エカチェリーナ2世 – ロシアの絶対君主になったドイツ女

人と歴史の動かし方~古のリーダーたちのマネジメント術~その7

2017/04/07
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組織とはどれだけ小さくても独自のカルチャーを持っているものです。
他者から見たらどうでもいいようなローカルルールが重要視されていることもあるし、この組織の人間である以上はこう考え動いてしかるべきであるという不文律の規範があったりします。
新しく組織に入る人間はその独自カルチャーに慣れるのがまずは一苦労だし、落下傘的に組織のトップに就いた人間はそれをどう扱うかという問題に直面することでしょう。そのカルチャーが生産性を下げているのならば改革する必要がありますが、改革はそれに長年親しんできた者からの大きな反発を招く場合もあります。

世のリーダーたちが苦労しているに違いないこの問題について大いに参考になるのが、18世紀ロシアに君臨した女帝エカチェリーナ2世です。
彼女自身にロシアの血は一切入っておらず、神聖ローマ皇帝領邦アンハルト=ツェルプスト侯の出身。100%ドイツ人だったのです。
にもかかわらず、エカチェリーナはロシア帝国の啓蒙専制君主となり、後世においても偉大なロシアの偉人として尊敬されています。
そこで今回は、なぜエカチェリーナは異なるカルチャーや風習の組織に君臨することができたのかについて見ていきたいと思います。

ロシアの啓蒙専制時代を作った女帝

エカチェリーナ2世は一般的には「啓蒙専制君主」と呼ばれ、オーストリアのヨーゼフ2世やプロイセンのフリードリヒ大帝らと並び称されます。啓蒙絶対君主とは、絶対的な権力を持ち国の近代化を図った皇帝や国王のことで、国内外の人々を魅了するカリスマ性と、一流の学者や芸術家と議論できるほどの知性を有しました。
今で言うところの「カリスマ・ワンマン経営者」というところでしょうか。
エカチェリーナ2世はその治世で、ロシア初の国民会議を開いたり、ポーランドや黒海沿岸に領土を拡大したり、ヨーロッパの学者や芸術家のパトロンになったりなど、「遅れた国」ロシアの近代化と大国化のために尽くしました。
一方で、夫ピョートル3世とは不仲であったため、晩年まで愛人を取っ替え引っ替えした奔放な性格でもありました。息子パーヴェル1世は実はピョートル3世の息子ではなく、愛人のポーランド貴族スタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵だと言われています。
エカチェリーナが凄いのは、たくさん抱えた愛人を政治的にも使いこなし、ポニャトフスキ伯爵を傀儡のポーランド国王に就けたり、グレゴリー・ポチョムキン公爵を対トルコ戦争の責任者に抜擢し成功を収めたりと、私的にも公的にも男たちを「使いこなした」ことです。
とはいえこれは彼女が権力を傘に絶対的な振る舞いをしたからではなく、エカチェリーナが頭脳明晰だったことに加えて、人や組織の性格を見抜く力が卓越していたからではないかと思います。

ロシアの言葉や宗教を実践すること

皇太子ピョートルの婚約者としてロシアやってきた14歳の少女ゾフィー(後のエカチェリーナ2世)は、すぐに2つの基本的事実を理解します。
まず、気に入られなくてはならないのはピョートルではなく、当時の女帝エリザヴェータであること。
次に、この国で成功するには、ロシア語を学びロシアの宗教を実践しなければならないこと。
すぐにゾフィーはロシア語の猛勉強を開始し、夜も寝ずに勉強に励んだためロシアの寒冷な気候にやられ高熱を出して倒れてしまいました。4週間もゾフィーは高熱にうなされたのですが、侍女たちは彼女がロシア語の猛勉強の結果倒れたことを知っており、この事実は宮廷を出て市民が知ることになりました。「外国人の小公女はロシアを愛するあまり死の淵にいるのだ」と。
ゾフィーの母ヨハンナは、娘を心配しルター派の司祭を連れてきて祈らせようとしますがゾフィーはこれを拒否します。
「代わりにシモン・トドルスキー(ロシア正教の司祭)を呼んできてください」
これを聞いた女帝エリザヴェータは涙し、宮廷の人々も市民も健気な外国の少女に同情したちまちにして心を掴んでしまったのでした。

対照的だったのが夫のピョートル3世です。
彼もまた神聖ローマ帝国領邦のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国の出身でしたが、彼は祖国ホルシュタインを愛しドイツの習慣を捨てず、ロシアの文化や宗教に全く敬意を示そうとしませんでした。

1761年12月、女帝エリザヴェータ死去。
葬儀の際、次期皇帝ピョートル3世は酒を飲んで酔っ払っており、大声で騒いだり冗談を言ったり、司祭に向かって舌を突き出したり、34歳とは思えない振る舞いで参列する貴族や見物する市民たちに衝撃を与えました。
一方でエカチェリーナは冠も宝石もつけずに黒の喪服で、長い間柩台のわきにひざまずいていました。エカチェリーナは女帝に最大限の敬意を示すことが、民衆に自らをアピールすることになると分かっていたわけです。
この夫婦の対照的な行動は、ロシアの人々に新皇帝ピョートル3世に対する警戒と不安、皇后エカチェリーナに対する期待と希望を否応なく高めることになったのでした。

皇帝に就いたピョートル3世はロシアの宗教をドイツ風に改めようと試み、ロシア史の一部である聖人の絵画や彫刻を排除したり、司祭の衣装をプロテスタント風に改めたりしました。また、プロイセンに対する親近感から女帝エリザヴェータが優位に進めていた対プロイセン戦役から一方的に撤退し、それまで投じてきた費用や軍人たちが流した血を無駄にしてしまいました。

