アウトロー映画と社会正義――『ジョーカー』『復讐するは我にあり』『シェーン』

映画は観れないものだから心配するな 第21回

2020/01/29
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『ジョーカー』(トッド・フィリップス監督、2019年)は、昨年観た映画のなかでも心に残り、いまだうまく消化できていない作品である。
舞台は1981年、オイル・ショック後の不況と財政難のアメリカ・ニューヨークを思わせる、架空の都市ゴッサムシティ。主人公のアーサー・フレックは、シングルマザーである母の恋人から幼い頃にDVを受けたせいで、突発的に起こる笑いをコントロールできず、日常的に譫妄があるなどの脳機能障害を抱えている。
この映画の貧困と格差、社会的排除の描き方は現在の私たちのリアリティに直接通じている。アーサーの通っていた福祉施設のカウンセリングは行政の予算削減により打ち切られた。彼が感じる痛みや悲しみ、疎外感は、観客の共感を誘う。
だが、スタンダップ・コメディアンになりたいという彼の夢は、暴力の被害者から加害者になる経験をへて、過剰な復讐劇へとこじれていく。エスタブリッシュメントを討ちながら罰せられないダーク・ヒーローの登場に、鬱屈していた大衆は熱狂する。アーサーが「ジョーカー」として生まれ変わる頃には、私たちの抱いていた同情や共感は完全に行き場を失ってしまうのである。

アーサーが初めて殺人を犯す地下鉄のシーンの始まりを見て、『電車男』じゃん! と思った。電車男が酔っ払いのサラリーマンから女性たちを助け、エルメスと出会う場面だ。もちろん展開は真逆だが。
暴発に至るまでのアーサーの境遇は現代の男性問題を描いているようで、私たちを不安にさせる。そのためか「インセル」や「オルトライト」について言及した『ジョーカー』評も少なくなかった。

ライムスターの宇多丸は、自身のラジオ番組で『ジョーカー』について、「主人公を単にその社会的弱者、同情すべき存在、単に“かわいそうな人”とだけ置かずに、つまり単純な善悪二元論に落とし込まない」「最後の最後まで揺さぶりをかけてくる」ナラティブが非常に巧みだと指摘している。
また、評論家の赤木智弘は、アーサー=インセルという見立てを否定しつつ、「アーサーが殺すにしろ殺さないにしろ、その動機は極めて個人的なものだ。そこには社会に対する復讐という意図はない」と論じる
つまり観客は、アーサーという「個人」と「社会」との関係をうまく裁けない。言い換えれば、アーサーの行動がどれくらい「自己責任」(あるいは「自己実現」)であり、どの程度「社会のせい」であるのかが判断できないということだ。
そこが映画として素晴らしいとの評価がある一方で、映画批評家のリチャード・ブロディは、そのどっちつかずの歴史観を批判している
ブロディが言うには、『ジョーカー』のプロットは現実に起こった殺人事件をモチーフとして拝借し、それらの背後にあった人種問題を意識させるように作られている。しかし劇中人物のホワイトウォッシュ(白人化)や、アーサーが人種差別に無頓着なキャラクターとして描かれることによって、「最も本質的な歴史的要素についてはあからさまに歪曲し、見て見ぬ振りをしている」。それは「美的な空虚さ」だ、と彼は述べる。
これら賛否に分かれた評は、もしかすると同じことを言っているのではないか。

このことを考えるために、『ジョーカー』を「アウトロー映画」の系譜に位置付けてみたい。
日本でアウトロー映画といえば、『仁義なき戦い』シリーズをはじめとするヤクザ映画が想起されるかもしれない。だが、私が想定しているのは、社会から逸脱したまま組織化されない一人ぼっちのアウトロー、つまり「組織人」であるヤクザやマフィアにはならない個人のアウトローの映画だ。
たとえばそれは、今村昌平監督『復讐するは我にあり』(1979年)である。

『復讐するは我にあり』は、日本の戦後高度成長まっただなかの1963年から64年にかけて起きた連続殺人事件「西口彰事件」を題材にしている。原作は独自の取材にもとづく佐木隆三の同名小説だ。
実在の西口彰は、1925年に五島列島のカトリックの家庭に生まれた。戦時下で過ごした10代から窃盗などの非行を重ね、少年刑務所に送られる。
37歳の頃、福岡県で集金中の専売公社職員とその運転手を殺害。その後2か月半ものあいだ、全国指名手配をされメディアを賑わせながら、京都大学教授や弁護士を騙って各地で詐欺や殺人を重ねた。西口がその頃に広がった全国の高速交通網を駆使したことで、各県警間の連携の不備が明らかになり、広域対策がとられるきっかけにもなった。
映画は、原作に沿って、この豪胆かつ繊細な連続殺人犯を榎津巌(緒形拳)として造形し、事件の経過や犯行の手口は事実をなぞっている。ただ、巌の父親・鎮雄(三國連太郎)や妻・加津子(倍賞美津子)との複雑な家族関係は映画版の脚色だという。

