2017/06/15 公開

アレクサンドロス大王・「マネジメント」のない時代のマネジメント

人と歴史の動かし方~古のリーダーたちのマネジメント術~その9

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アレクサンドロス大王。
歴史好きでその名を知らない者はいないと思います。
10年にも渡る遠征でギリシアから遥か彼方のインド西端まで征服してしまった、古代世界最大のヒーローです。
歴史上、「軍事の天才」「ペルシア帝国を打ち破った英雄」「ヘレニズム時代を開いた革新者」など、とにかく「偉大」な人物であったと描かれ、大王が生きた当時から現代まで、人々を魅了し続ける世界史上のカリスマ。英語では「Alexander the Great」と称されます。
歴史上、「偉大な人物」「大きなことを成し遂げて名を残す人物」であろうと心に決め、実際に偉人となった人物はたくさんいますが、そのような人物の原型となったのがアレクサンドロス大王ではないかと思います。
実際に大王のカリスマ性やリーダーシップに憧れる人は多いと思います。ではマネジメントなどという概念すら存在しない時代、アレクサンドロス大王は何を目指し、そして部下たちをどのように導いたのでしょうか。

アレクサンドロス大王が成し遂げた「伝説」

アレクサンドロスの父フィリポス2世は古代世界最高の政治家でした。
彼はマケドニア軍を精強な常備軍に編成し、政治工作や外交、プロパガンダなど様々な手を駆使して瀕死のマケドニア王国を再生させ、ライバル国を次々と打ち破って全ギリシアを統一することに成功しました。
フィリポス2世は統一ギリシアの軍事力でもって、悲願であったペルシア王国遠征を行おうとした矢先に暗殺されてしまいます。
新たにマケドニア国王となった息子のアレクサンドロス3世、つまりアレクサンドロス大王は、偉大な父が作った組織と戦略を引き継ぎ東方遠征に従事することになったのでした。

紀元前334年、アレクサンドロスは小アジア半島に渡りました。付き従った軍勢は歩兵約3万2,000名、騎兵約5,000名。ここから10年にも渡るアレクサンドロスの大遠征が始まります。

初戦であるグラニコス河畔の戦いで勝利を飾った後、エーゲ海沿岸のギリシア都市を次々と占領。勢いそのままに、歴史に名高いイッソスの戦いでペルシア国王ダレイオス3世を敗走させ、フェニキア地方、ガザ、エジプトを占領します。

紀元前331年にはガウガメラの戦いで再びダレイオス3世の軍を退け、古都バビロンを始め、スーサ、パサルガダイ、エクバタナといったペルシア帝国の都市を次々と占領し、とうとうアケメネス朝ペルシアを滅ぼします。

その後も東への遠征は続き、バクトリア、ソグディアナを制圧。そして紀元前327年にはインドに侵攻し、その年の5月にパンジャブ地方の王ポロスをヒュダスベス河畔で戦い打ち破っています。

こうして約1万8,000キロに渡る大遠征を終えたアレクサンドロスは、ペルシアの旧都スーサに帰り着きマケドニア人の側近を王国の新たな要職につけたり、ペルシア貴族の女性とマケドニア人の集団結婚式を催したり、ペルシアとマケドニアの「融合」を図りました。このようなアレクサンドロスの方針により、いわゆる「ヘレニズム文化」が生まれたとされています。

ところが紀元前323年6月、アレクサンドロスはギリシア西方への遠征を計画中、バビロンにて熱病に倒れ、そのまま死亡しました。わずか32年11ヶ月の生涯でした。

なぜ東方侵攻は続いたのか

父フィリポス2世が興したペルシア遠征は「ギリシアの悲願」でした。

ギリシアのポリスは何百年にも渡りペルシアの干渉を受けてきました。紀元前5世紀のペルシア戦争ではアテナイとスパルタを中心としたギリシア連合軍は何とか本土侵攻までは食い止めたものの、東方のペルシアの影響力は長年自由ギリシアのポリスを束縛しました。ペルシアとギリシアの直接対決がない場合でも、裏でペルシアは諸ポリスに資金援助し、ギリシアが一致団結しないように暗躍していました。

