『電車男』と「純愛」の現在

映画は観れないものだから心配するな 第18回

2019/10/30
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「オタク」と「非モテ」は、インターネットが普及した2000年以降のポップカルチャーにおいて重要なテーマになってきた。
この連載でもすでに映画版『モテキ』をとりあげているが、00年代のオタク=非モテ映画の代表格はやはり『電車男』(村上正典監督、2005年)だと思う。
よく「純愛ストーリー」と評される『電車男』は、「2ちゃんねる」の独身男性板(毒男板)からまとめサイト、書籍・映画・テレビドラマ・舞台・漫画へと次々に展開され、空前のブームを築いた。ネット発の物語だが、ストーリー自体はごくシンプルだ。
22歳で恋人のいたことがないオタクの青年(山田孝之)がある晩、電車内で女性たちに絡んでいた酔っ払いの男を勇気を出して止める。すると後日、その場にいた20代半ばの女性(中谷美紀)からお礼としてティーカップセットが送られてくる。そのエピソードから「電車男」と呼ばれる主人公は、彼女へのお礼の言い方、食事の誘い方、脱オタク服のための買い物などを掲示板の住人たちからアドバイスされ、恋心を励まされる。彼は掲示板で進捗を逐一報告しながら、カップのブランドから「エルメス」と呼ばれるその女性とのデートを重ね、ついに告白して恋が成就する。

素朴なことを言うが、『電車男』が「純愛」とされるのは、主人公とヒロインが終始1対1の関係だからだ。
これは『モテキ』と対照的である。非モテのサブカルオタクに突然「モテ期」がやってくる『モテキ』の恋愛関係は基本的に「1対多」。それゆえ『モテキ』は恋愛映画だが「純愛」とは言われない。
杉田俊介『非モテの品格』では、「非モテ」を以下の3分類に整理している。

*非モテ1:いろんな女からちやほやされたい(が、されない)、あわよくば、いろんな女とエッチしたい(が、できない)こと
*非モテ2:自分の好きな一人の女から恋人として愛されないこと(中略)
*非モテ3:「性愛的挫折(恋愛未経験/失恋を含む)」がトラウマ化し、あたかも人格の一部となって、常日頃から、非モテ意識に苦しめられ続ける状態のこと
(杉田俊介『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』集英社新書)

この分類をふまえると、『モテキ』は主人公が非モテ1~3のすべてを網羅しており、非モテ見本市のような作品だ。
一方で『電車男』は、非モテ2に焦点化した作品である。非モテ3(性愛的挫折による非モテ意識)もないことはないが、過去の重大な傷が描かれるわけでなく、「電車男」の自信の無さは主に異性関係が未経験であるためだ。

恋愛感情だけで結びつく1対1の排他的関係を社会学で「ロマンティック・ラブ」と呼ぶが、『電車男』はその意味で純度の高いロマンティック・ラブストーリーである。
ロマンティック・ラブ作品、つまり「運命の人」(the one)との恋物語には、それを阻む「障壁」が必要になる。たとえば、その代名詞的な『ロミオとジュリエット』では家同士の確執があり、ディズニー・プリンセスにはヴィラン(魔女)がいる。
障壁なしにはロマンティック・ラブ作品は成立せず、むしろ越えるべき壁の高さによって二人の「運命」の強さが決まるといってもよい。「純愛」にとって、運命と障壁は裏表の関係にあるのだ。

その点、主人公が「HERMES」を「エルメス」と読むことを知らなかったように、『電車男』では初めから文化資本や階層の差を強調するようなエピソードが語られる。
ただ、掲示板に書き込まれた電車男のステータスは、入社3年目の営業職で年収300~400万円、実家暮らしである。これは22歳サラリーマンとしてはきわめて平均的といえるだろう。
実家住まいなのはエルメスも同じだ。実家が広く裕福そうなこと、英語が堪能であることなど、育ちの良さは描かれるが、住んでいる地域は近い。二人の育った階層は「中の中」か「中の上」かくらいの差であり、『アデル、ブルーは熱い色』のように階層・階級の違いによって引き裂かれることはない。これは偽の障壁なのである。

