2016/12/22 公開

「移住者」の眼差し

連想で本を読む

Pocket

漂うままに島に着き

内澤旬子 (著)
出版社:朝日新聞出版
出版年月日:2016/08/19

book1-1

大学院生の頃に専門の勉強の傍らで読んだ本は、普段コツコツ読んでいた専門書よりも記憶に残っているから不思議だ。すぐに思い浮かべることのできる何冊かのそんな本は、それぞれがそれぞれ強烈な個性を持っている。なかでも内澤旬子『世界屠畜紀行』(解放出版社、2007年)は、一見とっつきにくいテーマと書かれていることの「近しさ」のあいだに生じるギャップと、ポップで身軽な文体、頁を彩るどこか可笑しいイラストがあまりに鮮烈だった。

「ルポルタージュ」に分類されるその本の著者の肩書はだから、「イラストルポライター」ということになる。その名に違わず著者は『世界屠畜紀行』の後、乳癌の闘病の日々を綴った講談社エッセイ大賞受賞作『身体のいいなり』(朝日新聞出版、2010年)を筆頭に、家畜用の豚を自ら育て実際に食べるまでの過程を記録した『飼い喰い 三匹の豚とわたし』(岩波書店、2012年)など、優れたルポルタージュを発表する、今、最も注目されるイラストルポライターである。そんな著者が長らく暮らしてきた東京を離れて小豆島に移住した様子を描写したのが本書『漂うままに島に着き』だ。

乳癌のホルモン療養による副作用の影響で「狭い場所や騒音が苦手」となった著者は、大量の蔵書や仕事で描いた原稿やイラストを捨てまくった末に、ついには配偶者までも整理して住み慣れた都内の、それも文京区内で引っ越しを行うが、だからといって東京で一般庶民が暮らす部屋の「狭さ」への不満が消えるわけではない。それに、もう、独身の身。これまでとは違って家賃をパートナーと折半することはできない。上がった賃料を支払うためには、依頼される仕事をどんどん受ける必要がある。だから必然的に原稿ばかりを書く毎日が続く。そんな殺伐とした状況をなんとかできないものかと思案していた折に、長年仕事でお世話になってきたデザイナー夫妻が小豆島に移住することを知り、小豆島への移住を決意する。昔からかなえたいとひそかに願っていた地方への移住を、予定より少し前倒しして実現することにしたのだ。このように本書には小豆島へ移住する前と後で生じる決して思惑通りにはいかない日々の彼是が、この人らしい歯切れのよい文体で綴られている。そして、その歯切れのよさこそ、本書の魅力のひとつである。

その歯切れのよさは、物事を特定の視点から「断定」することで生まれる切れ味の鋭さとは大きく異なるものだ。断定の魅力がその鋭さにあるのだとすれば、本書の持つ歯切れのよさは、「鈍い」とさえ言えるものかもしれない。しかし、断定が見せる時に自分以外の世界を遮断するような冷たく独善的な側面を、この本は持たない。本書がその歯切れのよい鈍さゆえに保っているのは、日常の些事を掬い取る細やかな視線と、自分以外の物事に対するしなやかな態度である。事実、本書の中で著者がかなえていく願望は、「移住」という今後の人生を左右する様な大きなものだけではなく、移住先の小豆島でヤギを飼ったり、住処とする空き家を自分好みになるように少しずつ手を入れていくという、とてもささやかな、一見するとすぐにでもかなえられそうなものばかりだ。しかし、実際に実現するとなると一筋縄ではいかないから大変だ。

そもそも除草目的に飼い始めたヤギのカヨが、草をあんまり食べない。家の周囲の面積が膨大だからカヨが草を食べてくれないと、草が繁茂して、蛇や猪の格好の隠れ場所になってしまう。それなのに食べてくれない。もちろん除草だけがカヨを飼い始めた理由ではないにしても、それにしても食べない。そのため電動草刈り機を購入することさえ著者は検討し始める。見事なまでの本末転倒である。でもこんなことは日常茶飯事だ。漂うままに島に着いてみたら、思い通りにことは進まず、雑事ばかりが増えていく……。そんなままならない日常を著者は丹念に記述するのだが、一方で、その細やかな視線は、自身の願望が無意識にエゴへと変わり、無意識のエゴが自分以外の人やものに悪い影響を与えることに対しても敏感に反応する。たとえば、著者は自宅の水回りに浄化槽が設置されておらず生活排水を海に垂れ流していたという事実もきちんと描写する。

