2016/11/10 公開

「中世最初の近代人」フリードリヒ2世の人材登用術

人と歴史の動かし方~古のリーダーたちのマネジメント術~ その2

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会社は営利組織であり、何らか事業を行って利益を上げることに存在意義があります。なので、法の範囲内であれば、基本的に何をしても、どのような手段をとって利益を上げてもいいわけです。

ですが、会社というものは人間が集まった集団でもあります。それゆえ会社毎に独自の「慣習」や「文化」「美学」というものがどうしても存在してしまいます。

例えば、「我が社はテレアポは絶対にやらない。お客様のところに足を運んでナンボである」とか、「我が社では部長職に就けるのは40歳になってからである」とか。

他の会社から見たら非合理的に映るかもしれない慣習も、その会社からすれば常識であり、その常識から外れたことをする人物は快く思われません。もし「常識外れの行動」で結果を出した人物がいた場合、陰口を叩かれたり、主流派から外されたりして、評価されなくなってしまうかもしれません。

今回取り上げる神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、そのような「常識外れ」なことを多くやってのけ、結果を出した人物です。それゆえ他のリーダーたちに疎まれ、敵視され、足を引っ張られた男でもあります。

「常識外れ」のフリードリヒ2世

フリードリヒ2世がその生涯で目指したものは、「神聖ローマ帝国を法によって支配される帝国にすること」でした。

「法の下」にあること。それは今でこそ当たり前の考え方ですが、13世紀のローマ帝国においてそれは異端的であり、危険思想と呼べるものでした。当時は「神の意志こそが絶対」とされた時代です。「神の意志」の地上における代理人である教皇の言に従うことは絶対であり、「聖地エルサレムを異教徒から解放する」ことが王の役割だと考えられていたのです。

しかしそんな時代にあって「法の下に統治される帝国」を目指すフリードリヒ2世は、異教徒であっても国の役に立つ人間は貴重だと考える、当時としては極めて先進的な思想を持った人物だったのです。

フリードリヒ2世は「異教徒の征圧」を教皇から要請されていましたが、その要請から逃れつづけ、帝国の力を蓄えるために内政の充実に全力を尽くしていました。しかし、ついに要請から逃れられなくなった彼は重い腰を上げ、軍隊を率いてエルサレムへと向かったのでした。そしてそこで「異教徒」と全面対決をせず、総大将であるアイユーブ朝のスルタン・アル=カーミルと「話し合い」の末、聖地エルサレルムを奪還するという離れ業をやってのけたのです。

エルサレムに生じる問題の多くはその解決が難しいものが多く、現代においてすら話し合いでの解決は困難を極めており、武力での解決を訴える者が後を絶ちません。しかしフリードリヒ2世は800年も前にそれを成し遂げてしまったわけです。

この離れ業は、現代的価値観では賞賛されるものですが、「武力で異教徒を殲滅してこそ神が喜ぶ」と考えられていた当時においては、異教徒と妥協するなど言語道断のことでした。それゆえ、フリードリヒ2世は生涯で合計3回も教皇から破門された、当時からするととんでもない「常識外れの男」だったと言えます。

彼はその生涯をかけて後世の国の形のスタンダードになっていく法制度の整備や、国を運営する人材育成などにいち早く取り組み、帝国の形成に邁進しました。しかし、フリードリヒ2世の死後は教皇派の巻き返しにあい、彼が夢見た理想の帝国は瓦解していく運命を辿ります。

では「法によって支配される帝国」を作るために、「常識外れの男・フリードリヒ2世」はどのような人材登用を行っていたのでしょうか。

ライバルを登用することで、ライバルを支配する

神聖ローマ皇帝就任後、故郷のシチリア王国に戻ったフリードリヒ2世は、荒廃した王国を立て直すために「既得権益者の解体」を試みました。

当時のシチリア王国では王権が弱体化し、封建諸侯が各地を割拠しそれぞれ独自に統治を行っている状態でした。フリードリヒ2世はこれらの諸侯から特権を取り上げた上で、王権を強化し法の下での中央集権体制を作ろうとしたのです。

しかし、諸侯たちも自らの特権が剥奪されるのを手をこまねいて見ているわけではありません。ゆえに下手をすれば反発は必至でした。

そこでフリードリヒ2世は王国の要職にこれら諸侯を登用し、特権的地位を認める代わりに、自らの手で他の諸侯の特権解体を任せたのです。

これは元強盗に強盗の取り締まりをさせるようなものですが、この作戦は効果てきめんで、諸侯は進んでフリードリヒ2世に協力し、反乱もほとんど起こらなかったのでした。

優秀な人材は敵であっても積極的に登用する

このように、自らの敵である人物を積極的に活用する人材戦略は、フリードリヒ2世お得意の人材活用術でした。

当時のシチリア島は、以前イスラム教徒に支配されていたこともあってイスラム教徒が多数居住する地域でした。1221年には「農地の収益が低いのはキリスト教徒の王による差別のせい」だと憤ったイスラムの農民による反乱がおこった地域でもあります。加えて、彼らは北アフリカのイスラム教徒とも連動し、内外からシチリア島を侵食しようと動き始めていました。もしそうなったら戦争は避けられない切迫した状況だったのです。

