映画版『モテキ』に見る仕事を通じた「成長」と「恋愛」の息苦しい関係

映画は観れないものだから心配するな 第4回

2018/08/22
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世界の中心で、愛をさけぶ』から7年後、高校生のプラトニックな悲恋を演じた森山未來と長澤まさみは、映画版『モテキ』(大根仁監督・脚本、2011年)で再び共演する。
あざとくも批評的なキャスティングだ、と公開当時に思った。セカチューとモテキの恋愛観は真逆。それをわざわざ同じ二人に演じさせたモテキの制作陣は意地悪でセンスが良い。平成最後の夏にもし時間を持て余したら、この時代の恋愛像を彩った両作を2本立てで観ると楽しいと思う。

映画『モテキ』は、非モテのサブカル男子・藤本幸世(森山未來)に思いもよらなかった「モテ期」が(再び)やってくる、というお話である。
幸世はタイプの違う魅力的な女性から次々とアプローチされ、彼女たちの思わせぶりな態度と自身の自己評価の低さとの間で煩悶し、たっぷりと振り回される。
原作は久保ミツロウの同名コミック。原作に忠実なテレビドラマ版『モテキ』がヒットしたことを受けて、テレビドラマを監督した大根監督がオリジナル脚本で映画化した。
映画版は、原作とテレビドラマの基本設定をなぞりつつ、ドラマ版の後日譚として作られている。そのためか、映画版には、原作やテレビドラマにはない独自のメッセージが付け足されている。

原作では、幸世の極端な自信のなさ(非モテ意識)は、好きになった人からフラれ続けてきた思春期以降の異性関係だけでなく、就職してからずっと派遣社員だったという経験も影響している。

まともな青春を過ごしてないから?
誇りを持てる仕事をしてないから?
お金を持ってないから?
地味な外見だから?
薄っぺらい人生経験しかないから?
そんな俺に なんでモテ期が来たんだ?
(久保ミツロウ『モテキ』第1巻・194頁、講談社)

原作の後半、幸世はぎっくり腰になったために東京での仕事を失ってアパートの家賃を払えなくなり、九州の実家に帰る。正社員であればそれくらいでは失職しない。日本で派遣労働者というステイタスがいかに不安定で差別的なものであるかを物語るエピソードだ。ただ、全てを失って実家に帰るという経験は、主人公に積もり積もった劣等感を一度清算するきっかけを与える。

映画版は、幸世が再び上京してカルチャー系ウェブメディアで正社員の職を得る場面から始まる。
これは主人公にとって革命的な変化といってもいい。サブカルにどっぷり浸かった暗い青春期が仕事によって肯定され、しかも業界のパイオニアであるメディアの社員編集者だ。未経験採用で年収はワーキングプア水準とはいえ、「誇りを持てる仕事」という点で、大きなコンプレックスを乗り越えた状態から映画版は始まる。

幸世はTwitterでカルチャー誌の編集者・松尾みゆき(長澤まさみ)と知り合う。彼女が幸世の本命となる女性だ。幸世に気のあるそぶりを見せていたが、幸世がみゆきの部屋に行ったとき、彼女には他に同棲相手がいることを知る。よりによってその同棲相手は音楽フェスやイベントを主催しているイケイケの業界人だ。
やっと自分の好きなことを仕事にできた幸世は、恋愛を通じて、ガチの文化系強者から打ちのめされる。

このあたりから映画版『モテキ』特有の息苦しさが始まる。
みゆきは同棲相手との関係に満足しているわけではなく、深い部分では傷ついている。だからこそ、恋人にはない幸世の優しさに惹かれている。
奔放な女に見えていたみゆきは、本当は苦しんでいるのかもしれない。幸世は次第にそう気づく。自分とは違う世界に住んでいそうな恋愛強者も実は手を伸ばせば届く弱い存在だ。幸世の大きな変化とは、そんなふうに自意識の牢獄から抜け出て、多少なりとも自分と同じ地平で相手を見られるようになったことだ。
非モテ意識ゆえに徹底的に受動的だった主人公は、意を決して、みゆきと関わろうと自ら行動する。
だが幸世がみゆきを求めたとき、彼女が泣きながらこう言う。
「私、幸世君じゃ成長できない」
それは幸世の心臓を深く突き刺す言葉だった。この言葉が呪いとなり、物語を駆動させていく。
つまり、映画版で独自に主題化されているのは、「恋愛」と、仕事を通じた「成長」というテーマである。
これはジャンル映画としての恋愛映画にとって別に新しいテーマではない。この映画で明確なオマージュを捧げている『(500)日のサマー』(マーク・ウェブ監督、2009年)も、恋に破れた主人公・トムは、ラストシーンで、諦めていた建築家の夢をもう一度目指すことで次のステップに踏み出す。
だが、映画版『モテキ』では、仕事によって主人公がすでに一度救われた時点から物語が始まっているためか、あるいは日本の労働環境ゆえか、この仕事を通じた「成長」は原作にはない別のメッセージを含んでいる。

