イーストウッドのフォーディズム(『パーフェクト・ワールド』ほか)

映画は観れないものだから心配するな 第15回

2019/07/24
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企業CMの「ジェンダー炎上」が止まらない。
流れ星のように瞬きをする間に燃えては消えていくため、今年の炎上案件も忘れかけていた。大手自動車メーカーの公式Twitterアカウントが、今年3月にこんなアンケートを投稿したのを覚えているだろうか。
〈女性ドライバーの皆様へ質問です。やっぱり、クルマの運転って苦手ですか?
・とても苦手
・すこし苦手
・どちらでもない
・得意です!〉
午前10時半のアンケート投稿直後から「“やっぱり”って何?」などの批判が集中、15時過ぎには削除された。同時に企業HPに「女性の運転技量が男性よりも劣るかのような不適切な表現がございました」との謝罪文が出された。
この炎上対応は、日本を代表する自動車メーカーがなぜ女性顧客をバカにするPRを出したのか私たちに考える暇を与えないほどの素早さであり、(いまの時代に「車は男のもの」だなんてまさか思ってないです!)という無言の釈明が伝わってくるスピード感だった。

私は自動車運転免許証を持っていない。
東京23区内で生まれ育ち、そもそも生活に自家用車が必要なかった。そして両親が「車は人を殺すから免許を取らない」というポリシーだったから実家に車がなかった。この2つが免許を取らなかった主な理由だ。
自家用車しか「足」がない地域では、免許をとったり車を運転したりというのは選択以前の問題だろう。そこにジェンダーが絡む余地はほとんどないはずだ。
私がこの炎上を見て思ったのは、「車は男のもの」というジェンダー観はたんに時代遅れなだけでなく、都市的なものでもあるのではないか、ということだった。
地元の男友達の多くは、16歳になるや原付免許をとり、18歳の誕生日を待ちわびて自動車教習に通った。高額な教習所代のためにバイトに精を出す彼らを少しまぶしく、でも自分には関係ないものとして眺めていた。
当時「にっちゃんは取らないの?」と訊かれるたびに「必要ないし家に車ないから」と答えた。すると、「身分証として要るでしょ」とよく言われた。20万円出して身分証を買うのかとびっくりしたが、自家用車以外の「足」がある東京の男の子たちにとって、免許は「大人の男」としての象徴的な意味を持つのだと感じた。

アメリカ映画でも、車が子どもから大人への「成長」や「自立」を象徴するものとして描かれ、そこに「男らしさ」の問題が絡むことが多い。
私が子どもの頃にはじめて感動した映画は『パーフェクト・ワールド』(クリント・イーストウッド監督、1993年)だが、考えてみればこれも車と男らしさについての映画だ。
『パーフェクト・ワールド』の舞台はアメリカ・テキサス州。ブッチ(ケビン・コスナー)とテリー(キース・ザラバッカ)という脱獄囚2人が、逃亡のために乗り換える車を物色する場面が序盤にある。

テリー「車をあれこれ選ぶこたぁねえだろ? ロールスをお探しかい? あのビュイックを」
ブッチ「フォードを探すんだよ」
テリー「フォードが何だ。車は車だろ?」
ブッチ「ビュイックで行けよ」
テリー「州境を越えたらそうするよ……じれったいやつだ。俺が探すよ。フォードか」

フォード車を盗みに行ったテリーは、そのまま母子家庭の家に侵入し、母親と8歳の息子・フィリップ(T・J・ローサー)を襲う。駆けつけたブッチは、暴漢を前にただ震えるだけのフィリップを見て、床に落ちた銃を拾い自分に銃口を向けるように言う。父親不在の家で母親を守るのはお前しかいないんだぞ、とでも言うように。その間に警察を呼ばれた2人は、人質としてフィリップを連れて、盗んだフォード車で走り去る。
『パーフェクト・ワールド』は、主人公・ブッチと人質となった少年フィリップの逃亡劇だ。どこへも行きつかない父子関係をめぐるロードムービーであり、闇の世界の住人がギリギリの共感をもって描かれる「フィルム・ノワール」という犯罪映画の系譜でもある。