「家」が障壁にならないなら、次に考えられるのは「仕事」だ。ドラマ版も映画版も、元の掲示板では明かされていない仕事における階層差を付け加えている。
映画版では、告白しようとしていた電車男が、雨でずぶ濡れになったままエルメスの勤務先である商社の豪華なロビーに行くことで惨めさを味わう。

電車男「……迷惑ですね。合わないです、こうして改めて会うと。やっぱり世界が違うっていうか。いつかこうなるんじゃないかって心配だったんです。きっと、どこかで……自分にはもう無理かもって思う日がくるんじゃないかって、分かってた気がします」

そんな電車男に対し、エルメスは慈しむような目で「楽しかったですよ、私は最初から」と答える。電車男の言う「世界の違い」は自分たちの恋の障壁にならない、と彼女は言う。エルメスには電車男の葛藤は共有されておらず、彼女自身の葛藤も描かれない。
これが、『電車男』が従来のロマンティック・ラブストーリーと一線を画する部分だ。
つまり『電車男』のロマンティック・ラブの障壁は、階級差でも恋敵でも人生観の違いでもヴィランでもなく、ただ電車男が「オタク」で「非モテ」だということに尽きるのである。

オタクという主人公の属性だけで障壁たりえたのは、オタク差別がそれほど酷かったからだ。
90年代~00年代前半のオタクに対する社会からの抑圧は強烈だった。『電車男』では日常の些細な場面(電車内、会社内、路上)で主人公があからさまに忌避される描写が出てくる。いまでは過剰としか思えないそうした抑圧、オタクという属性に刻まれたスティグマを、『電車男』は「純愛」によって肯定し浄化してみせたともいえる。
この15年でオタクに対する視線は大きく変化した。むしろ現在は、他人の冷笑を恐れず自分の趣味に没頭できる性質を広く「オタク」的としてポジティブに評価する傾向にある。
そうした現在のオタクへの社会的認知において、『電車男』がロマンティック・ラブという物語回路を通じて果たした役割は大きいはずだ。
電車男はエルメスとの関係では1対1だが、彼の後ろには多くの掲示板の住人たちがサポートでつき、リアルタイムで応援している。そのため、実際は「(多+1)対1」という構造になっている。これも『電車男』の新しさだろう。
掲示板の住人(多)と電車男(1)の関係性には、恋愛関係と同じくらい重点が置かれている。彼らは、男性版シンデレラのような電車男の「成長」を見守る劇中観客の役であり、現代のファンとアイドルの関係に近い。

ただ、こうした物語としての先駆性はそのまま、映画『電車男』の物足りなさの要因にもなっていると思う。
映画は、掲示板の住人たちが彼の恋の成就から勇気を得て、それぞれ現実の生活と向き合い直して頑張る、というオチだ。オタク3人組は当時のファッション雑誌に載っていそうなお揃いの服に着替え、引きこもりの青年(瑛太)は家の外に出る。
ここで暗に示されているのは、閉じこもった未成熟なオタクの世界(ネット)から、開かれ成熟した現実世界(リアル)へ、という時代を感じさせる対比である。
確かに、「オタク」が物語上の唯一の葛藤である以上は「卒業」するしかなさそうだが、それは彼らの居場所やアイデンティティの一部でもあったはずだ。掲示板上の最後の展開がそうであったように、いまなら、何らかの形でオタクであることを維持するラストを模索するのではないか。
また、電車男の属性のみが障壁とされることで、エルメスの側の葛藤が描かれず、彼女の変化や心情の機微が無視されていることも気になる。エルメスはずっと聖母のように描かれ、ヒロインとしては奥行きのないキャラクターになっている。

『電車男』は現在、ハリウッドでミュージカルドラマの制作が進行中で、監督は『ヘアスプレー』や『glee/グリー』の監督で知られるアダム・シャンクマンだという。
ロマンティック・ラブの文法を洗練させてきたハリウッドは、『電車男』の物語をどう扱うのだろう。日本での配信がいまから楽しみだ。


photo by Sascha Kohlmann

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