彼女の仕事−−スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』

連想で本を読む

2020/05/15
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著者:川崎祐

戦争は女の顔をしていない

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ (著)
出版社:岩波書店
出版年月日:2016年2月16日

飄々としていたり、気さくだったり、朗らかだったりして竹を割ったような清々しい出会いの印象をくれた人との会話が不意に途切れる。空気は緊張している。次の会話の最初の一言が発せられるまでの何秒間かが揺れる。互いの口角は上がりきらず、上唇と下唇が歪な楕円を作ったまま発語されない言葉が何度か空を切る。ふと強張った音を聞く。音が連なり、単語が、話が繰り出される。障がいを抱えた子ども、近しい人との死別、精神を病んだ家族。脳が鉛になったように頭が重い。わたしは曖昧な相槌を打ちながら聴いているだけだ。理解も想像も追いつかないままいつの間にか話題は変わっている。明るさを取り戻したその人の声に救われながら、戸惑いは身体中に広がっていく。

何年くらい前からだろうか。初対面に等しい人から打ち明け話をされる機会が増えた。ごく普通の人たちだ。もちろんいまや「普通」のハードルは高い。正規の職を得ることも家族生活を営むこともかつて以上に容易ではなくなっている。仕事と生活の維持に力を傾けながら困難に直面する。身に降りかかった出来事を不幸と見なして、自分自身を憐れむことができたらどれほど楽になるだろう。それを自分に許したくないから、内側に抱え込むのだ。深い内省と、柔和な表情の対照にわたしは思わずたじろぐ。どちらの側面も本当だからどちらか一方だけに焦点を当て切ることができない。では、空振りの言葉をきちんと発語してやるためにはいったいどうすればいいのだろう。

語れない、語りたくない、語りえない。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』は、第二次大戦を戦った五〇〇を超える旧ソ連の従軍女性の「沈黙」を扱う。二〇〇〇万人以上の死者を出したと言われるソ連にとっての第二次大戦において、一〇〇万の女性が戦地に赴き、看護士や医師としてだけでなく実際に武器を持つ兵士として人を殺した。本書を一読すれば分かるように、その多くは「祖国」を守るために自ら出兵を願い出ている。しかし、戦後、生き残った彼女たちは出征体験を持たない女性たちに蔑まれ、ともに戦った男たちは彼女たちを「置き去りにした」。複層化された否定形のなかで、戦前、戦中、戦後の経験は彼女たちを引きちぎり、彼女たちは口を噤んだ。

彼女たちの元に女性ジャーナリストが話を聞きに訪ねてくる。まだ若く、三十代だ。(もしいれば)彼女たちの娘と同じくらいの年齢だろうか。先達の仕事に憧れ、自分もこれと言える仕事に取り組もうとしている。言ってしまえば隙だらけだ。進めれば進めるほど手を出した題材の難しさに立ち止まらざるを得ない。彼女は深い傷を負った人に思い出したくない過去を思い出させることを残酷なまでに強いている。わかっている。それでも聴くことをやめない。なぜなら彼女の仕事は「男の言葉」で語られるよりも「ずっと恐ろしい」「女が語る戦争」を書き表す前代未聞の試みだから。未熟で、大胆で、他者の徹底的な孤独を想像しうる感性を持つアレクシエーヴィチの前で、女たちは固く締めた感情のネジをゆるめる。ある女性は彼女に言う。「私たちの歴史を書くためには、あんたたちみたいな人が何百人も必要よ。私たちの苦しみを全部書いて記すには」と。隙とゆるみを受け止め合う時間のなかで、決して語られることのなかった「歴史」が語られていく。

「今、すべてを思い返して、あれは自分じゃなかった、だれか他の女の子だったんだという気がします」。敵前逃亡した味方に下された「判決」を自ら進んで実行に移した女性は言う。前線に出たのは十六歳だった。「『あんたたちが戦地で何をしていたか知ってるわ。若さで誘惑して、あたしたちの亭主と懇ろになってたんだろ』」。戦後、「ありとあらゆる侮辱」を受けた女性は自分に投げつけられた言葉を思い出す度に「ほほが熱くなる」。「私も死んでしまいたかったけれど、もう彼の子供を身ごもっていました」。夫の死を彼の傍で見届けた女性は言う。妹と偽って前線でようやく再会した夫だった。息子にも孫にも夫と同じ「ワシーリイ」という名前を付けた。「指令が出されて、母が歩いてくる、その方向に撃ったことを……母の白いネッカチーフから眼を離さなかったことを。こういうことを全部かかえて生きていくのはどんなに辛いかお分かりいただけないわ」。地元住民を盾にして歩くドイツ軍に向けて銃を撃った女性は、パルチザンだった。「人間の盾」となった住民のなかに彼女の母親もいた。そして別の女性は言った。「人間には心が一つしかない、自分の心をどう救うかって、いつもそのことを考えてきたよ」−−憎悪、悲しみ、恥辱、愛、後悔、トラウマ。アレクシエーヴィチの前で語り重ねられた従軍女性たちの経験は、複雑に絡み合う感情と消却できない記憶で引き攣っていた。

読む者の胸を掻きむしる証言のポリフォニー。それは単に、五〇〇を超える体験が集められているからそうなるのではない。語り手の一人は「女友達に話す」ように自身の戦争体験を著者に語り聞かせるだろう。そして後日、「私は息子にとって英雄です。神さまです。こんなのを読んだあとであの子がどう思うか」と記したメモとともに自分の体験が記録されることを拒むだろう。あなたの体験を聴きたいと頼む人の前で話したいと思う自分も今の自分を保つためにあとからそれを打ち消す自分も、そのどちらも否定しようがない自分自身だ。否定しようがないから、当事者たちは引き裂かれるのである。従軍女性たちの語る一つひとつの語りのなかには、引き裂かれた分だけ様々な声が、経験が息づいている。たとえそれがどれほど小さくても、記録しなくていい声などひとつとしてない。

光学にはレンズの「強度」という概念がある−−とらえた画像をより確実に見せるレンズの能力のことだ。そして、女性の戦争についての記憶というのは、その気持ちの強さ、痛みの強さにおいてもっとも「強度」が高い。「女が語る戦争」は「男の」それよりずっと恐ろしいと言える。男たちは歴史の陰に、事実の陰に、身を隠す。戦争で彼らの関心を惹くのは、行為であり、思想や様々な利害の対立だが、女たちは気持ちに支えられて立ち上がる。女たちは男には見えないものを見出す力がある。(一二−一三頁)

若き日のアレクシエーヴィチは、語りと語りの途中で立ち止まり、一つひとつの語りから受け取った印象を所感として残している。本書のあちこちに挿入されるそれら断想のなかで彼女は語り手たちと一緒に泣き、笑っている。絶句するような体験と長すぎる沈黙の前で言葉は出ない。取り繕いの言葉は不鮮明な画像を量産するだけだ。だからまずは発語の手前で正直に、感情を、言葉未満の言葉を鳴らしてやればいい。まだ未成のそれは、いずれ「強度」を持つ言葉に変わって「女が語る戦争」を描き出すだろう。その成果が形を成してこちらに伝えられるとき、彼女は水滴を拭いたレンズで「一つしかない」人間の心を捉えた数えきれない画像の群れをわたしたちの眼前に差し出すことになるだろう。


photo by paramita

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