2017/01/18 公開

家臣が宝! 「偉大なる凡人・徳川家康」の懐深いマネジメント術

人と歴史の動かし方~古のリーダーたちのマネジメント術~ その4

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徳川家康。言わずと知れた「太平の世」江戸時代の創始者です。

NHK大河ドラマでも度々登場しますし、歴史小説にも多く描かれていますので、多くの人は徳川家康にある種のイメージをお持ちではないでしょうか。
曰く、「腹黒い」「古狸」「老獪」……等々。

野心を秘めるもそれを外に出さずに、虎視眈々と機会を伺う。軍才ではなく調略と密約で敵を切り崩す。派手で豪胆な戦国大名というよりは、寝技が得意な昭和の政治家のような感じです。

「華々しさ」がないからなんとなく地味だけど、耐え忍んで天下を平らげてしまったために、好き嫌いが別れる人物でもあります。それに日本人は信長の様な天才型に憧れる傾向にあるから、保守的な家康はあまり好まない傾向にあるのかもしれません。でも「好まない」ということは日本人には家康のような保守型思考のタイプが多く、逆に信長のような天才タイプは多くないという証左でもあるように思います。

太平の世の礎を築いた偉大なる「凡人」

家康という人は良く言えば「慎重で温和」、悪く言えば「臆病で優柔不断」な人で、積極的に前に出て天下を簒奪しようとするような人ではありませんでした。

家康と長年に渡って同盟を結んでいた織田信長は尾張の小国の身ながら、東の大国・今川を打ち倒し、既存の概念を打ち壊す大胆な手法で瞬く間に日本の大半を飲み込んでしまいました。宗教勢力や既得権益層を徹底的に解体し、織田家を中心とする強力な中央集権体制を構築し、日本を統一した暁には唐入り、つまり中国遠征も本気で考えていたようです。織田家は「織田信長」というカリスマが頂点に君臨する「独裁国家」のようであり、ブレーンはおらず信長の強力なリーダーシップがあって初めて成り立っていました。

その後任の秀吉は本能寺の変の後、露骨に織田家の簒奪を図り、才覚と機転、人心掌握術で瞬く間に信長の後任者となり、圧倒的な物量戦と派手なパフォーマンスで日本を統一してしまいました。そして信長が果たせなかった「唐入り」を果たすべく朝鮮出兵をも強行しました。豊臣政権にも独裁色が見られますが、隠然とした力を持っていたのが石田三成などの腹心の家臣たちです。一連の大事業を可能にするエリート官僚を育成し中枢に据えることによって秀吉政権は成り立っていたのです。

さて、家康です。家康には信長のような天才的な発想はなかったし、秀吉のような人心掌握術もありませんでした。国家ビジョンだってきっと明確にはなかったでしょう。とにかく「家名と家臣を守ろう」と目の前の問題に善処し理不尽にも耐え、小中規模の賭けに勝ち続けていた結果、いつの間にか天下を望む立場に放り出されてしまったという感じです。徳川の世を作るという「天命」を悟って以降は、あの手この手で豊臣家の滅亡と権力の簒奪を図っていくわけですが、その手順も非常に慎重で、信長や秀吉のようなスピード感はまるでありませんでした。

でも慎重な分間違いはないから、戦乱に疲れ「安定した世」を望む人々に頼られ、担がれたという側面はあるかもしれません。

作家の坂口安吾は家康を「古狸よりは、むしろお人好しの然し図太いところもある平凡な偉人」と評していますが、結構当たっているのではないかと思います。

ではその「平凡な偉人」家康は、どのようなマネジメントで「太平の世の礎」を築いたのでしょうか。

幅広い専門性を持つ多様な人材をブレーンに活用!

先に信長は大したブレーンを持っておらず、秀吉は石田三成などの少数のエリート官僚がブレーンだったと書きました。意思決定は少数であればあるほどスピーディーに行えるという利点があるのですが、一方で、属人的になりやすくキー・パーソンがいなくなると一気に瓦解する危険性を孕んでいます。

家康のブレーンは、初期の頃は石川数正や酒井忠次、本多重次でしたが、後期になると成瀬正成や本多正純、竹腰正信などでした。つまり、家康は相談できるブレーンとなる人間を都度入れ替えていたということです。