紀元前4世紀頃から、このようなペルシアの干渉に対し「ギリシアが一致団結しペルシア帝国を征服する」ことが強く望まれるようになりました。

フィリポス2世はその悲願を叶えるべくペルシア帝国への遠征を準備し、その実行は息子のアレクサンドロスに受け継がれ、実際にアレクサンドロスはペルシア帝国を打ち倒し東方に「ギリシア人の国」を打ち立てるまで成し遂げたのです。

しかしながらフィリポス2世が「アケメネス朝の打倒」まで計画していたと考える歴史学者は少なく、しかもペルシアを滅ぼした後のインド遠征は完全に計画にはなかったと考えられます。

なぜアレクサンドロスは遠くインドまで遠征を行ったのか。
様々な歴史学者がその「回答のない答え」を提示していますが、彼の「不滅の名誉を求め、無限の可能性を追い求める衝動」にあったというのが主流の説です。
前人未到の偉業を成し遂げ、歴史にその名を刻もうとしたのです。

ギリシアとペルシアとの共存を図る

アレクサンドロスはアケメネス朝ペルシアを打ち倒した後、ペルシアを統治するために旧組織をそのまま温存し「東方協調路線」を進めました。組織や宗教、慣習をギリシア風に改めさせるのではなく、旧来のものをそっくりそのまま残しました。また、さらなる軍事遠征を担うためにアジア人の軍を作ったり、自らペルシア風の衣装を身にまとい儀式を行ったりなど、自ら積極的に「ペルシアの王」として振る舞おうとしました。
また先に述べた通り、マケドニア人のペルシア支配層への組み込みも図られており、ギリシアとペルシアの共存を推し進めたのです。

アレクサンドロスと部下たちの愛憎混ざり合った関係

アレクサンドロスと部下たちの関係は、愛憎含むものでした。
基本的にはマケドニア人兵士たちはアレクサンドロスを絶対的に信頼し、彼を神のごとく崇拝し、大王に付き従っていれば成し遂げられないことは何もない、という確固たる自信と意欲が湧いてくるのでした。
アレクサンドロス自身も常に末端の兵たちと共にある姿勢を忘れませんでした。
インド遠征中、砂漠の行軍で皆喉が乾いている中、ある部下がアレクサンドロスに水を汲んで差し出しました。アレクサンドロスは丁重に礼を言った後、皆の見える前でその水を地面に捨ててしまったそうです。この行為は軍全体の士気を大いに高めたと言われています。

一方で、長年アレクサンドロスに付き従った者の中には、大王の「東方協調」に対する反発が根強くありました。誇り高きマケドニア軍にアジア人が加入することを「屈辱的」に感じ、またアレクサンドロスがペルシア風の儀式を行うことに反発し、結局未遂に終わりましたが、9人の近習がアレクサンドロスの暗殺を計画したこともありました。

また信頼すべき部下たちも時には「命令にボイコット」もしました。
パンジャブ平原を超えてインド亜大陸への本格的な遠征を主張するアレクサンドロスに対し、部下たちは猛烈に反発し、尊敬する大王の命令とはいえ、もうこれ以上は進めないといって聞かず、渋々アレクサンドロスも諦めたのでした。

アレクサンドロスと部下たちの関係は、「王と部下」、「指揮官と兵士」を超えた関係と一体感、そして愛ゆえの憎悪や反発が、10年もの遠征の中で生まれていったものと思います。

まとめ

今で例えたら、数万の従業員を抱える若き二世カリスマ経営者といったところでしょうか。
父から受け継いだ組織をさらに発展させ、強烈な指導力と熱意でもってメンバーを魅了し、様々な困難にも共に味わい、そして何より必ず「成功と栄誉」をもたらした。

アレクサンドロス大王の「マネジメント」は、小細工やテクニックなどではなく、高い理想を掲げ正面からぶつかり、しかもそれを難なく達成していく卓越した指導力と突破力にあったのではないかと思います。


参考文献
アレクサンドロス大王 「世界征服者」の虚像と実像 森谷公俊 講談社選書メチエ 2000年10月10日第一刷
世界史リブレット 人 05 アレクサンドロス大王 今に生き続ける「偉大なる王」 澤田典子 山川出版社 2013年4月30日 第一刷

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tamam010yuhei
1984年福岡県生まれ。 東京でサラリーマンをしながら、世界史の面白いネタを集めたブログ「歴ログ -世界史専門ブログ-」を運用。 神話の時代から現代まで、「面白い!」と思ったものは何でも収集。 最近注目している国はインドネシア。
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