古坂大魔王 苦節と熟成の20年、マイナスから育てたピコ太郎【前編】

失敗ヒーロー!

2019/12/17
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華々しい成功の裏には、失敗や挫折がある。その失敗エピソードから成功の秘訣をヒモ解く『失敗ヒーロー!』。今回はピコ太郎のプロデューサーとしても知られるお笑い芸人、古坂大魔王さんが登場。古坂さんがプロデュースを手掛け、2016年にYouTubeで発表された『PPAP』は世界的な大ヒット。現在の再生回数はロングバージョンを合わせると5億回以上。しかし古坂さんのデビューは1991年のこと。そこでデビューからヒットまでの長い歩みをヒモ解くと、逆境を支えた芸人仲間の言葉や、長い下積み時代に育まれた成功の秘訣が明らかに!

無敵の青森から、敵を求めて東京へ

――お笑い芸人を目指し、19歳の時に青森から上京。「一万円の家賃さえ払えなかった」というお話をされていますが、当時は相当、苦しい思いをされたのではないでしょうか?

古坂大魔王(こさか・だいまおう)
1973年7月17日生まれ、青森県出身。1991年にお笑いトリオ「底ぬけAIR-LINE」としてデビュー。現在はバラエティ番組への出演のほか、mihimaruGT、AAA、SCANDALなどとのコラボや楽曲提供も行う。『PPAP』が世界的なヒットとなったシンガーソングライター・ピコ太郎のプロデューサーとして広く知られ、2019年1月には、ピコ太郎誕生までの秘話を多角的に記した『ピコ太郎のつくりかた』を上梓。10週連続でYouTubeにアップした「PIKO 10 PROJECT」が配信中!

古坂大魔王(以下、古坂):上京と言いつつ、相模原のアパートでしたね。カーテンで仕切られた6畳一間に、見ず知らずのフィリピン人と同居するという(笑)。芸人というのは皆が皆、苦労するために上京します。わかりやすく言えば、ドの付く貧乏はおいしい。ネタになるんです。誰が言ったか「現状維持は退化なり」ってね、これは芸人の共通認識です。例えば、プラス5とマイナス5。自分の動きがマイナスに振れたとしても、そこには5の力量が働いています。ゼロでない限り、意味がある。

僕は上京前からお笑いをやっていて、正直、青森では無敵でした(笑)。新たな敵が現れないから、否応なく現状維持。それが東京では敵だらけ。底ぬけAIR-LINEというトリオを組んで、勝てる自信はあったし、実際、それなりの位置までは行けたんです。ただ、そこからがしんどい。特に今田耕司さんと東野幸治さんのWコウジは凄すぎました。勢いもファンの数も、スタッフの評価まで段違い。悔しくて仕方ない半面、勝つための作戦を練ることが、楽しくて仕方なかったんですよ。

――無敵の青森から敵を求めて上京し、負けることすら楽しかった。すると挫折の経験は、ないに等しかったのでしょうか?

古坂:いやいや、ツラかったですよ。一時は「芸人をやめよう」とさえ思いましたから。実力の壁、ルックスの壁、事務所の壁。芸人の世界にはいろいろな壁があって、最も高いのが人気の壁です。これを乗り越えるには、まず、番組に買われなきゃいけない。芸人は商品であり、番組に買われ、出演しないことにはゼロの状態です。底ぬけAIR-LINEはデビュー当初こそ買ってもらえたものの、長続きしなかった。

ただし、買われない理由は明確でした。そもそも僕が憧れていたのは、万人にウケる芸人じゃない。自分の矜持として「玄人にウケる芸人でいたい」と思っていたし、妥協するつもりもなかった。そこで始めたのが音楽コントです。底ぬけAIR-LINEの結成から、4年後くらいでしたね。当時はお笑いに音楽を持ち込むなんて、邪道中の邪道。フリートークと漫才と大喜利。これでウケてこそ、真のお笑い芸人という時代でしたから。

誰も手をつけない、“スキマ”を極める

――人気の壁を乗り越えようとする場面で、邪道の音楽コント。矛盾しているようにも思えます。

古坂:スキマを狙ったんです。強敵ぞろいの東京では、プラスにせよマイナスにせよ、オンリーワンになるだけの強みがなければ、存在価値が認められない。誰も手をつけようとしない邪道を極めてこそ、道は拓けます。しかも音楽の力って、めちゃくちゃ偉大なんですよ。曲を一発当てれば、すさまじく前進できる。『WON’T BE LONG』をヒットさせたバブルガム・ブラザーズさんが、その代表的な例です。そこで底ぬけAIR-LINEと並行して、NO BOTTOM!という音楽ユニットを立ち上げました。

一曲当てさえすれば、こっちのもの。人気の壁を一気に飛び越え、自由に振る舞えるのが芸人の世界です。ただ、ブレイクスルーの一曲を求めて音楽を追究するうちに、逆転現象が起きてしまった。底ぬけAIR-LINEは本名の古坂和仁、NO BOTTOM!は古坂大魔王の名義で活動していましたが、古坂大魔王の存在感が増していったんです。今で言うエゴサーチをしてみても、圧倒的に、古坂大魔王がヒットする。この時です、芸人をやめようと思ったのは。「芸人をやめて、音楽の道に進もう」と。

――しかし古坂さんは、芸人をやめなかった。なぜだったのでしょう?

古坂:引き留められたんです、『ボキャブラ天国』の時代を一緒に戦った芸人たちに。爆笑問題さんもくりぃむしちゅーさん、東MAXもつっちー(土田晃之)も、全力で引き留めてくれましたね。「お前には実力がある。世間にウケないのは、お前の笑いを理解していないだけ。それなのに音楽の道に進もうなんて、バカじゃねぇの」と。本当にこれは嬉しかった。

――『ボキャブラ天国』はお笑い史に残る名番組ですが、そこまで深い絆が隠されていたとは。

古坂:僕らは戦友なんですよ。当時は楽屋もずっと一緒で、互いが負けまいと常にバトル状態。こうした時代を共にしたからですよね、「人気なんて後から付いてくる。だから芸人を続けろ」と。特にくりぃむしちゅーの上田晋也さんは「俺からすれば、古坂は日本一面白い。日本一面白いお前が芸人をやめたら、俺への侮辱だ」と、僕を出演させるための番組まで立ち上げてくれて。それが2006年にスタートした『上田ちゃんネル』です。ここまでされたら、やめられるわけがない。単独ライブの開催を決め、自分を追い込むようにネタを作りました。そこで生まれたのが、僕がプロデュースするピコ太郎です。

――すごい。まるで、ドラマのあらすじを聞いているような気分です。

古坂:上田さんには「けっきょくお前、音楽で売れてるじゃねーかよ!」と、ツッコまれますけどね(笑)。それでもピコ太郎は、あくまでもお笑い。音楽という手法を用いただけで、完全なるお笑いなんです。しかしピコ太郎にたどり着くまでは、かなりの道のりでしたね。音楽コントに舵を切ったのが1995年。そこから2003年にNO BOTTOM!を立ち上げて、底ぬけAIR-LINEの解散やら何やらを経て、『PPAP』のヒットが2016年です。当時の戦友たちが次々と売れるなか、20年を超える下積みですよ(笑)。

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