『風立ちぬ』とジブリという夢

映画は観れないものだから心配するな 第14回

2019/06/26
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映画『風立ちぬ』(宮崎駿監督、2013年)で、観るたびに感動する場面がある。
主人公の堀越二郎が、特高警察の監視から逃れるため「三菱」の上司・黒川の家に居候中、東京で療養している婚約者の菜穂子が喀血したとの電報を黒川から伝え聞く。
激しく動揺した二郎は、すぐさま東京へ発とうと慌てて浴衣を脱ぎながら、涙をポロポロと流し、部屋に散乱している飛行機の設計図を踏んづけて派手に転ぶ。
東京行きの列車のなかでも二郎は仕事をし続けるが、膝の上に広げた設計図にとめどなく涙がこぼれ落ちる。
二郎の身体性と菜穂子の身を案じる気持ちがストレートに表現された場面だ。同時に、二郎の転ぶ動作からは、設計図=仕事が菜穂子の傍にいる障害になっていることも読みとれる。

ライター/女子漫画研究のトミヤマユキコは、様々なフィクションのなかの夫婦の表象を分析した『夫婦ってなんだ?』(筑摩書房)で、ジブリ作品における「強すぎる夫はNG」というコードを指摘し、特に男たちの「コケる」=足を滑らせる動作に着目している。
『となりのトトロ』(1988年)のサツキとメイの父親、『魔女の宅急便』(1989年)のキキの父・オキノやトンボ、そして夫婦でパン屋を営むおソノの夫。パワフルなヒロインに寄り添い、観客に深い印象を残すジブリの男子たちはみな要所要所でコケている。

コケることは、カッコ悪いことであり、言ってみれば男らしさが目減りすること。しかし、コケても平気でいられる男だけが、ヒロインの夫になれるのである。
トミヤマユキコ『夫婦ってなんだ?』(筑摩書房)

『風立ちぬ』の二郎もジブリ作品の正統派眼鏡男子であり、この法則に当てはまる。人に優しく、めったなことでは動じずに夢に向かって突き進んできた二郎が、この電報のときだけは菜穂子を心配して取り乱す。
ただ、『風立ちぬ』の二郎は、これまでの宮崎駿作品に登場した男性キャラクターと異なる、少し複雑な印象を残す人物だ。
それは、二郎が「ヒロインの夫」ではないこと、つまり宮崎駿監督のジブリ作品において数少ない「男性主人公」であることと関係があるように思う。

『風立ちぬ』の重要なモチーフのひとつは「夢」である。
二郎の夢に何度も現れるカプローニ伯爵は、夢の多義性を体現する人物だ。少年の頃の夢では「飛行機は戦争の道具でも、商売の手立てでもないのだ。飛行機は美しい夢だ」と言って設計家の道へと導くが、ラストの夢のシーンではカプローニのメッセージはこう変わっている。

カプローニ「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね?」
二郎「はい。終わりはズタズタでしたが」
カプローニ「国を滅ぼしたんだからな。あれだね、君のゼロ(たくさんの零戦が飛ぶ空に向かって敬礼する二人)……美しいな。いい仕事だ」
二郎「一機も戻ってきませんでした」
カプローニ「行きて帰りしものなし。飛行機は呪われた夢だ。大空は皆飲み込んでしまう」

天才設計家としての二郎は、創造的な人生の持ち時間の「10年」を大日本帝国の壊滅的な戦争のために捧げることになる。夢を追って必死で駆け抜け、振り返ると「美しい夢」が「呪われた夢」に変わっていた。
そして二郎の見た夢には、宮崎駿の夢が混じり合っている。これが『風立ちぬ』の受容をややこしくしている。言うなれば「二郎は駿なのではないか」という印象を観客に抱かせるようにこの作品は作られている。