原作で故郷の元ヤン同級生・林田がしていたアドバイザー役を、映画版では職場の上司・唐木素子(真木よう子)が担っている。女性でありながら、幸世が異性コンプレックスを発動させることなく会話できる貴重な存在だ。
社長の墨田卓也(リリー・フランキー)が、みゆきの同棲相手・山下ダイスケ(金子ノブアキ)へのインタビュー取材を命じるシーン。幸世は取材のさなかに山下が結婚していることを知り、インタビュー中にもかかわらず怒りを爆発させてしまう。取材は途中で中止になり、帰り道で幸世は同行していた先輩の唐木からこう問い詰められる。

だったらどうすんだよ! いまから戻ってあいつのこと殴るか?
ああ!? 青春漫画やるか? ボクシング習うか? 『ボーイズ・オン・ザ・ラン』やるか?
だいたいお前あいつに1コでも勝ってるとこあんのかよ。
お前自分に甘んだよ。
もっと自由にとか、もっと自分の思いのままにとかな、そういうのは限られた人間にだけ許されてんの。
お前は違うの。だから黙って働け、バカ。

その夜、幸世は一度投げ出したインタビュー仕事を(無理やり)徹夜で完成させる。
死ぬほどやりたくなかった仕事だ。大好きな女性を傷つけている調子に乗った男を持ちあげるような記事だから。幸世が死にそうになりながらも与えられた仕事を投げ出さなかったのは、負け続きだった人生でやっと望んで得た仕事だったからだろう。才能に恵まれなかった者が「プロ」としての泥臭い矜持を発揮すること。それがこの映画にとっての「成長」なのである。
朝一番に出社した社長の墨田は、デスク上で懸案の記事を書き上げたまま倒れている幸世を穏やかな表情で見る。そして、柔らかい朝日がさすオフィスで、彼に代わって記事の「公開」ボタンをクリックする。この印象的なシーンを覚えている人も多いだろう。

このシーンにはどんな意味があるのか?
30年近く「負け組」だった幸世にとって、職場に抱擁される経験は何ものにも代えがたい。
仕事=労働はしばしば、恋愛の挫折から私たちを救ってくれる。誰もが経験しうるから、仕事を通じた「成長」というこの物語形式はリアルだ。
ただ、すでに書いた一連のシーンの意味を考えると、私はどうしても、映画版『モテキ』にはかなりマッチョなメッセ―ジが込められていると感じる。
それは例えば、徹夜で成し遂げた仕事を最初に「承認」するのが社長の墨田であること。なぜ、最も近くで幸世を見ていた上司の唐木素子ではないのか。
この映画の主題=「モテ」とはひとえに異性関係でありながら、主人公の男性は仕事を通じて恋愛の挫折を味わい、それを仕事で乗り越えて「成長」することで、しかも自分の仕事を認めてくれる別の男を通じて真に承認される……意地悪に意地悪で返すようだが、それはどれほど息苦しくホモソーシャルな「恋愛」であり「成長」であるだろう。
幸世が格闘したのは本当にみゆき本人なのだろうか。たぶん、幸世が向き合っていた相手はみゆきではなく、克服しかけていた劣等感を自分に思い出させるみゆきの恋人・ダイスケである。
だから映画の最後で、幸世がこれまでの情けない自分を振り切るようにみゆきを追いかけるクライマックスでも、そこにみゆきは不在なのだ。


Photo by m01229

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西口想(にしぐち・そう)
1984年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、テレビ番組制作会社勤務を経て、現在は労働団体職員。仕事は主にリサーチ、労使交渉、企画・編集、原稿書きなど。文学と映画が好き。
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