2017/08/10 公開

周恩来「上司のイヌ」となって生きた男

人と歴史の動かし方~古のリーダーたちのマネジメント術~その11

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この連載シリーズでは、様々な英雄の「生き方」や「組織の率い方」を見てきました。どちらかと言うと天才型・リーダー型が多かったと思います。今回は少し視点を変えて「上司に媚びて成功した男」をピックアップしてみました。
その男は、中華人民共和国の首相を27年間もの間務めた「周恩来」です。
周は毛沢東の理不尽で無茶苦茶な命令にも黙って従い仕え続け、野心も持たずに自我を殺し、文化大革命の嵐の中でも失脚しませんでした。「不倒翁(起き上がり小法師)」の異名を持つ政治家の「生き残りの術」を今回は見ていきたいと思います。

中国共産党の「屋台骨」

周恩来は、中華人民共和国が成立した1949年10月から、死亡する1976年までの27年間の間、首相(国務院総理)の座にありました。首相は行政の最高機関である国務院の代表であるため、27年間も政治部門のトップに君臨したわけです。
人民解放軍が日本軍や中国国民党軍と苦しい戦いを繰り広げた後に中国本土を制圧して共産中国を建国し、その後の政治混乱や政変を経て安定期に向かうまでの間、周が果たした役割は計り知れず、周無しに現在の中国の姿はなかったかもしれません。

周は若い頃に日本やフランスに留学して共産主義に開眼し、1924年に中国に帰国し共産主義革命の戦いに身を投じました。
日中戦争が勃発して以降は、周は共産党の代表として重慶に駐在し、国民党と共同戦線維持に努めました。蒋介石は共産党との共同戦線に懐疑的でしたが、周の誠心誠意の説得により抗日共同戦線を張ることに同意したそうです。
日中戦争勝利後、国民党と共産党は再び敵対し国共内戦が始まります。これに勝利した共産党は1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言しました。

首相(国務院総理)兼外務大臣(外交部長)に就任した周は、当初は第三世界の国々との協力関係を深め、1955年のバンドン会議ではインドのネルーやエジプトのナセル、インドネシアのスカルノらと共同で平和十原則を発表。中国は「反帝国主義・反植民地」を掲げる第三軸の新興国であると世界にアピールしました。

文化大革命では、周は毛沢東を全面的にサポートし続け、要人の暗殺・紅衛兵の指導などで大きな役割を担いました。文化大革命は当時「腐った旧文化や資本主義を駆逐し、新たな社会主義文化を構築するための戦い」であると喧伝されましたが、実のところ毛沢東が劉少奇らを追い落とし再び自分が復権するための権力闘争でありました。周はこの毛沢東が始めた無茶苦茶な権力闘争に対し、身も心も捧げて進んで汚れ役を買って出ました。毛沢東のお気に召すようにと、周の指示によって殺害された人物は数知れません。

周は生涯を通じて毛沢東の忠実な下僕であり続け、また毛沢東も有能な実務家である周を頼り続けました。毛沢東に媚び続けたおかげで、周は78歳で死亡するまで、政治部門のトップに座り続けることができたのです。

優しく欲のない人柄

周は非常に魅力的な人柄の持ち主だったそうです。
西側の著名な指導者や経済人も、ひとたび周に会って話をすると、その人懐っこい笑顔や人情味ある風貌、ユーモアのある知的な話しぶりに完全に魅了され「聡明で機知に富んだ人」「度量が大きい人」「才気あふれる人」などと絶賛しました。
インドネシアのアリ・サストロアミジョヨ元首相の奥方は「私が中国人の女性だったら、絶対に周恩来にモーションをかけるのに」と語ったエピソードすらあります。女性にも相当モテたらしいです。
内外問わず、多くの人は周が「根っからのいい人」であり、魑魅魍魎が跋扈する中国共産党の中において、「唯一の良心」であると認識していました。
実際、抗日戦争、国共内戦、権力闘争と、ドロドロに陰謀渦巻く戦いの中において、衝突する派閥同士を誠心誠意説得して場を丸め、守りを固めて失敗や手抜かりを未然に防ぎ、組織を一丸とすることができたのは、ひとえに周の独特なキャラクターや仁徳があってのことではありました。
確かに、1人の人間としては素晴らしい人物だったに違いありませんが、中国の人々にとっては、周は厄災だったのではないかと思います。
なぜならば、周は毛沢東が始めた文化大革命を積極的に取り組み、もうこれ以上どうしようもない破滅的な状態にまで推進した張本人であるからです。
劉少奇の党籍を剥奪し留置所にぶち込んだのも、迫害を受け失脚・殺害された数多くの人物の逮捕状にサインしたのも、紅衛兵を動員して大衆運動を組織したのも、周の手によってです。周は毛沢東の手となり足となり、機械のごとく任務を遂行しました。

