【前編】「“裏原宿”をつくった人たちは、初めは誰もがマイノリティだった」・デッツ松田
失敗ヒーロー!

華々しい成功の裏には、失敗や挫折がある。その失敗エピソードから成功の秘訣をヒモ解く『失敗ヒーロー!』。今回、ご登場いただくのは、エディターとして、構成作家として、今にも語り継がれる雑誌やテレビ番組で制作を務めてきた、デッツ松田さんです。
クリエイターとしてご活躍される一方、1990年代に世の中を席巻し、今、再び注目を集める “裏原宿”という一大ムーブメントに身を置いた人物でもあります。“裏原宿”という文化を語るとき、藤原ヒロシさんやNIGOさん、そして『UNDERCOVER』のデザイナーとして活躍する高橋盾さんと並んで、必ずお名前が挙がる存在です。
では、ムーブメントから20年以上を経た今、熱い視線を注がれる “裏原宿”とは、いったい何だったのか。そして、そこから羽ばたいた人たちは、なぜこうも華々しいキャリアを築かれているのか……。エディターとして“裏原宿”を世に知らしめ、その渦中に身を置いたデッツさんの視点から、その謎に迫ります!
編集者という仕事が「かっこよかった」1980年代
――『Hot-Dog PRESS』や『HUgE』を始め、名だたるメンズ雑誌でエディターを務められてきたデッツさん。そもそもエディターを志したきっかけは何だったのでしょう?
1961年生まれ。三重県出身。ファッション雑誌『OUTSTANDING M』編集長。同誌を発行するダウトエヴリシング代表を務める。過去、雑誌『Hot Dog Press』『POPEYE』『Begin』などで編集や執筆を担当。また、スペースシャワーTVの『BUM TV』やフジテレビの『カルト Q』など、テレビやFMラジオの構成作家としても活躍した経歴をもつ。
デッツ松田(以下、デッツ):志すも何も、最初は完全に流れでしたね。大学卒業後、何の職にも就かずブラブラしていたところ、編集プロダクションに勤めていた友だちに「うちの会社に来ないか?」と誘ってもらったのがきっかけです。
バイク雑誌のアルバイトから始め、半年後には正社員にしてもらいましたが、社内の異動で配属されたのがウィンドサーフィンの雑誌。だけどウィンドサーフィンなんて一度もやったことがなかったし、雑誌を作っていても、まったくハマらない(苦笑)。「これは厳しい」と思い、すでにフリーランスで編集の仕事をしていた友だちに「どこか紹介してよ」と声を掛けたら、「講談社であれば紹介できるよ」と。
その段階で編プロは辞め、フリーランスとして独立という形です。それが1985年くらいだったかな。当時、大手出版社の編集者っていうと、かっこよくてお金を持っていて、いい車に乗り、きれいなお姉さんを連れているイメージもあったから(笑)。
毎夜の“プチ宴会”から「自ずと面白い企画が生まれた」
――1985年というと、ちょうどバブルが始まる前年といった感じですね。
デッツ:飛ぶように雑誌が売れる時代だったから、経費に関しても、とてつもないゆるさ。タクシー代を清算するにも少額ならば領収書なんていらないし、今でもよく覚えているのがアフリカゾウの話です。どこかの編集者がアフリカロケでゾウをリースしたものの、その領収書をなくしてしまったと。で、手元に残っているゾウの写真をエビデンスに何百万というリース料で精算したら、見事に通ったという(笑)。
――アフリカゾウ! にわかには信じられないお話ですね(笑)。
デッツ:ウソかホントか、分からないですけどね(笑)。ただ、そんな都市伝説が残っているほど景気が良かったから、編集部に遊びに行きさえすれば、飯が食えた時代です。羽振りのいい編集者が当たり前のように「そろそろ飯でも食いに行くか」って。編集部には社員もいれば、僕のような駆け出しのフリーランスもいるし、当時は警備もゆるかったから、「お前、誰だよ?」って人間までいるし(笑)。
そういう人たちが一緒になって飯を食いに行っては、くだらない話で盛り上がってました。そうしたら自然に「デッツ、最近は何が流行ってんの?」なんて話になって、そこから面白い企画が生まれたり、新しい仕事につながったりもしましたね。

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