『おくりびと』は転職映画として観ると面白い

映画は観れないものだから心配するな 第3回

2018/07/24
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「あなたの好きな映画は?」と問われて、『おくりびと』(滝田洋二郎監督、2008年)と答える人はどれくらいいるだろうか。
『おくりびと』は、死者の身体を清めて形を整え、化粧を施し、棺に納める専門家の「納棺師」という仕事を全国に知らしめた日本映画のヒット作だ。
2008年公開の邦画興行収入ランキングでは、モンスター級の『崖の上のポニョ』の155億円、『花より男子ファイナル』の77.5億円に次ぐ堂々の第3位(64.8億円)。洋画も含めた日本での歴代興行収入ランキングでいまなお100位に入っている。米アカデミー賞の外国語映画賞を受賞した稀有な日本映画でもある。

話題になった映画だから、この作品を観ている人は世代を超えて多い。でもそのわりには、『おくりびと』について「観た?」「観た」以上の内容のある話を人とする機会は私にはなかった。
ジブリ映画などのアニメ映画、あるいは近年では『シン・ゴジラ』など「国民的」と言われるシリーズ作品は多くの感想と批評を呼び、観た人からも長く記憶される。一方で、『おくりびと』は? 仕事から疲れて家に帰ってきて、さあ『おくりびと』でも観るか、という動機は(モックンの主演映画という以外に)なにかあるだろうか。

ある、というのが今回の話だ。
『おくりびと』は「転職映画」として観ると面白い。少なくない人が経験する「転職」というライフイベントの不思議さを味わうのにうってつけの作品である。

主人公の小林大悟(本木雅弘)は、東京のオーケストラに所属するプロのチェロ奏者だったが、ある日、興行不振から楽団の解散を言い渡されて失職する。もともと自身の才能やキャリアに見切りをつけていた大悟。別の楽団などを探すのではなく、チェロをやめて故郷の山形に帰るという決断をする。山形には、女手ひとつで彼を育て数年前に亡くなった母親が遺した実家があった。
多額のローンを組んで買ったチェロを売るシーンでの、小さい頃からの「夢」を諦めるモノローグが切ない。

人生最大の分岐点を迎えたつもりだったが、チェロを手放した途端、不思議と楽になった。いままで縛られていたものからスーッと解放された気がした。自分が夢だと信じていたものは多分、夢ではなかったのだ。

ウェブ・デザイナーとして働く妻の美香(広末涼子)は、意外にも大悟の選択をあっさりと受け入れる。ただ、その場面には独特の奇妙さがある。
大悟が失職した日、美香はご近所が釣ってきたタコをおすそ分けされて帰ってくる。楽団の解散を聞き、ふさぎ込む彼を明るく励ましながら、美香が夕食の支度をしようとしたところ、そのタコが動き出してパニックになる。
生きていたタコを持て余した夫婦は、夜、近くの川に放ちに行く。川面に投げ落とされたタコは、深く潜っていくのでもなく、死んだようにプカプカと川に浮かんでしまう。微妙な表情でそれを見つめる夫婦。そのときに大悟は妻に「(チェロを)やめようかな」と切り出す。
転職と移住という物語の最初のパラダイム・シフトと、生き物/食べ物、生/死の境界というこの映画のテーマが同時に示されるシーンだ。

大悟の転職先が決まらないまま、二人は東京から山形へ移住する。
大悟はおそらく40歳前後。半生をかけて築いてきたキャリアはまったくの白紙になった。ゼロからの再出発だ。
故郷に帰った彼はまもなく「旅のお手伝い」「高給保障、実労働時間僅か」と謳われた「NKエージェント」の求人広告を見つける。そこから、元チェリストはそれまでの人生で想像もしていなかった「納棺」という仕事の世界に入っていく。
旅行代理店かと思って面接に行くと、「NK」は「納棺」の頭文字、と社長(山崎努)から言われるのだが、ここは何度観ても笑えるシーンだ。

「納棺師」とは毎日どういう場所でなにをする仕事なのか。『おくりびと』は劇映画としてはかなり上手に、その知られざる仕事を分かりやすく描いている。この映画を企画したのは主演の本木雅弘で、モックンは『納棺夫日記』(青木新門、文春文庫)を読んで映画化のために奔走したとされる。舞台設定などの違いから「原作」としてはクレジットされていないが、実在の納棺師の著作を下敷きにした物語であることには違いない。
一方で私が面白いと思うのは、納棺という仕事の特殊性もさることながら、「転職」による主人公のアイデンティティのゆらぎと世界の見え方の変化だ。