また、ブレーンには幅広い分野・領域の中から選ばれており、武士だけでなく僧(南光坊天海)や、商人(茶屋四郎次郎)、彫金師(後藤光次)に至るまでブレーンとなる人物の専門性は様々でした。家康は彼ら専門家と綿密に相談した上で政策立案と意思決定を行っていました。

このような家康の人材登用術は、会社が専門部署を数多く設け、立案と実行には統括部門と専門部署が一緒に業務遂行するのに似ています。想像するに意思決定のスピードは遅くなったでしょうが、間違いを犯す確率は低くなったに違いありません。

昨日の敵は今日の友? - 旧敵も取り入れる懐の深さ

「人たらし」の秀吉も、かつての旧敵を積極的に取り込んでいますが、家康も滅びた戦国大名たちの遺臣を多く取り入れました。中でも今川家、武田家、北条家の遺臣を多く要職に抜擢しています。

ちなみに徳川四天王の1人である井伊直政はもともと今川家の家臣で、父・井伊直盛は桶狭間の戦いで当主・今川義元と共に戦死しています。当時2歳だった直政の代わりに当主となったのが、従妹にあたる井伊直虎、2017年の大河ドラマの主役です。

この井伊直政に仕えた軍団が有名な「赤備え」です。赤備えは武具を全身朱色に塗った部隊で、元々は武田家の家臣・山県昌景が率いた精鋭部隊でした。武田氏滅亡後に精強な赤備えを向かい入れた家康は、井伊直政の配下に付けて再編成しました。

井伊家のような新参者を取り入れしかも重用する。それでも古参の家臣が反発しないのは、徳川家が外部に対して比較的オープンであり、そのような組織の雰囲気を家康が積極的に作っていたからだと思います。

「社員が宝」に通じる「家臣が宝」

家康は「部下こそ我が宝」と考え、家臣を大切にする人でした。

ある時、秀吉が諸大名を集めて話をしていると、次第に話題は家宝の話となりました。そこで秀吉は諸侯たちに「そなたらの家宝は何か」と問いました。他の諸侯たちが「我が家には有名な◯◯の茶器がございます」「◯◯の名刀があります」などと答える中、秀吉は家康に話題を振りました。すると家康は「私は三河の田舎大名ですので大した家宝などありません。強いて言えば500ほどの家臣が我が宝です」と答えたそうです。

実際に家康は部下の話をよく聞き意見を取り入れるのはもちろん、長年忠実に仕えてくれた家臣には最大限の恩賞を授けることで応えていました。また、例え下級武士でも名前と顔をしっかり記憶しており、その過去の功績や出自まで事細かに暗記していたそうです。主君に大事にされ、ちゃんと顔と名前まで覚えてもらえるなんて、仕える者にとってこれ以上名誉なことはありませんよね。

まとめ

信長のような「憧れのカリスマ・リーダー」というわけではありませんが、家康のような人が社長であれば、従業員も安心して業務に当たれるというものではないでしょうか。もし何かトラブルがあっても、上長が守ってくれるに違いない、と思えるだけで部下のパフォーマンスは上がるものです。

意見も聞いてくれるし、結果を残せば差別なく評価だってしてくれる。そして何より自分のことをきちんと理解してくれるのですから。

家康は戦場で爪を噛む癖があったらしく、一説によればこれは「恐怖に弱い人」に共通して見られる特徴だそうです。実際に家康は小心で臆病だったそうです。一兵卒なら到底役に立ちそうもない人物です。

しかし「マネージャー」としてはそのような臆病さこそがむしろ利点になりました。臆病だから慎重になり、苦しいことにも耐えられる。その上、生来の優しさと人の良さで人を惹きつけ、運にも恵まれていました。家康は、現代に生まれていればもしかしたら気のいい中小企業の社長のような人物だったのかもしれません。しかし、時代は彼を「天下の将軍」にしました。

色んな意味で「近代日本の始祖」となった徳川家康。日本企業のあり方にも彼の影響は大きいと思われます。それ故、そのマネジメント方法からは大きな学びを得られるはずです。


参考文献
「徳川家康大全」小和田哲男 KKロングセラーズ
「家康」 坂口安吾

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tamam010yuhei
1984年福岡県生まれ。 東京でサラリーマンをしながら、世界史の面白いネタを集めたブログ「歴ログ -世界史専門ブログ-」を運用。 神話の時代から現代まで、「面白い!」と思ったものは何でも収集。 最近注目している国はインドネシア。
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