巌の子どもの頃の場面で、離島のカトリック教徒として何重もの差別を受けた父親が、重要な財産である船を日本軍の将校に没収されるシーンがある。幼い巌はその不正義に憤り将校に殴りかかるが、「陛下の御為に」強権をふるう軍人に対し、社会のマイノリティである親たちは何もできない。
戦後、成人した巌は一時GHQの雇われ人になり、父親との確執も深めていく。
アウトローとなった巌の行動は、しばしばカネ目当てで、罪のない庶民や弱者を犠牲にするものだ。どこまでも利己的に見える。だがどこかで、その核には「父=神殺し」の欲望があり、自分を虐げてきた権力、ひいては天皇を頂点とする階級社会を作り上げたエスタブリッシュメントへの復讐心があるようにも観客は感じる。
『復讐するは我にあり』を観終えたあとに残るのは、一言でいえば、変な気持ちである。巌がつき動かされている情念の根っこには、ねじれた家族関係があり、それをとりまく社会構造がある。しかしそれが連続殺人にまで至る逸脱とは直結しない。榎津巌という人物に対して、同情も、共感も、恐怖も、軽蔑も、うまくできないのだ。

そもそもアウトロー映画とは何か。なぜ私たちは個人のアウトローの物語を求めるのだろう。
気鋭のアメリカ文学者だった三浦玲一は、開拓農家と牧場主との土地所有をめぐる確執を描いた西部劇映画の名作『シェーン』(ジョージ・スティーブンス監督、1953年)を分析した文章で、次のように述べている。

シェーンが最後に告白するのは、驚いたことに、自分は生まれながらの殺人者であり、殺人者であることを止めようとしたが無理だったという認識である。
(中略)
いわば普通の流れでこの映画を見る者にとってシェーンは、ライカ―一族と自営農家達の闘争に正義のために参加した英雄であるが、この映画を逆に後ろから見るとき、シェーンは、自ら殺し屋としてのアイデンティティを隠蔽することに失敗し、自らの欲望のままに殺人を犯した犯罪者である。ここで、重要なことは、後者の解釈において、正義の概念がすっぽりと抜け落ちていることだ。それは、シェーンの行いが正義ではないということではなく、彼の行為がアイデンティティの発露として理解されるとき、その行為が社会的な意味において正義に合致するかしないかは無意味になるということである。
三浦玲一「合衆国が個人主義の国になったとき女はどうなるのか」、『ジェンダー表象の政治学』所収

米ソ冷戦期に撮られた『シェーン』は、反共産主義=反全体主義としての個人主義を、西部開拓時代に託して称揚する娯楽装置である。しかしアメリカ国民に団結を訴えるための「個人主義」である以上、それは信念をもって国家や社会と対峙する個人であってはならない。信条抜きの個人主義、「思想なき個人主義」であることが要請される。悪を倒す社会正義を体現していたはずのシェーンが「生まれながらの殺人者」として一人で去っていくラストはそれを象徴しているのだ、と三浦は述べる。
アウトロー映画を「思想なき個人主義」とみる分析は、『復讐するは我にあり』にも使えるように思う。映画が作られた頃、日本では55年体制と冷戦リベラリズムの崩壊が始まっていた。権力でも反権力でもなく、保守と革新の双方を嗤うようなアウトローが、行き当たりばったりの殺人を重ねていく。榎津巌という特異なキャラクターに観客が投影していたのは、正義が無意味化されていく姿を見たいという欲望だったのではないか。

そう考えていくと、『ジョーカー』が「美的に空虚」であると批判したブロディの評論は、むしろ『ジョーカー』のアウトロー映画としての正統性を正しく言い当てているのかもしれない。正義を脱臼させながら「この社会」から逸脱していくアウトローの暴力に、私たちは言い知れぬ魅力を感じてしまうのだ。
だが、なぜ判で押したようにアウトローはいつも「男性」の物語なのだろう?
男性ジェンダー以外のアーサー・フレックは成立しえないのだろうか。そうだとすればそれはなぜか。もう少し考えてみたい。


photo by fiction of reality

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