理解されすぎる『モンスター』と女性アウトロー

映画は観れないものだから心配するな 第22回

2020/02/26
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前回取り上げた『復讐するは我にあり』もそうだが、個人のアウトロー、たとえばシリアルキラー(連続殺人犯)を主人公にした映画には、実在の事件に基づく物語が多い。
対照的に、ホラー映画に出てくるシリアルキラーは、ほとんどが創作されたキャラクターだ。彼ら殺人者たちは映画の主人公にはならない。あくまでも、表の社会を生きていた主人公がある日道をそれて出会ってしまう対象であり、「恐怖」や「不安」の具現化としてのモンスターである。
モンスターという役に内面は存在しない。内面が存在しないキャラクターは、そもそも「個人」ではなく、葛藤も生じえないため、物語の主人公になれない。

個人のアウトロー映画も、連続殺人という行動の面ではモンスターと同じである。だが、彼ら彼女らは内面をもつ「個人」として登場する。独特の生い立ちがあり、将来の希望があり、挫折がある。私たちの理解や共感を誘う怪物である。
私たちはそうした「反人間」的な人物を人間として理解したいという欲望を捨てられない。実際の連続殺人事件の犯人像が注目を集め、犯行の背景や動機について取材・報道が過熱するのは、アウトローと「私たちの社会」との関係について知りたいと多くの人が思うためだ。その意味で、個人のアウトロー映画は、モンスターを社会的な存在として理解したいという観客の要請によって作られるともいえる。

そうした個人のアウトロー映画がなぜ男の物語ばかりなのか、と前回の最後に問うた。それは、『ジョーカー』公開後SNS上にあがった「女はアーサー・フレックにすらなれない」という感想と基本的には同じ問いだ。差別と社会的排除に喘いでいた弱者がダークヒーローに転生する、そうしたカタルシスをもたらす人物像さえ、男性にのみ許されているとすれば、それはなぜなのか。
映画の設定が実際の殺人事件の影響を受けている点は、無視できないかもしれない。
警察庁の統計によると、日本で検挙された殺人犯の女性比率は長年2割前後で推移している。つまり8割近くの殺人は男性によって行われている(これは世界的にも同様の傾向が見られる)。一方で、近年の日本では殺人による死亡者は男性より女性のほうが5%程度多い。映画における殺人犯のジェンダーが男性に偏り、女性が被害者として描かれがちであるのは、実態としてそうだから、という答えがまずありえる。

実在の女性シリアルキラーを主人公にした映画に『モンスター』(パティ・ジェンキンス監督、2003年)がある。
モデルになったのは、アイリーン・ウォーノス(1956~2002年)というアメリカ・ミシガン州出身の女性だ。アイリーンは、アルコール中毒の母親と精神病の父親に幼児期に捨てられ、引き取り先の祖父からは性虐待を受けた。誰からも保護されず性暴力にさらされる過酷な環境で育ち、弟や妹を養うため10代前半の頃から娼婦の仕事で生き延びてきた。人生に絶望しかけていた30歳の頃、ゲイバーで知り合った年下の女性・ティリアと恋に落ちた。生涯で初めて出会った信頼できるパートナーと暮らすため、経済的に困窮していたアイリーンは売春の客を次々に殺害し、金品や車を奪った。
実際の裁判でアイリーンは、最初の殺人について、客からレイプされそうになったため正当防衛で射殺したと主張した。
映画『モンスター』でも、アイリーン(シャーリーズ・セロン)が殺人という一線を踏み越えたのは客の暴力のためである。だが裁判ではアイリーンの正当防衛の主張は認められず、7人の殺人容疑(一人遺体が見つからず起訴は6件)で死刑判決を受けた。映画ではセルビー(クリスティーナ・リッチ)として描かれる、パートナーのティリアが司法取引により検察側の証人になったことで、裁判はアイリーンに不利に進んだ。

『モンスター』というタイトルは皮肉だ。この映画を観た観客は、アイリーンが「モンスター」ではなかったことを知るだろうから。
彼女が経験したような過酷な環境で生まれ育つ可能性は誰にでもある。アイリーンは適切な保護も、地獄のような環境から抜け出す機会も与えられなかった。そう想像した瞬間、アイリーンというキャラクターは社会化される。彼女は共感不可能な「モンスター」ではなくなるのだ。
アイリーンには一人だけ心を許す男性の友人がいる。ベトナム戦争の元帰還兵と思われるトム(ブルース・ダーン)である。

アイリーン「みんな私のことを生き残ることしか考えないクズと思ってる」
トム「わかるよ、君の気持ちが。君が生きるためにしてることは、好きでやってるわけじゃない。それしか方法がないからだ。君が今感じているのは罪の意識だ。でも君の力ではどうしようもない。俺たちは戦争から戻り、君と同じことを感じ何人もが命を絶った。誰も理解しない。今までもこれからも。置かれた環境が違うんだ」
アイリーン「そう、環境が違う。そのとおりだよ。私には“選択肢”がなかった」
トム「そうとも、生きる術だけ。生きなくては」
アイリーン「そうだね」

トムはアイリーンの置かれてきた環境が戦場と変わらないものだったと「わかる」と言う。
女性ゆえに男性から暴力を受けるという構造を克服するため、アイリーンは二つの道を見出した。一つは女性をパートナーにすること。もう一つは男性に対してはさらに強い暴力で対抗すること。殺しはアイリーンにとって、虐げられる運命に負けないための唯一の「方法」だった。しかしアイリーンは逮捕され、唯一の希望だったセルビーへの不器用な愛も逮捕後には不通になってしまう。

ここであえて『ジョーカー』と異なる点を考えてみたい。
『モンスター』はアメリカを震撼させたシリアルキラー、アイリーン・ウォーノスを繊細な内面をもつ個人として描いた。だが、この映画でアイリーンは「理解」されすぎているのではないか。
個人のアウトローがもつ妖しい魅力は、その人物の行動がどれほど「自己責任」(「自己実現」)で、どの程度「社会のせい」なのかを観客が判断できないような、混乱した状況と密接に関係している。その魅力とは「美的な空虚さ」であり、正義が無意味化されることのカタルシスである。必ず理解できなさが残る。
その点、『モンスター』はアイリーンの理解できなさを十全に解除している。
それはおそらく、アイリーンが戦わなければならなかった敵が映画のなかで明確に描かれているからだ。この社会を支配しているすべての男性である。
アイリーンは女性=社会的弱者として生きることを拒否し、暴力によって対抗した。結果として逮捕・処刑されたが、彼女の正義は観客に明らかにされ、無意味化することはなかった。
「私には“選択肢”がなかった」というアイリーンの言葉の意味は、私たちにしっかりと伝わっている。だが、それゆえにアイリーンは個人のアウトローとして無力化されたようにも感じる。
もしかすると私たち観客は、女性のアウトローを見つめるとき、理解できない余地が残ることを許せないのかもしれない。マイノリティであるということは、アウトロー映画においては「美的に空虚」であることを認められない、ということなのだろうか。


photo by Susanne Nilsson

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