か言うべきことが残されているだろうか?


photo by yamauchi

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西口想(にしぐち・そう)

1984年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、テレビ番組制作会社勤務を経て、現在は労働団体職員。仕事は主にリサーチ、労使交渉、企画・編集、原稿書きなど。文学と映画が好き。