【前編】「“裏原宿”をつくった人たちは、初めは誰もがマイノリティだった」・デッツ松田

失敗ヒーロー!

2017/07/25
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“裏原宿”を生んだ面々との出会いは「ツバキハウス」

――なるほど。当たり前の会話が、今で言うブレストに直結していたようなイメージですね。こうした編集業界でのお付き合いがある一方、デッツさんのキャリアを振り返るにあたり欠かせないのが、「裏原宿」というフレーズです。

デッツ:ファッション的に90年代リバイバルが来ているからかな? 最近、いろいろなところで「当時について聞かせてください」と言われるんです(笑)。そもそも“裏原宿”って、確か1993年、ジョニオ(=高橋盾氏/ファッションブランド『UNDERCOVER』デザイナー)とNIGO(=ファッションブランド『A BATHING APE®』創始者)が、原宿の裏通りにNOWHEREという小さな店を構えたことが始まりだと言われていて、大資本に頼ることなく、インディペンデントで規模を大きくしていったムーブメントですよね。

NOWHEREを皮切りに多くのブランドが生まれたけれど、とにかく横のつながりを大事にしていた印象が強い。自分だけが儲けるのではなく、「みんなで一緒に大きくなっていこう」というスタンスですね。エディターという、僕の立場からしても一緒です。「雑誌で紹介する形で、彼らを応援していこう」と思っていました。

――お名前を挙げていただいた高橋盾さんやNIGOさんとは、どのように出会われたのですか?

デッツ:一つ場所として挙げるなら、新宿のツバキハウスになるのかな。僕がよく遊びに行っていた80年代の中盤と言うと、大貫憲章さんが主催する「ロンドン・ナイツ」の全盛期。この音楽イベントを通じて、いろいろな人との繋がりが生まれましたね。ジョニオやNIGOと出会ったのは、ツバキハウスが閉店する時期に近かったと思うけど、藤原ヒロシもそこでプレイしていましたし。彼がロンドンやニューヨークから仕入れた音楽情報をDJという形で披露して、さらに人が集まり、つながっていくというか。

最先端を求める人たちが「自然と一箇所に集っていた」

――藤原ヒロシさんもまた、“裏原宿”をヒモ解くときに必ずと言って、お名前の挙がる一人ですよね。

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デッツ:ヒロシと僕の付き合いに関して言うと、そもそも実家が近所だったりするんですよ。年齢はヒロシのほうが2つ下だけど、彼のお姉ちゃんと僕は同級生だったし、お互いの両親も知り合いだから(笑)。ただ、初めてきちんと会話を交わしたのは、彼が16歳で僕が18歳のときです。僕はすでに上京していて、実家に帰省したタイミングでしたね。だから親交を深めた場所というと、やっぱりツバキハウスになると思います。

――藤原ヒロシさんにしても、高橋盾さんやNIGOさんにしても“時の人”で終わらず、今も世界的に活躍されていますよね。彼らのルーツであるという点も、当時から約20年を経た今、“裏原宿”が再注目される理由のような気がします。

デッツ:ジョニオはパリコレの常連だし、NIGOは世界的にビジネスで成功しているし、ヒロシも、『LOUIS VUITTON』とダブルネームで仕事をするような人物ですからね。そういう才能ある人たちが一つのムーブメントから出てきているのは、確かに不思議。「僕もあのとき、洋服のブランドを始めていれば……」なんて冗談ながらに思ってしまいますから(笑)。

ただ、あらためて振り返ってみると、ツバキハウスには最先端の音楽があって、“裏原宿”には最先端のファッションがあった。だから音楽好きがツバキハウスに集まり、ファッション好きが“裏原宿”に集まるのは、とても自然なことですよね。マニアのレベルで「音楽が好き」「洋服が好き」という奴らが一箇所に集まれば、そこから世界に通用する人物が出てくるのも、すごく当然の流れだったのかもしれない。

少数派の“集り”がいつの間にか“カルチャー”になった

――最先端を求める、いわゆる高感度な人たちが一箇所に集い、持ち前の感度の高さを持ってして、世界に羽ばたいたイメージですね。

デッツ:どうして感度の高い奴らがツバキハウスや“裏原宿”に集ったかというと、理由は単純。当時は音楽にしてもファッションにしても、趣味を満足させられるような遊びって、すごく少なかった。僕自身、音楽も洋服も大好きだったけれど、例えば10代のときに愛読していたファッション雑誌なんて、せいぜい『MEN’S CLUB』があって、高校時代にようやく『POPEYE』が出てきたくらいです。音楽好きが遊べるクラブも少なかったから、ツバキハウスの他に原宿のピテカントロプスか、クラブDやモンクベリーズがあったくらい。心から楽しめる遊び場って、本当に数が限られていたんですね。

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当時のクラブで出会った人たちがつながりを深め、ファッションという形で“裏原宿”というムーブメントが生まれていったけれど、80年代に関して言えば、洋服屋も数えるほどでしたから。いわば当時において、とんがった音楽やファッションを好む若者は、完全なるマイノリティ。高感度を求めるマイノリティが限られた遊び場に集い、濃度の高い場所から生まれたからこそ、“裏原宿”は、今でも語られるムーブメントになったのかもしれません。


後編では・・・

失敗ヒーロー!』第6弾後編は、“裏原”カルチャーに生きてきたデッツ松田さんがこれまでの人生を振り返って感じる「失敗」や、本職である編集者視点で考える「仕事のできる若者像」、そして「マネジメントの考え方」に迫ります!


【前編】「“裏原宿”をつくった人たちは、初めは誰もがマイノリティだった」・デッツ松田
【後編】「あぐらをかいた、30代という正念場」・デッツ松田


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