『風の谷のナウシカ』(1984年)以降の宮崎駿監督の長編アニメーションは10作品あるが、そのうち主人公が男性の映画は『紅の豚』(1992年)と『風立ちぬ』の2作品のみである。宮崎駿は主人公を男性に設定することに抑制的な作家であると言えるだろう。
男性主人公の『紅の豚』と『風立ちぬ』には、飛行機、イタリア、戦争といった多くの共通する設定がある。ともに模型専門誌『モデルグラフィックス』での連載を下敷きにし、飛行機オタクである監督の飛行機愛が詰め込まれているのも同じだ。
そもそも「ジブリ」というスタジオの名前は、カプローニ伯爵のモデルである実在のイタリア人航空技術者と関係がある。彼が創業したカプロニ社製の戦闘機Ca309の愛称が「GHIBLI」(「砂漠の嵐」の意)なのである。
ジブリ/GHIBLIの由来を示すエピソードは、実は『紅の豚』にも出てくる。主人公のポルコ・ロッソが、ミラノにある馴染みのピッコロの工場まで損壊した飛行艇の修理にやってくる。ピッコロのおやじは、新しく搭載する予定のエンジンを倉庫でポルコに見せるが、その機体には「GHIBLI」という文字が浮き出ている。
その新しいエンジンを載せた飛行艇で、最後にポルコはライバルのアメリカ人・カーチスと勝負するのだ。

『風立ちぬ』の直接の原作は、実在の飛行機設計家・堀越二郎の人生をもとにした創作と堀辰雄の小説「風立ちぬ」だとされている。
だが、「堀越二郎=宮崎駿」としての人物のモデルは『紅の豚』に出てくる。アメリカ帰りの17歳のピッコロの孫娘・フィオである。
フィオは、二郎と同じく天才的な飛行機設計家だ。若い女性だという理由でポルコはフィオが設計担当になるのを嫌がっていたが、彼女が徹夜で仕上げた図面を見て任せることを決める。
喜ぶフィオにポルコが出した唯一の条件は「徹夜はするな。睡眠不足は良い仕事の敵だ」というものだが、これはスタジオ・ジブリにおける宮崎駿のポリシーとして知られるルールである。
世界恐慌下、出稼ぎに出た男たちにかわって、ポルコの飛行艇の改修作業を担当するのが全員女性たちであることも、アニメ制作現場の大規模な分業体制を想起させる。
そして修理の合間、ポルコは映画館で会ったイタリア空軍の元同僚・フェラーリンから軍に戻るよう勧められるが、こう言って断る。

ポルコ「ファシストになるより豚のほうがマシさ」
フェラーリン「冒険飛行家の時代は終わっちまったんだ。国家とか民族とかくだらないスポンサーを背負って飛ぶしかないんだよ」
ポルコ「俺は俺の稼ぎでしか飛ばねえよ」

二人の前のスクリーンに映されているのは、プロパガンダ的に作られた質の低いアニメ映画だ。
私は幼い頃から繰り返し観てきた『紅の豚』を、宮崎駿とスタジオ・ジブリの話だと思って観たことは一度もなかった。が、ここまで分かりやすく飛行機とアニメーションという2つの夢と現実が重ねられていたのだ。ファシストに飼われることなく、「俺の稼ぎ」でアニメを作る。そのエンジンが「ジブリ」なのである。その飛行の結果は、世界中にもはや知らない者はいないほどの大成功をおさめた。

『風立ちぬ』にもうひとつ、印象に残る台詞がある。カプローニ伯爵が、ドイツ視察中の二郎の夢に現れてかけた言葉だ。

カプローニ「創造的人生の持ち時間は10年だ。芸術家も設計家も同じだ。君の10年を、力を尽くして生きなさい」

気力・体力ともに充実し、真に創造的な仕事に没頭できるのは人生のなかのたった10年間しかないという。ただの勤め人でしかない私にとっても重い言葉だ。
ただ、二郎に駿を投影することを避けられない私たちには、この言葉は複雑な文脈を帯びる。本作公開時に72歳だった宮崎駿は、どんな思いでこのメッセージをカプローニに言わせたのだろう。
仮に、84年の『風の谷のナウシカ』と85年のスタジオ・ジブリ設立からの10年が、駿にとっての「10年」だったとしたら、『紅の豚』はその頂点の時期に作られた作品だ。
美しい夢の結晶のような『紅の豚』から21年後、才気あふれるヒロインのフィオ・ピッコロが、堀越二郎として生まれ変わった。その二郎の人生の物語は、最愛の妻の死と、一機も帰ってこない零戦で閉じられる。
このような底なしの喪失と無力感が、二郎=駿の見た「夢」の結果だということだろうか。それにもかかわらず、ラストの草原の場面にどこか明るい諦念がにじんでいるのはなぜなのか。
あらためて宮崎駿にとって『風立ちぬ』は特別な作品だと感じる。


photo by nosha

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