『黒い家』と会社員という怪物

映画は観れないものだから心配するな 第23回

2020/03/26
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日本映画の女性シリアルキラーで忘れがたいのは、森田芳光監督『黒い家』(1999年)の菰田幸子(大竹しのぶ)である。
連続殺人犯、凶悪犯罪者、反社会的な人物。彼らを主人公にした映画は実際の事件からモチーフを得て「社会的」に描かれることが多いのに対し、ホラー映画で主人公を襲う創作された殺人鬼は内面や葛藤をもたないモンスターとして描かれる、と前回書いた。
ホラー映画のモンスターの役割は観客を怖がらせることにあり、観客から「理解されること」にあるわけではないからだ。理解や共感は、恐怖というエンタテイメントにとって邪魔だ。
『黒い家』の菰田幸子はその意味で典型的なモンスターであるが、彼女はジェンダー化されたモンスターである。

貴志祐介のホラー小説を原作とする『黒い家』は、日本だけでなく韓国でも映画化されている。こんな物語だ。
主人公の若槻慎二(内野聖陽)は、生命保険会社「昭和生命」の金沢にある北陸支店に赴任して1年ほどの若手社員である。保険金の申請内容に虚偽や問題がないかを査定する保全担当の主任だ。
ある日、特徴のある話し方の女性から「自殺でも保険金は出るのか」と電話で問い合わせを受ける。若槻は相手が思い悩んでいると感じ、自殺を考えているなら考え直すようにと諭す。
後日、若槻は菰田重徳(西村雅彦)という保険加入者の家に呼び出される。そこで、菰田家の子どもが首を吊った状態で死亡している姿を発見してしまう。死んだ子は菰田の妻・幸子の連れ子で、生命保険が掛けられていた。
初めから事件の疑いを持った若槻は、菰田重徳に以前から不可解な保険金請求があったことを知る。いつも軍手をしていた重徳は、事故に見せかけて自ら指を切り落とすことで保険金を請求する「指狩り族」の一人だった。
昭和生命は保険金支払いをいったん保留にするが、はじめは妻の幸子が(ここで最初の電話の主が幸子だったことを知る)、続いて夫の重徳が連日若槻の勤務先を訪れて支払いを迫る。
若槻は菰田幸子を保険に加入させた外交員・大西光代を訪ね、幸子と重徳が小学校の同級生で、当時重徳がつきまとっていた女の子の水死事件に二人が関わっていたことを知る。
若槻は二人の小学校時代の作文を恋人・黒沢恵(田中美里)の所属する心理学研究室に分析してもらい、二人に反社会性人格障害、いわゆる「サイコパス」の疑いがあると聞く。
これらはすべて、重徳が首謀した保険金目当ての傷害・殺人事件ではないか。そう考えた若槻は幸子に匿名の手紙を送り、このままではあなたまで殺されてしまうと注意を促す。
その後、若槻の自宅への無言電話や脅迫のFAXがエスカレートする。さらに、重徳が勤め先で両腕を切断されるという事故が起きる。
幸子は被害者ではなく首謀者なのではないか。やっと若槻が確信したのは、幸子が自分の住む部屋に侵入するのを見た瞬間だ。保険金のために、他人も夫も我が子も見境なく殺し続けていた幸子は、その障害となっていた若槻の恋人・恵を監禁したうえで、若槻を襲いに来たのだ。若槻は彼女を救出しに菰田家へ向かう――。

『黒い家』は、何度観ても、奇妙で気持ちの悪い映画だ。
極端におどおどとした「怖がり役」の主人公・若槻をはじめ、登場人物の演技はコントのようにデフォルメされている。薄暗い画面には黄色と緑色の差し色(幸子はいつもレモンイエローを、重徳は緑色を身に着けている)がしつこく使われ、台詞はぼそぼそと小声で聞き取りづらい。
それらすべては、主人公の仕事特有の暗さや赴任先の違和感を物語っている。違和感は職場の外の世界にとどまらず、昭和生命の営業所のなかにも満ちている。

重要なのは、この映画のサスペンスの多くは、若槻自身によってもたらされているということだ。
菰田幸子は、はじめからこの映画の禍々しさの中心にいる人物だった。しかし若槻は終盤近くまで彼女を狂気的な夫をもった被害者だと思い込んでいる。なぜなら、彼女が女性だから。
若槻は、女性が保険金目的で我が子を殺す可能性をはじめから除外している。保険金詐欺をはたらく加入者に男性が多いといった仕事上の経験則も働いているのだろうが、若槻の行動には「まさか女はそんなことをしないだろう」という強い前提がある(若槻のバイアスは、後半、松井刑事(町田康)に「本当の親だったらあそこまですると思いたくないもんね」と指摘される)。主人公のその思い込みが覆される瞬間に、強烈な恐怖が発生する。
この映画のキャッチコピーは「この人間には心がない」である。
「この人間」とは、一義的には菰田幸子個人を指すだろう。だが、若槻のジェンダーバイアスが恐怖を呼び込む作品の構造を踏まえれば、これは「女/母親に心がないはずがない」という、より一般的なメッセージの裏返しである。そのねじれたメッセージは、クライマックスの有名な場面(「乳しゃぶれ!」)でトラウマティックに反復される。

犯罪心理学者の金石が菰田重徳を「サイコパス」ではないかと指摘した後、同じく心理学者の恵は金石の断定を批判しつつ、若槻にこう問いかける。

恵「若槻さんは、本当に人間らしい心を持たない人間がこの世に存在すると思う?」
若槻「思うよ」
恵「どうして?」
若槻「君は実際にそういう人間に会ったことがないからだよ。毎日保険会社にいてろくでもない人間に会ってみろ。君だって……」
恵「そんなの、仕事のストレスでそうなってるだけじゃない。身体が思うようにならないのと同じよ」

恵はここで、壊れているのは本当に菰田夫妻だけなのか、と問いかけている。
もしかするとこれが『黒い家』の本当のテーマなのではないかと思う。何より怖いのは、真面目で気が弱いはずの会社員が、どれほど凶悪な人間に狙われ危害を加えられても、決して仕事を休んだり会社を辞めたりしないことだ。
目の前で子どもの死体を見せつけられた時点で、私ならしばらく休職を願い出る。しかし主人公の若槻はその後も淡々と勤務を続ける。
窓口に毎日、気の狂った菰田夫婦が来る。無言電話や嫌がらせのFAXが止まず、郵便物まで勝手に開けられる。協力を依頼した心理学者が殺され、自宅に侵入され破壊される。恋人が拉致されて殺されかける。
恵は心身に深い傷を負って実家で療養するが、若槻は事件のあとでも自室の引っ越しさえしない。
大量殺人があばかれた幸子は生死不明のまま行方をくらまし、逮捕されていない。そんな状況で、若槻は異動も休職もせず平然と同じ職場に出勤する。そしてしばらく経ってから、ひとり残業中のオフィスで再び幸子の襲撃を受ける。

若槻は物語上、保険会社の人間として事件の謎を追う役割を担うが、この主人公を突き動かしているのは、凶悪犯を追う刑事のような正義感や職業的使命感ではないだろう。もっと温度の低い何かだ。どんなに体調が悪く熱が出ていても朝6時に起きて満員電車で通勤するような、サラリーマンのからっぽの情熱である。
『黒い家』が描いたジェンダー化されたモンスターは、希代のサイコパス・幸子だけではない。若槻こそ、この社会に偏在する「心がない」人間、会社員としての男性である。


photo by Japanexperterna.se

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