フェミニズムとアウトロー物語の矛盾を示す『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』

映画は観れないものだから心配するな 第24回

2020/04/22
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ここ数回で考えてきた「女はアーサー・フレックにすらなれない」問題に直接答えるような映画が先月封切られた。『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』(キャシー・ヤン監督、2020年)である。
ハーレイ・クインは、『スーサイド・スクワッド』(デヴィッド・エアー監督、2016年)でジョーカー(ジャレッド・レト)の恋人の元精神科医として登場し、一躍世界的な人気を得たDCコミックスのキャラクター。『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』は、ジョーカーと別れたハーレイ・クイン(マーゴット・ロビー)が、「ジョーカーの彼女」という庇護されながらも従属的であったステータスを捨て、自立したアンチヒーローとして「覚醒」し活躍する物語だ。
連載の締めくくりとして、大ヒット公開中(※現在は新型コロナ対策で多くの映画館が休館中)の本作について考えてみたい。この作品が提起しているのは、アウトローとジェンダーの関係にとどまらず、仕事と恋愛、依存と自立など、私たちのリアルな人生に直接かかわる問題である。

ハーレイ・クインは、ジョーカーと出会う前、ゴッサムシティの悪党が送り込まれる精神病院アーカム・アサイラムに勤務する精神科医で、ハーリーン・フランシス・クインゼルという名前だった。
『スーサイド・スクワッド』で語られるように、彼女とジョーカーとのなれそめは「オフィスラブ」だ。医者であるハーリーンが、患者としてやって来たジョーカーに恋をして自ら狂気に呑まれ、ジョーカーの脱走を手伝ってしまう。彼女自身も前途有望な職を捨てて脱走、ジョーカーのパートナーとして「ハーレイ・クイン(道化師)」に名前を変える。
ハーレイは『スーサイド・スクワッド』の時から、明るく強く、狂気的でありながら人情もある、キュートで無敵なアンチヒロインだった。ただその裏側には、オフィスラブによって自立した仕事を辞め、相手に合わせて名前を変え、「○○の彼女/嫁」としか呼ばれなくなるという、私たちにもおなじみのジェンダー問題が貼りついていた。
だから本作が、ハーレイ・クインを主人公にすえる上で、ジョーカーとの失恋から物語を始めるのはある意味で必然だった。

ハーレイ・クインの無敵さを担保していたのは、ゴッサムシティの黒幕であるジョーカーの絶対的な権力、威光だった。彼女はジョーカーと別れることで、プリンちゃん(ジョーカー)への恋心から「覚醒」するのだが、それは同時にジョーカーの庇護の下から離れ、もう「無敵」ではいられなくなることを意味する。
まるで、業界で権力をもつプロデューサーおじさんと決別した才気溢れる女性が急に叩かれ始めるように、ハーレイも、ジョーカーとの別れが周囲に明らかになるや、これまで傍若無人に振舞っていた全方面から命を狙われるようになる。

ゴッサムシティで覇権を握りつつあるローマン・シオニス(ユアン・マクレガー)、通称「ブラックマスク」もハーレイの命を狙う一人。ただ、ローマンは莫大な金融資産の暗号が秘められたダイアモンドをアジア系の少女・カサンドラ・ケイン(エラ・ジェイ・バスコ)に盗まれ、行方を追うところだった。
ローマンに殺されそうになったハーレイは、そのダイアを取り返すことと引き換えに、自分の命を助けてもらうという取引をする。
ハーレイは少女を捕獲するが、カサンドラはダイアを飲み込んでいた。ブラックマスクの軍隊は少女を殺してでもダイアを手に入れるよう迫ってくる。ハーレイはそんなギャングどもを返り討ちにすべく、ハーレイと同じくらいチームプレイに向かない女たちと一晩だけチームを組む。
復讐に生きる孤高の殺し屋ハントレス(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)、組織に裏切られ続け誰も信じなくなった刑事レニー・モントーヤ(ロージー・ペレス)、ローマン経営のクラブの歌姫で唯一スーパーパワーを持つブラックキャナリー(ジャーニー・スモレット=ベル)だ。
映画の後半はこの不揃いなヴィランチーム「BIRDS OF PREY」が、ローマン一味と「悪 VS 悪」のカオティックな戦いを繰り広げる。