主人公・ブッチのとる行動には2つの原理がある。
1つは、父親から見捨てられたフィリップに昔の自分を投影し、父親代わりを演じようとすること。脱獄の場面をのぞけば、ブッチが決定的な暴力をふるうのはフィリップや他の子どもを守るときだ。8歳の男の子に拳銃を構えさせるのも、ハロウィンや遊園地などを経験させることにこだわるのも、悲惨な生い立ちだった子どもの頃の自分を救う行動である。それゆえ痛々しく分裂している。
もう1つは、フォード社製の車へのこだわりだ。ブッチはフォード車だけを盗んで乗り継ぎ、逃亡を続ける。ブッチが若い頃に刑務所に入ったのはフォード・クーペを盗んだためだ。ブッチの父親は妻子に暴力を振るうクズ男だったが、このフォード車へのこだわりも、ブッチが肌身離さず持っている絵葉書も、彼が父親から受け取り大事にしてきたものである。
つまり『パーフェクト・ワールド』は、求めても得られなかった父なるものを回復しようとして失敗する、傷ついた男の物語だ。それを象徴するアイテムがフォード車なのである。

私は、父性×フォード車の組み合わせをイーストウッドのフォーディズム(フォード主義)と勝手に呼んでいる。
その代表作はやはり『グラン・トリノ』(2008年)だろう。
物語の舞台は、自動車産業の衰退で荒廃しつつあるミシガン州デトロイト。主人公のウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)は、フォード社の組立工として50年間勤めあげた年金生活者で、長年連れ添った妻に先立たれたばかりだ。子どもたちとソリが合わず、教会コミュニティからも距離をおいて、孤立して暮らしている。
自動車産業の労働者が離れた街には、非白人系移民が増えた。差別的で人付き合いの悪いウォルトは隣家のモン族一家のことも嫌っていたが、自分の分身のような愛車「72年型グラン・トリノ」の盗難未遂事件をきっかけに、その家のタオ(ビー・ヴァン)とスー(アーニー・ハー)の弟姉を気にかけるようになる。タオの家に父親はいない。
『グラン・トリノ』もまた「代理父」の物語であり、車と男らしさについての映画である。
ウォルトはギャングに絡まれたスーを助け、彼女を送る車のなかでこんな会話をする。

ウォルト「君はなかなかいい娘だ。だが君の弟は少しトロいのかね?」
スー「タオはすごく頭がいいのよ。ただ方向を迷ってるだけ」
ウォルト「迷ってる“トロ助”か」
スー「男は女より順応性がないから。女の子は大学、男の子は刑務所」
ウォルト「なるほど」

映画の後半では、ウォルトは父親のようにタオを守り、彼の思う「一人前のアメリカ人男性」として育てようとする。タオをとりこもうとするモン族のギャングと、それを阻止しようとするウォルトの暴力の応酬が次第に激しさを増す。
ウォルトはかつて第1騎兵師団として朝鮮戦争に出兵したことを表向きは誇りにしているが、実際はその時の殺人の記憶に苦しんでいる。彼は叙勲された模範的なアメリカ国民であり、犯罪者ではないが、戦争の「罪」の意識から逃れることができない。この映画も『パーフェクト・ワールド』と同様、現代のフィルム・ノワールなのである。その「罪」と愛車グラン・トリノの始末をつけることが、残されたわずかな時間でウォルトに課せられたミッションとなる。

クリント・イーストウッド作品の骨格にはアメリカ的マチズモがある。そのため「いかにも男子が好きそうな映画」として敬遠されてもいる。
イーストウッドのマチズモは、男らしさや父性的なものの「失敗」や「不在」を通じて描かれるのが特徴だ。なかでも映画に登場にするフォード車は、アメリカ的繁栄と結びついた父権制と中産階級文化を象徴する車であり、現在それが完全に挫折し、老い衰えていることを表している。ウォルトが息子や孫たちと分かり合えないことは、長男がトヨタ車のセールスマンで、トヨタ・ランドクルーザーに乗っているという描写を通じて観客に訴えられる。
だからイーストウッドのフォーディズムでは、アメリカ的マチズモの復権ではなく、その「終わらせ方」「死に方」が問題になる。それもまたマチズモの一形態だとは思うが、「マチズモの終活」と呼べるかもしれない。
さてここで、冒頭に触れた日本の自動車会社の弛みきったジェンダー観の吐露と炎上を再度想起する。コマーシャルと映画を比べるのはナンセンスだと分かった上で、それでも、日米自動車戦争をくぐり抜けた両国の、「車とジェンダー」の問題に対するあまりの温度差になんか笑ってしまうのは、私だけだろうか。


photo by Matthias Ripp

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