『スーパーの女』が描いた「改革」の時代

映画は観れないものだから心配するな 第8回

2018/12/19
Pocket

 

幼い頃、照明を消した居間で家族4人でよく映画を観ていた。
映画に性的なシーンが出てくると、親が早送りボタンを押す。子どもに配慮してエロいシーンを飛ばすのが実家の習慣だった。暗闇にぽっかりと浮かんだブラウン管の画面のなか、音のない情事が高速で展開する。少し余分に早送りされ、物語においていかれる。
そうやって飛ばされた映画のなかでも印象に残っているのが、伊丹十三監督作の『タンポポ』(1985年)だ。
主人公・タンポポ(宮本信子)が夫の遺したラーメン屋をイチから立て直す、という本筋とはほとんど関係なく、ホテルの一室でギャング風の男(役所広司)が愛人(黒田福美)の裸の腹の上で生きた車海老を紹興酒漬けにしたり、卵黄を交互に口うつしするシーンが挟まれる。脈略なくやってくる早送りのタイミングに、親のリモコン操作はかなり混乱していた。

親が好きだった伊丹十三の映画は、子どもの私が観ても独特のオーラを放っていた。
社会的なテーマ設定とコミカルな登場人物との不思議なバランス。食、性、死などの一貫したモチーフ。そして清濁併せ呑みながら仕事を成し遂げていく無二のヒロイン・宮本信子。
特に好きだった作品は『スーパーの女』(伊丹十三監督・脚本、1996年)だ。
『スーパーの女』は、スーパーマーケットが大好きな中年の主婦・井上花子(宮本信子)が、再会した幼なじみの小林五郎(津川雅彦)に請われ、客足が遠のいていたスーパー「正直屋」を立て直していく物語だ。
五郎が経営する「正直屋」の欠点を花子は一瞬にして見抜く。そのベテラン主婦としての眼力で、近所にオープンしたあくどい競合店「安売り大魔王」に負けないスーパーにすべく「正直屋」の経営を変えていく。
『スーパーの女』に出てくるスーパーマーケットの内部事情には、精肉の産地偽装や混ぜ肉、売れ残った生鮮食品の「リパック」(売れ残った商品を日付ラベルごとパックし直してしまうこと)などがある。本作は、2000年代初頭に社会問題となった食品偽装や牛肉偽装問題を先取りした作品として知られている。
いまあらためて『スーパーの女』を観直すと、題材の先見性に驚きつつも、子どもの頃には見過ごしていたあることに気づく。この映画は、平成という時代を席巻した「改革」の精神を後世に伝える作品でもあるのではないか。

花子はまず、レジ係のチーフとして「正直屋」で働き始める。
毎日、レジには客から様々な声や苦情が寄せられる。花子はそれをすぐにバックヤードの生産現場に伝え、改善を促す。商品開発では常連客の主婦たちにモニタリングの協力をしてもらう。
花子はベテラン主婦としての経験から、「正直屋」を立て直すためには徹底して消費者の目線に立つべきだと考える。規模でも売り上げでもなく、「日本一お客様の立場に立つ店」。それが花子と五郎が目指す店だ。
その障壁となるのが、精肉・鮮魚部門のチーフ(親方)などのベテラン社員であり、縦割りになった生産部門である。
親方たちは「職人」としてのプライドから、売れない高級品を抱え続けたり、パート従業員たちに基幹的な仕事を任せなかったりと、効率化・合理化を拒んでいる。それが売り場に新鮮で安いものが並ばない原因になっている、と花子は見抜く。
ある日、鮮度の落ちた魚の切り身のドリップによって客の服が汚れてしまう。このクレームをきっかけに、花子は店長(矢野宣)に「リパック」をやめるべきだと訴える。
控え室にパートを含む全従業員が集まり話し合う場面。

店長「リパックのどこが悪いんじゃ。第一、そんなことはどこのスーパーでもみなやっとることだが。私はね、これも立派な商売の知恵だと思うとります」
花子「でも私、そんなこと納得できない。お客様を騙すようなやり方は、長い目で見て絶対に店のためにならないんじゃないですか。リパックしていることがもしバレたら、店の信用丸潰れよ」
店長「しかしね……」
花子「このパートさんたちは、近所の主婦の人たちです。皆さん、家庭をもっておられます。帰ったら夕食の支度が待っているはずです。ところが、私はこれまで、このパートさんたちがこの店で買い物してるの見たことありません。なぜですか? 商品にウソがあるからです。正直が一番、みんなの意見もそうだと思います」
店長「よし分かった、じゃあ決を採ろう。リパックは会社の方針だ。会社に楯突いてでもリパックに反対という人は、ひとつ手を挙げてもらおうじゃないか」

