2017/03/16 公開

記録を反転させて継承する

連想で本を読む

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『下丸子文化集団とその時代――一九五〇年代サークル文化運動の光芒』

道場 親信 (著)
出版社:みすず書房
出版年月日:2016/10/26

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大学時代に掛け持ちしていたアルバイトのひとつが京浜急行沿線にあり、週に何度か京急に乗る機会に恵まれていた。当時はまだ「工場夜景」という言葉も一般的ではなかったけれど、巨大な倉庫やクレーン、剥き出しの鉄鋼を組み立てて作られた無機質な工場群には迫力があった。埋立地特有の荒涼とした感じや潮風で髪や肌が軋む感覚は、2000年代半ばの東京の個人的な経験として今も身体に染みついている。

もちろんその頃には10年後、同じような場所で半世紀以上前に生きていた若者たちが必死に見ようとした光景を想像することになるとは、思ってもいなかった。1950年代、労働者たちは集い、語らい、詩作し、書いた詩をガリ版刷りで流通させた。時にビラ貼りによって「拡散」させもした彼らの姿に、表現を、生きることを模索する真摯な態度をみとめることができる。

道場親信『下丸子文化集団とその時代』(みすず書房、2016年)が描いたのは、京浜工業地帯の東京側、すなわち品川区、大田区、港区を中心とする「東京南部」に1950年代という特定の時代に勃興した若い労働者による文化サークル運動「下丸子文化集団」の、「書くこと」に対する情熱と実践だ。創作の中心に詩があったのは、詩が、小説や批評とは違い比較的簡単に表現できる形式だったことが大きい。しかし、なぜ、1950年代なのか。

1950年代の日本は、「復興」と「繁栄」という言葉に印象付けられる。1950年に勃発した朝鮮戦争における特需をきっかけに一応の経済的自立を、1952年には念願の、しかし問題含みの「独立」を果たす。他方、米ソ冷戦の激化によって敗戦後にGHQ主導で進められた「民主化」は逆コースを辿り、55年体制の構築後は自民党長期単独政権による保守政治の下、高度経済成長へと突き進んでいく。突き進んだ先の60年後の破局など、知る由もない。

1950年代をこのように概略的に説明するとき、語り落ちる何かがある。それはたとえば、文化サークル活動に代表される市井の人の暮らしと文化だろう。1950年代は本書が中心的に描く東京南部に限らず、全国的に文化サークル運動が盛り上がった時代だ。しかし高度経済成長の到来によって、その時代の終わりにはほとんどが消滅していく。

確かに存在していたはずの、無名の人々の声と眼差し。資本と、資本を動力とするマス・カルチャーが市井の文化運動を飲み込んでしまった、とも言える。放っておけば、歴史の中に泡沫のように消え、存在していたことすら忘れ去られていく。事実、道場と彼の研究仲間たちが注目するまで、下丸子文化集団の活動は、ほとんど顧みられることはなかった。道場の慧眼は、1950年代という時代に下丸子という場所で活動していた文化工作者たちの存在を見出し、彼らの実践があの時代が持ち得た可能性に光を当てたことにある。そこでは1950年代という時代は今とは違う顔を見せ、下丸子という場所はその特異性を垣間見せる。

戦争によって軍事特需が起こるとは、言い方を変えれば、軍事品の輸出によって利益を得るということである。当然のことながら軍事品を製造する工場——軍需工場の存在が不可欠である。下丸子文化集団が生まれた東京南部は、米軍が管轄する軍需工場がひしめく工業地帯であり、特需を生む構造の中でも重要な位置にあった。

なかでも下丸子が特殊だったのは、レッドパージによって職場追放された労働者たちが抵抗運動を行なった三菱下丸子工場があったからだ。すぐ近くには戦闘機が飛び交う羽田空港もあった。つまり1950年代の下丸子という場所には、占領への抵抗と反戦への穿ち、一方で軍需によって利益を得る矛盾が混在する特異な性格があった。戦争特需によって経済的自立を叶えていく姿を1950年代の日本の<ポジ>とするのなら、下丸子という場所の特異性は<ネガ>だと言えるのかもしれない。それらはともに1950年代の日本の姿だが、後者が振り返られることは極端に少ない。

そのような時代に労働者たちが創作を試みたのは、彼らが、書きたいという欲求に衝き動かされていたからだ。その欲求に方向を与え、彼らを集団としてオーガナイズしたのが文化工作者たちだった。特に1951年から1954年に病死するまでの3年間下丸子文化集団を先導した早熟の天才、江島寛の役割は大きい。江島がカリスマ的な先導者として下丸子文化集団を率いた3年の間に企てたのは、書くことによって人々の認識変容を促し、書く人自身の「個」の形成を目指すという、高度にラディカルな「書くこと」の実践だった。

それゆえ下丸子文化集団における創作運動は、市井の人々が自分たちの言葉で思いのままに書く、という素朴な創作論とも、書くことを専門的な営みと捉える「文学」的な創作論とも一線を画している。このような先進的な取り組みは江島の死によって中座してしまうが、創作活動が集団的かつ個人的な営為として捉えられ、日常生活の中で実践された事実の持つ意味は大きい。そこには、無名の人々が表現を通して現実を作り変えようとする意志の塊がある。江島の死後、歴史の表舞台から姿を消したこの運動は、しかし、当時を知る何人かの工作者によって記録され、生かされていた。その記録を掘り起こし、紐解いたのが、道場だった。

下丸子文化集団とは何か——言うなれば本書は、この問いに導かれながら1950年代という「時代」、下丸子という「場所」、文化工作者という「存在」の特異性に魅せられ、この三点が交錯した光景の描写を試みた研究者の思索の痕跡である。道場は、人知れず当時のことを記録しつづけた「工作者」への膨大なインタビューを通して、その記録を継承した。本書の隅々からあの時代を生きた人たちの息づかいが聞こえる気がするのはそのためだろう。だからそれは理想的な意味での「記録」の継承である。しかしその継承の仕方に独特なものを感じるのは私だけだろうか。たとえば、<ネガ>が<ポジ>に反転するような——。

暗室の中で、撮影したフィルムを現像してみる。その時、過度な露光を行うと、過剰に露光された部分は限界値を超えて、反転する。これによってひとつの画像の中に、ポジとネガが同居する不思議なイメージが生まれる。これはソラリゼーションと呼ばれる写真表現技法のひとつだが、道場の思考の跡を追っていると、この技法のことを想起せずにはいられなくなる。

「復興」と「繁栄」の物語とは違う、無名の人々の情熱が息づく1950年代象。大文字の歴史の中に埋没していたフィルムは、かつての若者たちによって反省的に保存されていた。それは、道場という<技工士=アーティスト>の繊細な手を通して<ネガ>が<ポジ>へと反転され、再び、歴史の上に驚くべきイメージとして表現されたのだ。その道場は、本書の刊行後、患っていた病気によって49歳という若さで亡くなった。

だから、この本は、社会運動論を専門とした著者が、文字通り命を懸けて私たちに書き残した遺作でもある。私たちは、道場の手によって反転され、継承された「記録」を受け取る。こうして記録はリレーされ、いくつもの時代を跨いでいくのだ。その時代時代の自由な発想法で「今、ここ」を次の世代に向けて引き継ごうとする精神と、「書くこと」へのあらたな試みによって。


photo by muratama

川崎祐(かわさき・ゆう)
1985年生まれ。編集者・ライター。
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