全ては毛沢東のために

周は毛沢東に気に入られ、権力を維持するためには何でもやりました。
必要であれば、手段を選ばず残忍な方法も躊躇しませんでした。
例えば、1931年5月に上海で起こった中共工作員・顧順章惨殺事件の指揮を執ったのは周であることが後に分かっています。顧順章は中共幹部を国民党に売り渡した「裏切り者」だったのですが、この時の報復は熾烈で、顧順章本人、妻、妻の弟、岳父母などを含む二十数人が同時に殺害されたのでした。

鬼のような話ですが、娘の殺害にも目をつむりました。
周恩来の養女の孫維世(そんいせい)は人民解放軍所属の劇団の女優で、大変な美人でした。毛沢東はその美貌に惹かれて、無理やり関係を結んだと言われています。毛沢東の妻・江青は下っ端女優の出身で嫉妬深い女でした。彼女は、若く美しく、しかも夫・毛沢東の関心を得ていた孫維世が気に入らない。江青は後継者として毛沢東の信頼が厚かったため、周恩来は江青には逆らえませんでした。周恩来は、娘の逮捕状に署名をしました。これにより江青は孫維世を留置所にぶち込み、むごたらしい拷問を加えて殺害させたのです。

中共最大の陰謀事件と言われる「林彪事件」の責任者も周であったと考えられています。林彪は毛沢東の側近として文化大革命で失脚した劉少奇に変わって毛沢東の後継者に指名されますが、外交政策などで意見の食い違いがあり、毛沢東と反目するようになります。危機感を抱いた林彪は起死回生の一手として毛沢東の暗殺計画を立てて実効に移しますがこれに失敗。これを知った林彪は直ちにソ連行きの飛行機に乗って亡命を図りますが、乗っていた航空機がモンゴルで墜落して死亡しました。
周は配下の特務工作機関を使って林彪らの動きを逐一把握しており、彼らが毛沢東の暗殺を計画していることも筒抜けでした。周の報告により毛沢東は暗殺計画から逃れることができたのです。
そしてミサイル部隊に指示を出し、林彪が乗った飛行機を撃墜させる指示を出したのも周だったとされています。

権力闘争に生き残る秘訣

周が壮絶な中共の権力争いの中で生き残ることができた理由は2つです。

  • トップ(毛沢東)の逆鱗に絶対に触れないこと
  • 敵に付け入る隙を与えず、用意周到に振る舞うこと

上司に好かれることも大事ですが、もっと大事なことは「上司に嫌われないこと」。
上司の話を聞き、上司の言葉を暗記し、上司の指示通りに動く。そこに自分の意見を挟む余地はありません。
実際、周は自分の意見というのをまるで見せない人でした。大局が決まらないうちは態度を示さず、異議があっても衝突を避ける。もし状況が変わったら、パッと鞍替えする。また、上司に心からの忠誠を尽くし、自分が上司にとって野心がないことを明確に示したことも重要です。

そして、敵から攻撃される余地を与えないこと。
周の献身的な仕事ぶりには定評があったし、私利私欲に走らず私生活は質素であると言われ、また男女関係も身が固いと評判でした。
本当はどうだか分かりませんが、少なくとも確実なことは、周は自分に悪評が立たないように周辺の事柄を把握して確実に処理し、敵に攻撃の武器を与えないようにしていたのでした。有能な実務家である周が一日十数時間働いたのも、全てを完璧に一切の手抜かりがないように始末するためでもありました。

まとめ

自らの行いが悪い結末をもたらすと分かっていても、自我を捨て、感情を殺し、上司のために徹底的に任務を遂行し続けた周恩来。
その結果、毛沢東の信頼を得て権力の座に長年座ることに成功しました。
「上司のイヌ」として生きる道も、並々ならぬ努力の賜物であったのです。
しかしながら、毛沢東に身も心も捧げた彼は、自分の人生について果たしてどのように感じていたのでしょうか。自分の感情や意見を殺し続けることに、いささかの苦痛も無かったのでしょうか。もし、毛沢東という稀代の大人物の側近として活躍し、中国現代史にその名を刻んだことを心から喜んだとしたら、それはそれで良い人生であったと言えるかもしれません。だがそれは、既に誰も知り得ないことです。


参考文献

人間 周恩来 紅朝宰相の真実 金鐘 編, 松田州二 訳 原書房2007年8月31日第一刷

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tamam010yuhei
1984年福岡県生まれ。 東京でサラリーマンをしながら、世界史の面白いネタを集めたブログ「歴ログ -世界史専門ブログ-」を運用。 神話の時代から現代まで、「面白い!」と思ったものは何でも収集。 最近注目している国はインドネシア。
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