マキタスポーツ/芸人・ミュージシャン 37歳アルバイト時代からの逆転【前編】

失敗ヒーロー!

2019/06/12
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華々しい成功の裏には、失敗や挫折がある。その失敗エピソードから成功の秘訣をヒモ解く『失敗ヒーロー!』。今回は、芸人、ミュージシャン、文筆家、役者と幅広く活躍中のマキタスポーツさんが登場。37歳で借金を抱えながらのアルバイト生活。そんななかで第二子が誕生したという「最悪な状況」をマキタスポーツさんはどのように乗り越えたのか、昔のことを振り返ってお話を伺います。

生き残れる芸人・残れない芸人

――昨年、芸歴20周年を迎えたマキタスポーツさんですが、デビュー当時を振り返っていかがですか?

マキタスポーツ
1970年1月25日、山梨県出身。大学卒業後、地元のハンバーガーチェーン店で勤務するが半年で退社。その後フリーター生活を経て、28歳の時、浅草キッドが主催するライブ「浅草お兄さん会」でデビューし、第5代チャンピオンに。音楽と笑いを融合させた“オトネタ”を提唱、作詞・作曲・モノマネを得意としレパートリーも多岐にわたる。俳優業では映画『苦役列車』でブルーリボン賞新人賞、東京スポーツ映画大賞新人賞を受賞するなど以後も活躍の場を広げている。著書に『越境芸人』『一億総ツッコミ時代』『すべてのJ-POPはパクリである』など。

マキタスポーツ:今とはだいぶ仕事のスタンスが違いますね。昔はもっとエゴイスティックに活動をしていたと思います。31歳くらいからバンドをやり始めたんですが、当時の所属事務所が音楽に弱かったんです。そこで「音楽のことわからないでしょ?」という口の聞き方を事務所にしていたものだから、事務所とは冷え冷えとした関係でしたね。自分でライブの話を取り付けてきてCDを作って、狭い範囲ですが「全国ツアーだ!」とワゴン車で走り回ったりして、個人規模としては大きいフェスをやってました。その結果、借金を抱えることになるんですけど(笑)。

――そうだったんですね(笑)。当時はテレビでの露出は少なかったかと思うのですが、焦りを感じるようなことはありませんでしたか?

マキタスポーツ:ありましたよ。気づいたら、同じようなキャリアの奴らが売れていて、僕は、フェスをやって借金を抱えて、2人目の子どもが生まれて。さすがに「まずいな」という状況でした。タレント業だけではどうにもならなくなって、アルバイトを始めた最悪の時でした。

僕はライブなど自分の道を歩き始めたばかりだったので、それに夢中で周りが見えていなかった。売れる・売れないより自分がやりたいことが最優先で、視野が狭かったんだと思います。一方、売れている連中は、思いのほかビジネスマン的な視点を持っていることに気づかされました。「ライブに出ることは、データを採ることだ」「それぞれの笑いのサンプルを採るためのライブだ」と彼らが話しているのを聞いて、自分と全然違うなと。僕はやりたいことをやるためにしかライブに出ていなかったから、「すげえ」と思って。

――サンプルを採るというのは、どういうことでしょうか?

マキタスポーツ:お客さんや状況によってどういう結果になるか、ライブで分析するということですね。どちらの性別が多いか、会場に天井があるかないか、エアコンの設定はどうかなど。お笑いは繊細なもので、女の人は寒いだけで笑えなくなります。環境に応じて何をどうするか、売れている芸人たちはそれをすごくわかった上でやっているんです。あとは、審査員がいるライブなら、その傾向と対策も考えますね。受験や試験と同じです。

――サンプルを集め、ライブ内容を観客に合わせていくわけですね。

マキタスポーツ:そうです。ビートたけしさん、明石家さんまさんが出てきて以来、お笑いは産業として分厚くなっていきました。お笑いに関わる人数は増えているし、大きいコンテストもプレイヤーも増えました。僕も芸歴21年目ですが、緻密に計算して笑いを作ってきた人たちしか生き残っていない気がします。競争も激しく、隙間がないエンタメ業界では、調査やデータ収集をやっていないと続けるのは難しい。今ではそれを理解してますが、若い頃はわからなかったんですね。

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