2017/07/11 公開

キング牧師・非暴力革命家の指導力

人と歴史の動かし方~古のリーダーたちのマネジメント術~その10

Pocket

「私には夢がある(I have a dream)」
この演説は誰しも耳にしたことがあると思います。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、通称キング牧師はアメリカの公民権運動の指導者。ガンジー思想に影響を受けた「非暴力主義」の抵抗を貫き、1964年のアメリカの公民権法の成立に大きく寄与しました。これにより法的に人種差別は禁じられ、アメリカ国内において黒人は白人と同じ法的権利を有することとなりました。

キング牧師が成し遂げた「革命」

今では全く考えられませんが、1960年代半ばまでアメリカでは、公共の乗り物は「白人席」と「黒人席」とに分けられていました。仮に席が満席の時に白人が乗車してきら、黒人は白人に席を譲らなければなりませんでした。もし黒人が席を譲ることを拒否したら、「治安紊乱(びんらん)行為」により現行犯逮捕されていたのです。
また、特にアメリカ南部では白人の多くは「黒人を殺害すること」を罪と認識しておらず、白人至上主義団体クー・クラックス・クラン(KKK)によるリンチやテロ行為も、一応立件はされるものの、無罪になるケースも数多くありました。
もし白人に抵抗すればどんなひどい目にあうか分からず、家を破壊されても、金を奪われても、殺害されても、黒人は泣き寝入りをするしかない。キング牧師が変えようとしたのは、アメリカ社会で続いていたこのような圧倒的な社会的不正義でした。
そして彼が真に偉大なことは、脅されようが逮捕されようが、ひるまずに「社会の不正義」に一丸となって立ち向かう勇気を黒人に与えたところにあります。
この社会的潮流は黒人のみならず白人の心をも動かし、そして連邦政府も巻き込んでいきます。これはまさに「革命」と言ってもいい現象でした。
キングが主導した反差別運動は彼個人のキャラクターとニアイコールなところがあり、そのカリスマと指導力がないと成し遂げられなかったのではないかと思います。では、歴史を変えたと言っても過言ではないキング牧師の指導力とはどのようなものだったのでしょうか。

人々を導く「理論と実践」

キングは若いころから聡明で頭が切れる青年でした。
17歳で牧師になることを決め、神学校からボストン大学神学部大学院に進学し、もっぱら思索の世界に没頭しました。キリスト教の教えのみならず、東洋思想、近代哲学まで吸収し重要な文句を反芻し暗記し自らの思想の中に取り入れていきました。
中でもキングが最も影響を受けたのが、インドの指導者ガンジーの哲学でした。ガンジーは「人間は抑圧に立ち向かわなければならず、場合によっては死をも受け入れなければならない。相手が憎しみを向けてくるのであれば、同じように憎しみを返すのではなく、愛で返すほうが敵を変革する力になる」と説きました。その「非暴力・非服従」の抵抗の具体的手法として、ガンジーが採用したのは「集団ストライキ」で、例えば列車の線路に集団で寝そべったり、工場の従業員に呼びかけて操業停止に追い込んだりしました。
キングはこのガンジーの「愛」はイエス・キリストが説いた「汝の敵を愛せよ」と同じものであると悟りました。

アラバマ州モンゴメリーで抵抗運動を始めた時にキングが呼びかけたのは、黒人差別をするバス会社のバスをボイコットする、というやり方でした。黒人たちはバスに乗らずに歩いて職場や学校、買い物に向かい、バス会社は大損害を被ったのです。
白人至上主義団体は威嚇行為で黒人のボイコットを攻撃し、州政府は「ボイコット禁止法」なる法律でボイコットを封じ込めようとさえしました。キングは頻繁に集会を開き、東西新旧の思想を引用しながら聴衆に語りかけ、白人の攻撃に屈してはならないと呼びかけました。

抵抗運動は1年以上続き、並行して展開した法廷での争いの結果、最高裁判所はアラバマ州の人種差別法は憲法違反との判決を下し、バス会社は差別的な対応を廃止するに至ったのでした。
この事件は全米の黒人を感動させ、同様のボイコットが各地で敢行されたのでした。

