彼女の見る風景−−ジョアオ・ビール『ヴィータ 遺棄された者たちの生』

連想で本を読む

2020/03/06
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著者:川崎祐

ヴィータ 遺棄された者たちの生

ジョアオ・ビール (著)、トルベン・エスケロゥ(写真)、桑島薫・水野友美子(翻訳)
出版社:みすず書房
出版年月日:2019年3月23日

だだっ広くて、無関心を装っているのに、ひととひととの距離がちかすぎて、身を隠すことができない。隠れたところで真相不明の噂に翻弄される。いまも昔も変わらない地方都市の、郊外的な土地の持つ息苦しさからの解放は、都市が地方出身者にあたえるつかの間の慰みにちがいない。一度ひとの群れのなかにまぎれこんでしまえばもともとさして特徴のないわたしのような人間は匿名的な無個性を手に入れ、ひとりきりになることができる。しかしそれは、記名によって自分の存在を保証してくれる場所があるから成り立つ安心な遊戯にすぎないのだった。だから、本音ではその場所をなくすことを恐れてびくびくしている。ほんとうの意味での匿名性は、社会とひとの諸活動のひずみによって穿たれた穴のかたちをして、日常生活のなかでぽかんと口をあけながらわたしの到着をいまかいまかと待っている。

ひとりのひとの生のうちに故意に穴をあけ、そのひとをその穴のなかにおとしいれて、何事もなかった顔で生活を送ること。それをするのは、特定の誰か、というわけではない。主犯格にあたる連中は複数いて、構造は複雑に入り組んでいる。おとしいれられたひとは、かつてともに暮らしたひとたちの記憶から消し去られ、もう思い出されることはない。そのひとは、徹底的に痛めつけられたのち、遺棄され、社会的な死を宣告されたまま生きながらに死んだ者−−「元・人間」という侮蔑のきわみのような烙印を押されたきり身体的な死の訪れを待つばかり、なのか?

ジョアオ・ビール『ヴィータ 遺棄された者たちの生』を貫くのは、「元・人間」として扱われたひとりの女性が、彼女の尊厳の廃棄のさきで反論の余地すらあたえられないまま問答無用で審判された社会的な死のあと、それでも生きることへの意思を手放さなかった彼女が「辞書」と呼んだもの−−メモ帳に書き綴った言葉、いや、「言葉にならない言葉」の、苦しくて、美しくて、痛々しい、とりかえしのつかない喪失の響きだ。喪失とはここで、文字どおり、ひとりの女性の生の終わりを意味する。しかし、それだけなのか。それだけでは読後の心に重くのしかかる無力感と虚脱感を説明できないのはなぜなのか。

彼女はヴィータの住人だった。ヴィータとは、ブラジル南部の都市、ポルト・アレグレ市郊外にある保護施設のことである。そこには、麻薬中毒者やアルコール依存症者、エイズ感染者、精神病者たちが暮らしている。多くの場合、家族と地域医療によって手の施し用がないと判断された彼/女らは、社会的な無価値を宣告されたにひとしい。一九九七年の三月、ブラジル各地をまわりながら貧困者とエイズの関わりを調査していた著者は、ポルト・アレグレ市のエイズ対策プログラムのコーディネーターにつよく勧められてヴィータをはじめて訪れた。いわく、あそこは人間の捨て場所だ、と。

揺りかごのなかにすっぽり身を沈めた盲目の老女がいる。子どもほどの背丈しかない。なぜここに来たのか。歳をとって家族のために働けなくなかったから。「今はあたしの赤ちゃんなんです」。彼女の世話をする二人の子どもの親権を失ったかつて静脈注射薬常用者だった女性は言う。地面に座り込んだ中年の女性がいる。その頭には無数の小さな穴があいている。どうしてだろうか。「ウジ虫が頭の傷口から頭皮の下に入り込み、巣くっている」から。同行した写真家は思わず顔をそむける。生の気配のなくなったヴィータでは、「死とともに終わりを待つ」音だけが鳴っている。