私たちの多くは、もちろん「夢」や「将来の希望」から仕事を選ぶという面もあるけど、暮らしていくのにはどうしてもお金が必要で、自分や家族の身を養うために経済的な動機から仕事を始める。「夢」がレコードのA面だとしたら「生活」はB面だろう。
一方で、いったん仕事を始めると一日の時間と体力気力の大半を費やすことになる。仕事を続けているうちに、ある日、通勤の行き帰りも、生活時間や休みの日にも、仕事に関係づけて世界を見ている自分に気づく。自分が選んだはずの仕事がいつしか自分という存在を規定している。別に「社畜」や「仕事人間」でなくても、仕事が人生の一部に、アイデンティティの一部になってしまう。
だから、転職という出来事は、多かれ少なかれアイデンティティの危機を招く。世界に対して自分を説明してくれていた重要な形容詞を失うからだ。

ましてチェリストから納棺師になった大悟にとっては、その転職はほとんど生まれ変わりに近いものだった。
大悟は半ば騙されて始めた新しい仕事になかなか馴染めない。人が死ぬ形は様々であり、納棺師はときに凄惨な死の現場にも立ち会わなければならない。社会的なステイタスを確立している職業ではないため、人から好き勝手に因縁をつけられることも辛い。
ある孤独死の現場に立ち会った日、大悟は、絞めたばかりの鶏が姿を残したまま夕飯の食卓に並んでいるのを見て嘔吐してしまう。ただの「食べ物」がそれ以上の意味を持って自分の内側に飛び込んでくる。チェリストとして様々な場所を旅してその土地の食べ物を食べてきたはずの彼にとって、これまでそんな経験は無かったはずだ。新しく始めた仕事が世界の見え方を一変させてしまったのだろう。
『おくりびと』はこのほかにも、食事のシーンが異様な存在感を放っている。
葬儀で一悶着あった仕事を終えたあと、車中で大悟が社長とともに干し柿を食べるシーンも独特のヤバさがある。こんなふうに干し柿を食べる映画はたぶん映画史に二度と現れないと思う。

そしてもう一つ、この映画はメジャー作品にしては珍しく「職業差別」を描いている。
大悟は転職してからも納棺師という仕事を妻や周囲に伝えられずにごまかしていた。異世界に入ってしまった戸惑いとともに、社会的に認知されにくい仕事であるという意識があったことは確かだろう。
ただ、大悟は様々な現場を経験していくうち、世間がどう見ようとこの仕事には価値があると考えるようになる。

冷たくなった人間を蘇らせ、永遠の美を授ける。それは冷静であり、正確であり、そして何より優しい愛情に満ちている。別れの場に立ち会い、故人を送る。静謐で、すべての行いがとても美しいものに思えた。

だが、そんな意識の変化と裏腹に、大悟の仕事を知った妻の美香は、そんな「穢らわしい」仕事は辞めてくれと泣いて懇願する。チェリストになった大悟を誇りにしていた故郷の幼馴染からも「どこでもいい、もっとマシな仕事に就けや」と言われてしまう。大悟はそうした反応を半分は予期していたはずだが、それ以上に、新しい仕事にやりがいを見出していた自己を否定されたことに傷つく。
物語上、この職業差別は後半のパラダイム・シフトになっている。そのためか、かなり「美しい」(言い換えれば、都合のよい)形で解消される。
これほど明示的な形で差別を受ける経験は稀なケースかもしれない。ただ、転職によってそれまで築いてきた人間関係が崩れ、個人として付き合っていたはずの周囲の人々の態度の変化に戸惑う、そんな主人公の境遇に共感する人は少なくないはずだ。

転職をきっかけにモヤモヤする気持ちを抱えたら、とりあえず『おくりびと』を観るといい。妻に実家に帰られてしまったモックンが丘で気持ち良さそうにチェロを弾く、謎のイメージ映像に面食らうことは避けられないとしても。


photo by Graham Haley

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西口想(にしぐち・そう)

1984年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、テレビ番組制作会社勤務を経て、現在は労働団体職員。仕事は主にリサーチ、労使交渉、企画・編集、原稿書きなど。文学と映画が好き。