常に助けが必要な場所にいる

モンゴメリーでの戦いで既にアメリカ国内だけでなく、国際的にも著名な黒人解放運動家となっていたキングは、全米各地から運動の支援や講演依頼、執筆依頼が舞い込むようになります。法廷闘争や保釈金の支払いのために常に多額の金が必要だったキングは、これらの要望を可能な限り受け入れました。スケジュールは常にびっしりで、「1日20時間働く」ほどの多忙ぶりでしたが、キングは「常に私は私の助けが必要な場所にいる」と言い、お金にならないストライキやデモの応援や演説にもなるべく参加しようとしました。
それはキング自身の優しさであったのでしょうが、彼は自分自身が人種差別撤廃運動を体現していると自覚していたのかもしれません。

キングは1968年4月4日、テネシー州メンフィスのモーテルで白人至上主義者のジェームズ・アール・レイという男に撃たれて死亡します。
それは、友人の牧師にストライキの応援と演説の要望に応じて、側近たちの反対を押し切ってメンフィスまで来た際に起こりました。
キングが始めた人種差別撤廃運動は、運動自体が「キング自身」であり、彼の存在なしに発展しないものでした。おそらくキング自身もいつかはこうなると予感はしていたのだと思います。

いつ死んでも構わない覚悟

モンゴメリーでのバスボイコットの運動中、白人至上主義集団により黒人の教会4つと牧師館2つ、タクシー・スタンドとサービス・ステーションが相次いでダイナマイトで爆破される事件が起きました。
次いでキング自身の家で12本の不発のダイナマイトが発見されました。キングはくすぶっているダイナマイトが足元にある中で群衆にこう語りかけました。
「モンゴメリーの諸君に告げよ。彼らは今後も私の命をねらうだろうが、私は怯むことなく立ち向かう。(略)もし私が明朝死なねばならぬとしても、私は安らかに死にます。なぜなら私は山の頂に行ってきたからです。私は約束の地を見てきたのです。このモンゴメリーがその地になろうとしています」
この時からキングは「私」を捨て、正義のために自らの命を捧げる運命を受け入れたに違いありません。

1962年にはアラバマ州バーミングハムに活動の拠点を置き、「全米で最も差別が酷い」と言われた地域での戦いに乗り出しました。バーミングハムの警察署長ユージン“ブル”コナーは自ら差別主義者であると自任する人物で、キングは仲間たちとともにあくまで非暴力のデモで抗議行動を展開しました。
“ブル”コナーは消防のホースや警察犬を動員して黒人のデモを取り締まろうとしますが、非暴力の若者たちが当局の暴力的なやり方で痛めつけられている映像は全米に衝撃を与え、世論はキングと抵抗運動に同情的になっていきました。
1963年8月28日のワシントン大行進で公民権運動は最高の盛り上がりを見せ、有名な「I have a dream」の演説でキングの理想は幅広い共感と支持を集めました。
そしてとうとう1964年7月2日、ジョンソン大統領が公民権法施行の文書にサインをし、連邦法に存在した差別は廃止されたのでした。

まとめ

1人の男が呼びかけた抵抗運動が、人々の共感を得て広がり、地域を超えて国中に広がっていく。その過程で運動が男の存在そのものになっていく。男は私人としての立場を捨て、運動の中で命を落としました。自分が死んだ後も自分は生き残るのだと知っていたかのように。
時代を変える革命家というのは、こういう生き方をする人なのでしょう。
キング牧師の指導力とは、彼の人種差別撤廃にかける生き方そのものにあったに違いありません。


参考文献
MARTIN・LUTHER・KING –我ら勝利する日まで– 監修:アーサー・M.シュレジンジャー, 著者:ナンシー・シュッカー, 訳:瀬戸毅義 発行所:燦葉出版社 1996年11月25日第一刷発行

マネたまご マネたまをフォローすれば最新記事をお届けします!
tamam010yuhei
1984年福岡県生まれ。 東京でサラリーマンをしながら、世界史の面白いネタを集めたブログ「歴ログ -世界史専門ブログ-」を運用。 神話の時代から現代まで、「面白い!」と思ったものは何でも収集。 最近注目している国はインドネシア。
運営会社 | Copyright © kaonavi, inc. All Rights Reserved.