2017/05/02 公開

はじまりは単純な疑問だった

連想で本を読む

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『発光』

坂口 恭平 (著)
出版社:東京書籍
出版年月日:2017/1/30

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小学生の頃、1年中同じ格好をして歩いている女の人と、下校途中によく遭遇した。彼女は地元では有名な人物で、「ちーちゃん」という愛称で呼ばれていた。当時すでに50歳を超えていたらしいちーちゃんには独特な存在感があったから近所の小学生には恐れられていたのだが、私は彼女とすれ違うことを密かな楽しみにしていた。鼻歌を口ずさみ、空をぼーっと眺める様子が印象的だったのだ。その目が不思議な優しさを携えていたことも、よく覚えている。でも、話しかけることはできなかった。

10代の半ばで地元を離れてからは、再びそこで暮らすことはなく、現在に至る。だからちーちゃんがその後どうなったのか、知らない。その後、少しずつ知識を得るようになり、親たちの言動も思い出すなどして、彼女が何かしらの障害を持つ人だったのだと、理解するようになった。時代が時代なだけに、好奇な視線や言葉を浴びせられることも少なくはなかっただろう。彼女に話しかけられなかった私も、その軛から決して自由ではなかったのだが。

当時のことを思い出すと、後ろめたい気持ちになる。それはたぶん、「差別」と呼ばれる感情を自分の身の内に感じた、初めての経験だったからではないか。狭い空間の中の限られた情報によって、無意識の内に「正しいもの」と「正しくないもの」をそれとなく区別し、暮らしの中に身勝手な「常識」を作り出し、それを拠り所に現実をサバイブする。その内側にさえいれば、身を脅かしかねない唐突な悪意も予見でき、悪意が攻撃として自分の方に向けられたとしても、かろうじてかわすことができる、ような気がした。

そんな幼い世間知によって構築された「常識」が、無根拠な偏見によって形作られているのだと気づくには、自分自身が排除されることを体験したり、そうした体験を持つ人と対話を重ねたりして培った様々な経験を自分の内側で発酵させ、しかるべき時にしかるべき言葉として発光させる必要がある。つまり、自分のいる場所以外にも世界はいくつもあるのだと知り、その場所の豊かさを言葉にしていくこと。小学生の頃の私は、その機会を失ってしまった。

世間の常識によって形作られる「現実」とは別の層=レイヤーを見出し、「現実」を絶えず相対化する。そうすることで、世界は決してひとつではないことを、認識しつづける。そのために考えることを決して止めないこと——。

2011年3月11日に東北地方を中心に甚大な被害をもたらした東日本大震災の発生以降、こんなメッセージをツイッターで発信しつづけたのが、写真家として出発し、現代芸術の舞台で頭角を現し、震災以降は「新政府」の初代内閣総理大臣に就任して「独立国家」を運営し、現在は小説家として活動する坂口恭平だ。

一見すると奇妙な経歴を持つ坂口が今年の初めに上梓した『発光』は、震災以降に彼が呟いた膨大な数にのぼるツイートを精査・抜粋し、一冊の書籍としてまとめた本だ。この本によって、私たちは震災後の5年間に坂口が何を考え、実践してきたのか、その痕を辿ることができる。辞書のように分厚いこの本から改めて確認できるのは、互いに矛盾しあうような、広範囲に渡る坂口の多彩な仕事のひとつひとつが、「いのち」に対するある特徴的な態度によって貫かれているということだ。

震災後、坂口は人命ではなく経済活動を優先する政府に絶望して「新政府」を樹立した。しかしそれは既存政府のクーデターを企てるような物々しいものではない。そうではなく、それは既存社会が「なぜこれほどまでに人命を軽視するのか」という疑問から生じた、既存社会とは違った視点・考え方で新しい社会を構想する思想=実践である。だから新政府は「人命救助」を唯一にして最大の目標とする。坂口はそのコンセプトに至るヒントを、建築学科に在籍していた大学時代に、卒業制作のために行ったフィールドワークで出会った路上生活者たちの多様な生き方と考え方に見出した。

日本国憲法第25条に「すべて国民は、健康的で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(第1項)、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければいけない」(第2項)とあるように、生存権が本当に保障されているのなら、路上生活者は本来的には存在しないはずだが、現に存在している。いわば社会における不可視の生活者である彼らは、震災以前から既存社会に絶望し、「いのち」を脅かされていた。言い方を変えれば、彼らは日々「どう生きるか」という根源的な問いに絶えず晒されながら生きる存在でもあったのだ。