遺棄されたひとの姿は見えない。ほんとうは見えているのに、見えないことになっている。見えないものを見えるようにするのは意思の力だ。しかし、彼は慈善家ではない。職業的な線引きを保持しなければ闇の深さにのまれてしまう。本書において著者はそれをなかば維持し、なかば放棄しながらひとりの女性の生に寄り添う。このとき、遺棄された彼女の生にようやくあかりが灯され、彼女は「辞書」を書きはじめる。暗闇のなかでぎりぎりの明度をたもった鈍い光が、彼女の書いた「言葉にならない言葉」の羅列を照らす。言葉と言葉のあいだから、見えなかったはずの彼女の姿が浮かびあがる。

すこし足の悪い、つよい意思を持った女性。足が悪いのはどうも遺伝のようだ。何人か子どももいる。生活は苦しいかもしれない。鈍い光の先に見えたのは、貧困のなかを生きる、たくましい女性の姿だった。異様なのはむしろ、周囲のひとのほうだろう。別の女性と暮らしながら彼女の精神疾患を言いたてて土地と家を奪い去った夫、それに同調した義父母、義兄弟、実の兄弟と子どもから構成される家族、そして「家族」の主張になんら疑問を差しはさむことなく彼女を診断し、過剰投薬をつづけた医療。「統合失調症、産後精神病、心因性精神病、非定型精神病、気分障害、うつ病」。多岐にわたる診断はすべて誤診だった。救いようのない偏見が常識として作用し、彼女の生に致命的な穴をあけ、ヴィータに捨て去った。なぜそんなことが可能だったのか。その理由の一端は、社会政策と家族の変容に求められる。

一九八八年の現行憲法の制定以降、ブラジルでは公的医療制度が整えられ、精神医療の見直しが進められた。治療における地域と家族の役割が重視されるようになった。しかし、新自由主義的な政策は医療への公的予算を削減し、多くの病院を閉鎖もしくは縮小する。薬物治療が中心となり、処方の決定権は家族が握る。このとき、家族は家父長的な男性中心主義を温存したまま、政治的なものの代理人となる。たとえば家族は「非生産的で不適合とされた人たちを、頭がおかしい、言うことを聞かない、治る見込みがないという『合理的』な言葉」で容赦なく切り捨てる場所になる。なぜ彼女は遺棄されたのか。そう問うことはいまやむなしい。なぜなら彼女は女性で、足が悪かったから。夫への抗議は精神的な病の兆候とみなされ、日々増していく足の痛みは無視された。言葉は言葉の機能を剥ぎ取られ、沈黙の底へ沈んでいった。

言葉は受け手がいてはじめて言葉になる。社会との紐帯を断ち切られつつあるひとにとってそのひとの言葉の最後の受け手となるのは家族だ。家族がその役割を放棄してしまえば、言葉は言葉にならない。読後に感じた無力感と虚脱感の正体はこれだろう。巻末に収められた十九巻に及ぶ「辞書」のなかに家族にまつわる単語を見つけるたびに、わたしの胸はつぶれる。自分が生きていることを伝えるためには、かつて自分自身を激しく傷つけ、遺棄したひとにむけて言葉を発しなくてはならないのだ。痛切どころではない。無謀どころではない。そんなことは彼女が一番よくわかっている。しかし、それでもつづけるしかない。なぜなら彼女は人間だから。生きているから。生きていることをこちらに伝えなくてはいけないから。だからわたしは絶望よりも深いこの闇のなかでまだなんとか知覚できるあの鈍い光の跡をもうしばらく追ってみよう。そこには辞書がある。読まれるべき言葉がある。「あなたが生とはどんなものかを知るために、どうしてわたしが死ななくてはならないの」と書き綴った誰よりも人間らしいそのひとがいる。彼女がいる。そう、カタリナがいる。


photo by manfred majer

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