とうとう宮廷の有力者や貴族たちは我慢できず、「真性なロシアの皇帝」としてエカチェリーナを担ぎクーデターを敢行します。1762年6月、エカチェリーナ2世が誕生したのでした。

近代的大国ロシアを目指して

エカチェリーナは頭脳明晰な女性で、幼い頃から哲学書や歴史書に親しみ、どこに行くにも常に本を持っているほどの読書家でした。
帝位に就いてからは、「遅れた国」ロシアの制度改革に取り組みました。当時のロシアはピラミッド型の構造をしており、上から君主、貴族、教会、商人と都市住民がおり、その下には約1000万人にものぼる農民がいました。これらの農民は農奴の身分で、貴族や教会の「所有物」とされ一生土地に縛られ自由もなく私有財産を持つ権利も与えられていませんでした。ロシアは「半数以上の国民が奴隷」という前近代的な構造だったのです。
だから啓蒙主義の人権思想に親しんでいた女帝エカチェリーナ2世は、ロシアを後進国たらしめる「農奴制」の改革に着手するのです。
しかし、鉱業奴隷の解放や正教会領地の国有化などを実践するも、農奴を「財産」と考える貴族の反発を招きました。エカチェリーナ2世は実際にロシアの国を支えているのは貴族・教会とその下の無数の農奴の労働であり、これを一挙になくすことはロシアの国そのものを解体することを意味することを悟り始めました。

そこでエカチェリーナ2世は自ら音頭をとって「法定編纂委員会」を開催。貴族、外国人、異教徒、農奴などあらゆる階層の人々を集め、現在のロシアが抱える問題を洗い出し対策を考え、新たな法律として制定することを目指しました。
しかしこれも農民の地位向上を恐れる貴族による法制定の反対に見舞われ、肝心の農民は問題の本質を理解せずに村や家族など自分の周辺の不満しか主張できず、議論は全く建設的なものにならず時間だけが過ぎていったのです。
結局エカチェリーナ2世は、民衆の覚醒を促すには「早すぎた」ことを悟り、ロシアには独裁君主による絶対的権威の安定が不可欠であるという結論に達し、従来通りのトルコへの軍事遠征やポーランド分割による領土拡充などの大国化に邁進していくことになります。
しかし身分を超えた「国民会議」が次に開かれるのは、なんと1906年の帝政ロシア末期のことになるので、エカチェリーナ2世の取り組みは全く無駄ではなく、近代化に積極的に取り組んだとして高く評価されているのです。

欧州一の学術と芸術のパトロンに

このようにエカチェリーナ2世自身は、ヨーロッパの進んだ文物に親しみ近代的な思想の崇拝者でした。
エカチェリーナが特にファンだったのは、フランスの哲学者ヴォルテールと百科全書派の巨匠ディドロです。エカチェリーナは私的にヴォルテールやディドロにファンレターを送り手紙のやり取りをしているのですが、当時のオピニオン・リーダーであった彼らにメッセージを送ることは、彼ら経由で他のヨーロッパの君主やインテリ達に自らの存在と知性をアピールする場であることも理解していました。
1756年、フランス国内でディドロの「百科全書」が出版困難になった時、エカチェリーナ2世はロシア国内での出版を提案したり、ディドロが百科全書を書き上げる資金を援助したりし、ヨーロッパのインテリたちの賞賛を得ました。東の大国ロシアは雪と氷しかない遅れた国ではなく、ヨーロッパの最先端の学問を支援する先進国であることをアピールする狙いがあったのです。

また晩年にはエカチェリーナ2世は、ヨーロッパ随一の美術品の蒐集家となりました。
彼女自身は「美術に対する見識はない」と認めつつ、美術品を所有し収集することに満足感を求めました。エカチェリーナ2世はその治世で約4000点の美術品を収集し、それを私的に楽しむための別邸「エルミタージュ(隠れ家)」を建設しました。これが現在「世界三大美術館」の一つと言われるエルミタージュ美術館となったのです。

彼女は建築にも並々ならぬ情熱を見せ、イワン・スターロフ、チャールズ・キャメロン、ジャコモ・クアレンギといった建築家を抱え、タブリダ宮殿、パヴロフスク宮殿、アレクサンデル宮殿といった現在も残り、ロシアが世界に誇る建築も数多く残しています。
これもまた、芸術家のパトロンとして自らの名を高めると同時に、ロシアの文化力をヨーロッパ諸国の王や貴族らにアピールする狙いがあったことは言うまでもありません。

まとめ

ロシアを大国の地位に押し上げた偉大なる女帝エカチェリーナ2世は、「相手がどう思っているか」を計る能力に長けており、それゆえ「自分がどのように振る舞えば上手くいくか」を知り尽くしていた人物だったのではないかと思います。
そのためには自分の好きなものや慣れ親しんだものも即座に捨てるだけの度量と受容性がありました。もちろん、宮廷では愛人を連れ込んだり、自らの趣味の部屋や建物を作ったり、さんざん自分の好きなことをやってはいますが、時と場所をわきまえ、「自分が相手にどのように見えているか」も常に忘れませんでした。それが外国人でありながら「偉大なるロシアの母」として君臨できた理由なのだと思います。


参考文献
「エカチェリーナ大帝 ある女の肖像」上・下 ロバート・K・マッシー著, 来代美和子訳 白水社

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tamam010yuhei

1984年福岡県生まれ。
東京でサラリーマンをしながら、世界史の面白いネタを集めたブログ「歴ログ -世界史専門ブログ-」を運用。
神話の時代から現代まで、「面白い!」と思ったものは何でも収集。
最近注目している国はインドネシア。

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