草野絵美 働き方は関係ない。どこでも自分の個性を強みに生きていく【前編】

逆境ヒーロー!

2020/05/27
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成功の裏には、逆境が隠されている。そんな逆境をはねのけ活躍する“インディペンデントな人たち”の成功の秘訣に迫る、『逆境ヒーロー!』。今回は、アーティストとして活動する草野絵美さんが登場。草野さんは大学在学中に起業し、結婚や出産も経験。さらには音楽活動をしながら大学卒業後には広告会社に就職し、その後、アーティストとして独立したという異色な経歴の持ち主です。紆余曲折もいうべき経歴の裏には、何があったのか。草野さんの歩みをヒモ解くと、自分の個性を愛し、貫くことの秘訣が明らかに!

他人と違うところで勝負しないと生きていけない

――草野さんは「マイノリティであることは、ある種の生存戦略」という趣旨のお話をされています。こう考えるに至ったきっかけから、お聞かせください。

草野絵美(くさの・えみ)
1990年生まれ、東京都出身。慶應義塾大学環境情報学部在学中に音楽ユニット「Satellite Young」を立ち上げ、歌唱・作詞作曲・コンセプトワークを担当。同じく大学在学中に結婚・出産を経験し、音楽ユニットとして活動するかたわら、広告会社に新卒入社。その後、アーティストして独立し、最新作は遺伝子操作や消費サイクルをテーマに倫理問題を問いかける「Insta Baby Generator」、水中ドローンを用いた移動式サンゴ「Floating Coral」など。現在は東京藝術大学で非常勤講師を務める。

草野絵美(以下、草野):改めて言葉にすると「生存戦略」という表現になるだけで、私は幼いころからずっと、マイノリティだったんです。例えるなら、黒柳徹子さんの『窓際のトットちゃん』。集団行動は苦手だし、忘れ物は多いし、運動も勉強全般も、そんなに得意なほうではなかったし(笑)。でも、絵を描くことや即興で歌を作ることは得意。そんな私を肯定してくれたのが両親でした。「右に習え」ができない私を叱ることなく、得意なことに打ち込む私を褒めてくれて。そんな風に育ったからかな。他人と同じことをしていると、かえって不安になるんです。「右に習え」ができない以上、他人と違うところで実力を発揮しないと生きていけない。子どものころから漠然と、そう感じていたんです。

振り返ってみると、いつも私は浮いていて。両親がアーティストという家庭で育ち、高校の時に留学したユタ州の学校では、私が唯一の黄色人種。しかもアメリカのユタ州って、人口の7割近くがモルモン教徒なんです。宗教の概念を持たない生徒も私だけ。帰国後に通っていた都内の高校は、とても国際色豊かな高校でした。特に英語の特進クラスには様々な国と文化のバックグラウンドを持つ同級生がいて、日本人は私一人。その後、大学に入っても、周りで起業していた女性は私くらい。在学中に結婚したのも出産したのも私だけ。こんな風に私はいつも、何かの少数派であることを見つけていたんです。意識しているわけじゃなく、自然とそうなっていたというか。

――何かの少数派ですか。とても濃密なハイティーン時代ですね。

草野:かなり濃かったと思いますね(笑)。特に留学から帰ってからは、刺激的な毎日を送っていました。ユタ州がものすごくのどかだったこともあって、東京という街がすごく鮮やかに見えたんです。高校に通いながら原宿のストリートフォトグラファーとしてお小遣いを稼いだり、コレクションの写真を撮ったり、ライターとして会いたい人に会いに行ったり。いつもその時に夢中になれることを選んでいたんです。特に20代前半は、夢中になれることがコロコロと変わって。でも、最終的には全てがつながったのかも。そもそも私は、自分に「右に習え」を強いたところで頑張れないんです。苦手なことを強いず、得意なことや好きなこと、夢中になれることに集中させてくれた両親には、本当に感謝しています。

アートを生業にすることに怖さがあった

――草野さんの生き方の根底には、ご両親の存在があったのですね。その一方で、大学時代には起業。アートではなく、ビジネスを志向されたのはなぜだったのでしょう?

草野:そのことに関しては、画家兼服飾デザイナーとして生計を立てていた、父の影響が大きくて。好きなことを仕事にしている父に対して、「私もそうなるんだろうな」と思っていました。でも、お父さんを見ていると、彼の苦しさがわかったんです。作品と向き合うことも、作品でお金を稼ぐことも、簡単なことじゃない。苦しみを伴います。「お父さんは絵が大好きなのに、苦しみながら描いている。このツラさは、私には真似できない」という想いから、アートを創造する立場ではなく、プロデュースする立場に進もうと考えました。そのためにはビジネススキルが必要。美大ではなく、慶應義塾大学のSFCに進学したのも、ビジネスを学ぶためです。

ビジネスを志向した裏側には、怖さもあったんだと思います。自分に自信が持てなかったんです。高校卒業後の進路を考える段階では、自分が何をして生きていきたいのか、はっきりとしたビジョンが見えていなくて。ファッションが大好きだったから、服飾デザイナーを目指そうとも思いました。でも、行動に移すだけの自信を持てない。「お父さんのように絵が上手なわけでもないし、お金をかけてファッションの本場に留学するにしても、それだけの価値が私にはあるの?」って、そんな風に考えてしまって。

技術がないなら、得意な人と組めばいい

――しかし草野さんは現在、アーティストとして活動されています。転換期は、どこにあったのでしょう?

草野:Satellite Youngの活動が、自分の世界を表現する第一歩になりましたね。でも、創作活動のきっかけは、ヒマだったからなんです(笑)。息子を妊娠して、大学も休学して、時間があり余っていて。YouTubeでひたすらミュージックビデオを見ていたところ、「創りたい!」という衝動に駆られたんです。私は幼いころから80~90年代の、自分が生まれる前後のカルチャーが大好き。その時は「大好きな年代を再現するような作品を作りたい」と思ったんですね。休学していたおかげで、時間もたっぷりあったし(笑)。

ただ、時間以上に大きかったのが、周囲の人たちの後押しでした。その当時、明和電気の土佐信道さんやバイバイワールドの髙橋征資さん、スプツニ子さんたちと交流を持つようになっていたんです。彼らはみんな、素晴らしい表現者。憧れの存在です。「私はこんな表現をしてみたいけれど、美大にも通っていないし、パソコンで音楽制作をする技術もないから無理だと思う」なんて話をしたところ、「全てを自分でやる必要はないよ。トラックの作れる人間と組んで、チームでやればいい」というアドバイスをもらって。目からウロコでしたね。

――そのアドバイスから生まれたのが、Satellite Young?

草野:そうです。編曲をお願いできる人として、今も一緒に活動するベルメゾン関根さんを紹介してもらったことが始まりです。関根さんには本当に感激させられました。私の想い描いていた楽曲のイメージが、立体的な音楽になって返ってきたんです。私一人きりだったら、チームを組んでいなかったとしたら、ずっとくすぶったままだったかもしれない。関根さんはもちろん、アドバイスをくれた方々のおかげです。

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