ある日なんとなく集落の中を通る溝に目をやると、蓋の隙間から泡だらけの生活排水が流れてゆくのが見えたのだ。え? ひょっとして、これ、そのまま海に直結してるってこと? ちょっとオーバーだけど、全身の毛が逆立った。ためしに我が家の風呂の栓を抜いて、勝手口から外に出ると、溝に風呂の水がザアザア流れている。洗濯も、お皿などを洗った水も、なんにも通さずに海に直接GOしていた……。うわあああああっ!! 慌てて家に入り、パソコンを開けて海に流しても大丈夫そうな粉せっけんを探して注文した。それまで普通に売られている合成洗剤を使っていたからだ。(本書、206頁)

この距離感なのだ。私がこの本に惹かれるのは。自分と自分以外のものとのあいだにしかるべき距離を保ち、付かず離れずのちょうどいい関係を結んでいく。その距離感を失ってしまいそうになるとき、著者は、自身の行いを「過ち」とみなしてそれを適切に描写する。そんな関係を自分と自分以外のものとのあいだに結べるから、著者は自分のかなえたい願望に素直に従い、時に大胆に行動できるのではないか。かなえた後に生じるままならない日常すら自然に受け入れ、こまごまとした日々の断片を鮮やかに描写できるのではないか。そう、著者は、自分と自分以外のもののあいだを漂いながら、自分を、他人を、世界を、その眼でまっすぐに眼差しているのだ。だからこそ著者の、癌治療に対する淡白な告白とはあまり対照的な「超初期の緑内障」と診断された眼の治療へのつよいこだわりに、思わずハッとさせられる。

細かくは割愛するが、今後ちまちまとできるであろう癌を早期発見しては取り除くという作業を、もうしたくない。できたらできたで、別の対応をしながら、癌で死ぬ方法を探そうと思ったのだ。だからこそ、東京をさっくり離れたとも言える。最新医療とベッタリじゃなくてもいいやと思ったのだ。しかし眼はなあ。
我儘だけど、生きている間は仕事をしたい。書くことも描くことも、できればやめたくない。そのためには、最新医療と、そう簡単には縁が切れないってことらしい。(同、230-231頁)

著者にとって生きる歓びとは、「仕事」をすること、すなわち、ものを書き、描くことなのだという。だから「眼」は、彼女にとって何物にも代えられないものなのだ。その眼によって彼女は小豆島での暮らしの中で日々刻々と変化する無数の些事を眼差すことができるのだから。彼女はこれからも日常の中に垣間見えるものを、彼女らしい歯切れよい文体で書き、鮮やかに描き出すにちがいない。

ところで著者がいま、眼差しているものとは何だろうか? それを知るためには私たちはひとまず著者から次の便りを待つほかない。とはいえ、ひときわ特徴的な彼女の眼が「移住者」の眼であること、そのことは、私たちが生きていくことにとって何か大切なものを示唆しているように私は思うのだ。

定まった住処がなく場所と場所のあいだを漂うことで不安に付き纏われつづけることが移住者の「定め」なのだとすれば、その不安を受け入れ自分と自分以外のもののあいだを漂うことは移住者の「務め」なのだと思うから。自分と自分以外のもののあいだを漂うことで豊饒な世界を垣間見ることができるのなら、それを私は「自由」と呼んでいたいと思うから。漂うままに「私」の外へ出ていき、そこに広がる光景をつぶさに眼差すこと。そんなことを思い巡らしているうちに、私はこの本を、「移住者の文学」のひとつに数え上げたいと、つよく思った。

Pocket

川崎祐(かわさき・ゆう)
1985年生まれ。編集者・ライター。