フリードリヒ2世はこれらの不満分子を、強制的に南イタリアの内陸部のルチェラという町に強制移住させました。しかも彼らにキリスト教への改宗を迫らず、完璧な信仰の自由を認め、町にモスクの建設まで許可したのです。そして男たちにはフリードリヒの軍の歩兵の職を与え、女たちには王国の家臣たちの服に使う布地を織る仕事を与えました。

こうして不満分子の反乱を押さえ込んだだけではなく、王国の新たな人材資源として活用したのです。

宗教の区別なく人材を登用する

このようにフリードリヒ2世は、優秀な人材を宗教の区別なく登用しました。
それを象徴するのが、フリードリヒ2世とアイユーブ朝のスルタン・アル=カーミルの講和が成立した後に、1週間ほどエルサレムに滞在していた時のエピソードです。

エルサレム総督アル・ガウヅィは、キリスト教徒であるフリードリヒ2世が滞在しているからと気を利かせて、イスラム教の礼拝の時刻を知らせる「モアヅィン」を鳴らしませんでした。これに気付いたフリードリヒ2世は「もしあなた方が私の国に来たら、私は教会の鐘を鳴らせなくなってしまうではないか」と言って、翌日から通常通りモアヅィンを鳴らすように申し伝えました。

そして翌日、フリードリヒ2世が部下を引き連れての視察中にモスクの尖塔からモアヅィンが鳴り響きました。すると、フリードリヒ2世の部下たちの中で大勢の者がそのまま地面に伏して祈り始めたのです。イスラム側の人々は、キリスト教徒の王の部下にこれだけ多くのイスラム教徒がいることに大変驚いたと言われています。

人材育成のために当時としては異例の王立大学を設立

フリードリヒ2世は人材の登用にも積極的でしたが、人材の育成にも力を入れていました。「法によって支配される帝国」を作るには、優秀な官僚を育成することが何よりも大事だと分かっていたからです。

当時の大学といえば、聖職者が聖職の道に進むための塾のようなものでした。当然教授陣も聖職者のみで、授業も神学が中心です。しかしフリードリヒ2世が設立したナポリ大学は、世俗界の教授陣を揃え、法学や医学の他、リベラルアーツや哲学、倫理学、修辞学等々、徹底的に世俗の世界で役に立つ学問ばかりでした。

大学の運用資金は王国の国庫から支出され、学生たちが存分に学習できるように寮まで整備され、奨学金制度まで導入していました。そして何より、卒業した学生はフリードリヒ2世の王国の官僚として採用されるという手厚さには驚かされるばかりです。

カネがかかって仕方なかったかもしれませんが、王国の将来を見越し長期的視野に立って人材に対する投資をしていたのです。

まとめ

当時の常識から考えると、異教徒を登用したり、敵を味方につけたり、異教徒と話し合ったり協力したりすることは、非常識以外の何物でもありませんでした。しかし、フリードリヒ2世はそれを積極的に行いました。なぜなら彼が目指した「法によって支配される帝国」を作るためにはそれが最も有効な手段であり、「常識」など障害に過ぎなかったからです。

本来、周囲に認められないことに加えて、自らの行為を「非常識だ」と非難されることは辛いものです。しかしフリードリヒ2世の生き方から私たちは、普段自分たちを縛っている「慣習」を突き破る大切さを学べるのではないでしょうか。自らの考えや行いに確信がある場合には、他人の批判を意に介さずに突き進むだけの気力と行動力が道を切り開くのかもしれません。

いつの間にか私たちの手足や思考を縛る「慣習」。

「いつもこうやっているから」「これが常識だから」という思考の足かせを一度外し、組織や働き方を見返してみれば、多くの「気づき」があるのではないでしょうか。


参考文献
皇帝フリードリッヒ二世の生涯「上」「下」 塩野七生 新潮社

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tamam010yuhei
1984年福岡県生まれ。 東京でサラリーマンをしながら、世界史の面白いネタを集めたブログ「歴ログ -世界史専門ブログ-」を運用。 神話の時代から現代まで、「面白い!」と思ったものは何でも収集。 最近注目している国はインドネシア。