そのような路上生活者は、既存社会の常識=匿名化されたレイヤーに従っていては生きていけない。そのレイヤーは彼らの存在を無視しているのだから。だから彼らは独自の視点で社会を眼差し、既存社会が気づかないレイヤーを発見する。たとえば、生存権は河川法に優先される、という発見がそうだ。河川法は、河川敷に住まうことを不法占拠とみなすが、生存権を保障する憲法は河川法よりも上位に位置し、河川法より優先されるから、仮に撤去を促されたところで従う道理はない。

このように匿名的なレイヤーとは別のレイヤーに生きる彼らの場合、その住まいもとてもユニークだ。彼らにとっての生活空間は路上なのだから、LDK型の住まいを構想する必要がない。寝る以外の用途は多くの場合都市空間の中で済まされる。そのため彼らの生活空間の認識は、常識的なそれとは大きく違っている。誤解を恐れずにいえば、それは、魅力的であり、自由でさえある。

路上生活者たちとの出会いと発見から、坂口は、個人が個人のストレートな眼差しによって世界を見つめ、問いを発しつづけさえすれば、現実の匿名化されたレイヤーに絡め取られずに生きていける可能性があることを知る。そこで世界は、無数の魅力的なレイヤーで満ちた空間として立ち上がる。

それゆえ坂口の思想=実践の主要コンセプトである「態度経済」は、独自のレイヤーを持つ個人同士が自分の実現したいことを態度として示し、実現し合う経済として構想される。貨幣を介するモノの交換ではなく、「態度」を介した交易によって成立する経済。だから坂口はツイッターのフォロワーに何が得意なのか、何を実現したいのかを問いつづけた。それが個人の個性であり、才能だとすれば、個性や才能を媒介にして成り立つ態度経済社会において、無視されるべき個人は存在せず、すべての個人の存在は尊重される、はずだから。

一方で、それが、極端な個人主義に陥る可能性、すなわち、個人に重きを置くがゆえに個人の上昇のみを美徳とし、上昇できない(しようがない)個人を敗者として切り捨てる新自由主義的な発想と親和的な側面を持つことも指摘しておく必要はある。しかし、それでもなお、私は、坂口の言葉に抗し難い魅力を感じる。彼の言葉が、生と死のキワで生じているように感じるから——。

平安時代の文学作品においては、赤ん坊が意味をなさない「声」をあげるのも「ものがたり」と呼ばれていたようだ。「ものがたり」という言葉は「話をすること」そのものと不可分であったのだ。僕は今、この意味での「ものがたり」に興味を持っている。ファンタジーでもつくり話でもない物語。(坂口恭平『発光』(東京書籍、2017年)、420−421頁)

はじまりは、この社会において人の命がなぜこれほどまでに軽視されているのか、という単純な疑問だった。たとえばそれは、生存権を保障するこの国でなぜ年間3万人もの自殺者がいるのか、という形をとった。坂口はこの疑問に自ら答えるように言葉を吐き、行動をつづけた。彼が継続的に行ってきた「いのちの電話」は、彼の思想が実践として、実践が思想として絶えず転調する蝶番のような役割を果たしてきたとも言える。坂口は自分に電話をかけてくる自殺志願者にただ、死ぬな、したいことがあればそれを実践し、できたものを自分に見せてくれ、と伝えつづけた。

震災後、坂口が呟きつづけた膨大な数に上るツイートは、挑発的で、支離滅裂で、無意味な言葉の集積のようにも思える。しかし、「いのち」への彼の一貫した態度を目の当たりにするとき、それらの言葉はにわかに色彩を帯び、不思議な光を放ちはじめる。それは私たちに生と死のキワで生きることを考えざるを得なかった「あの時」を思い出せと、つよく訴えかけるだろう。もちろんその声にどう接するかは個人の自由だが、無視するにはそれは、あまりにも重い。

そう、坂口は、排除されることの苦しみを、忘れ去られることの痛みを、ずっと考えてきたのだ。だからこそ、人が生と死のキワで発するつよい光を見出し、その光を生への執着に変えるために、「態度」を示せと、伝えようとしてきた。そこに垣間見える、匿名化されたレイヤーとは違うレイヤーが持つ豊穣さを知っていたから。

坂口が呟き、ツイッターに集積された言葉の群れは、本来、即時的なものだったのかもしれない。だが、それらは5年という時間によって発酵され、発光しはじめた。いずれそれは、私たちの「これから」の、前と後ろ、右と左をぼんやりと照らしながら呼吸しつづける、祈りにも似た「物語」へと変わるのかもしれない。


photo by Nathan Larkin

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川崎祐(かわさき・ゆう)
1985年生まれ。編集者・ライター。
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