レジ係の数名の女性が手を挙げるが、店長の恫喝的なやり方に、バックヤードのパート従業員たちは萎縮してしまう。すると、一人のパートの女性(原日出子)が手を挙げてこう言う。
「あの……私はリパックやりたくないです。子どもに聞かれたら説明できんですもん」
この声をきっかけに、女性たちが次々と声をあげ始める。不満をため込んできた彼女たちの反旗によって、「正直屋」はリパックをやめることになる。

この映画の軸になっているのは、二種類の対立だ。
一つは、安くて安全な食品を求める消費者(主婦)と、利益や自己保身を一方的に追求する企業との対立。消費者の側に立って経営改革を進める花子を、観客は自然と応援する。
もう一つの対立は、「パートさん」と呼ばれる女性非正規労働者と、正社員である男性労働者との、スーパー内部の対立である。
とりわけ店長や精肉・鮮魚部門のチーフのおじさんたちは、傲慢な人物としてデフォルメされて描かれている。「立場」ばかりを気にするわりに、出入り業者からリベートを受け取ったり、ライバル店に内部情報を流したりと、偉そうなだけで職業倫理がやたらと低い。
引用シーンが示しているように、この二つの対立は『スーパーの女』では重なっている。つまり、消費者=主婦パート vs 企業=男性正社員という二重の対立構図を、前者出身の花子が後者を「改革」することで乗り越えていく物語なのである。

副店長に出世した花子は、鮮魚部門のチーフ(高橋長英)に「スーパーに必要なのはね、職人じゃなくて技術者なのよ」と諭し、パート従業員にもすべての工程・技術を教えるように求める。チーフは、魚屋の丁稚奉公からキャリアを積んだ叩き上げの職人。だが地上げによって自分の店を失い、鬱屈したままスーパーの鮮魚部門で働いている。そうした事情も分かった上で、花子は「新しいことをやるためには古いものを壊すしかない」と言う。
考えが古くて非効率、ときに不正行為にすら手を染める彼ら男性正社員の姿をみていると、「既得権益」というあのおなじみの言葉が浮かんでくる。
花子の「改革」により、不正を働いていた男たちは「正直屋」を追われ、代わりに主婦パートの従業員たちが生き生きと働き、積極的にアイデアを出すようになる。
命運をかけた正月の大売り出し。新鮮な商品をそろえた「正直屋」に客が殺到するシーンで映画は終わる。
『スーパーの女』は、「正直屋」が、クリーンさを求める消費者の論理を貫くことによってダーティーな企業体質を克服して、悪玉のライバル店「安売り大魔王」に勝つ、消費者の時代の勧善懲悪ストーリーなのである。

そしてこの映画には、現在だからこそ問い直すべき点がある。
それは、勝者側にいたはずの主婦パートたちは本当に「勝った」のだろうか、ということだ。
もし消費者目線による「改革」が成功し、経営が持ち直したのなら、それに誰よりも貢献した主婦パート従業員たちに報いてしかるべきだ。しかし、そのようなシーンは出てこない。
『スーパーの女』では、主人公・花子は店長にまで出世するが、主婦パート従業員たちの時給が上がる、または望む労働条件で働けるようになるといったエピソードは一切語られない。
そもそも、ほとんどの「パートのおばさん」たちには役名すら与えられていない。消費者(主婦)=労働者(パート)として一括りに肯定するこの等号には、見過ごせない欺瞞があるのではないか。
もしかすると、彼女たちが手にした「勝利」とは、扶養・配偶者控除から外れないよう時給はきわめて低く抑えられたまま、すべての業務をこなせる高度なスキルと主体的に働く(働かされる)環境だけを手に入れることだったのかもしれない。
『スーパーの女』から20数年。職人的技術はとっくに解体され、非効率な「既得権益」と経営層から見なされた男たちはリストラの憂き目にあってきた。
消費者のニーズは即時に生産現場へフィードバックされ、低賃金・不安定雇用の非正規労働者だけで生産・流通・販売・顧客対応を効率的に回せるようになった。
大人になった私は、『スーパーの女』が意気揚々と描いた「改革」後の社会を生きている。


Photo by jar []

マネたまご マネたまをフォローすれば最新記事をお届けします!
西口想(にしぐち・そう)

1984年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、テレビ番組制作会社勤務を経て、現在は労働団体職員。仕事は主にリサーチ、労使交渉、企画・編集、原稿書きなど。文学と映画が好き。