『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』の本領は、他のDCアンチヒーロー作品と同様、暴力とユーモアが混然一体となったアクションシーンで発揮される。これほどカラフルな華やかさと強さを両立させたDCヒーローはいなかったかもしれない。
主演兼プロデュースをつとめたマーゴット・ロビーはインタビューでこう言っている。

ハーレイの行動はすべてが常軌を逸している。たとえば、戦いのシーンで布が垂れ下がっている大きなジャケットを着たり、地面が動く場所でローラースケートを履いて戦ったりと、いつも状況にまったく適さないものを着用している。意味のわからないことばかりをしているけど、それがハーレイらしさなの。いちばん面白そうな武器だからといって、銃撃戦に野球のバットを持って登場するのがハーレイよ。
(作品プレス資料より)

そう言われてみると、ハーレイ・クインという存在そのものがポップアートのようだ。一見ちぐはぐに見せながら、既存の秩序をひっくり返すオルタナティブを提示する。ジェンダー、人種、階級といったシリアスな問題について、大衆作品に求められる政治的正しさを絶妙なバランスでクリアする。そして、アウトローが体現する個人主義とシスターフッドを「可愛く」結びつけるのだ。

だけど私が最初に抱いたのは、個人のアウトローとフェミニズムの時代のアンチヒーローは食い合わせが悪いんだな、という感想だった。
その一端はハーレイ・クインの暴力描写にもあらわれている。
ハーレイは、マフィアだろうが警察だろうが、自分の行く手をふさぐ者たちを容赦なくなぎ倒していくが、ローマンの残酷な殺戮手法とは対照的に、彼女の暴力は直接的に死をイメージさせないようポップな演出が施されている。殺人描写として残酷さのリミッターを外すのは主にカサンドラを守る場面だけだ。ここには「弱き者に危害を加えるヤツには情け無用」という倫理が示されている。
『ジョーカー』の主人公アーサー・フレックの暴力描写にも確かにそうした配慮があった。だがアーサーが討つのは弱者を虐げるエスタブリッシュメントだけではない。ここは最後まで譫妄と現実が混然一体となった語りが効いてくるところだが、自分とそう変わらない社会的弱者をも、彼の主観で許せないと思えば容赦なく殺す。アーサーの倫理観には、ジョーカーへの転生を予感させる逸脱がある。それを目撃した瞬間、主人公に対する観客の共感が揺らぐのである。
私は、ハーレイ・クインをもっと露悪的に、観客の世俗的倫理を嗤う人物として描くこともできたのではないかと感じた。ハーレイが、映画が宣伝するような「モラルゼロで暴れまくる」主人公ではなくなったのは、彼女が女性だったからなのだろうか?

この問題の根底には、おそらく「正義」と「悪」との非対称性がある。
コラムニストの山崎まどかは刑事レニー・モントーヤを「銭形警部」に喩えているが、たしかに本作は私たちにおなじみのピカレスク物語、アニメ『ルパン三世』シリーズを彷彿とさせるところがある。
ルパン三世と次元大介、石川五ェ門は、それぞれが自立したアウトローでアンチヒーローだが、3人は決して切れない絆で結ばれたチームだ。彼らがもともと「悪」であることは完全に形骸化している。
他方で、ジョーカーの魅力は、どれほど協力関係にあった「仲間」でも残酷に裏切ることのできる冷血さにある。ジョーカーには仲間や相棒はいない。むしろ仲間を殺せるということが、ジョーカーを真正の「悪」たらしめている。その徹底した孤立は、2019年版『ジョーカー』にも連綿と引き継がれていた。
2020年に封切られた『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』は、フェミニズムの物語の流れを汲みながら、DCコミックスの新たなアンチヒーローを生み出すために最大限の目配せをした作品だと思う。ただ、フェミニズムの連帯・シスターフッドと、それが主題とならなかった時代の個人のアウトローの物語は避けがたく矛盾するのである。
私はだから、今作に喝采を送りつつ、この矛盾がさらに華麗に止揚されるような、次世代のハーレイの登場を夢見ている。


photo by Holly Victoria Norval

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