空白を埋める手立て−−カロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから 証言することと正義について』

連想で本を読む

2020/07/08
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著者:川崎祐

なぜならそれは言葉にできるから 証言することと正義について

カロリン・エムケ(著),浅井晶子(翻訳)
出版社:みすず書房
出版年月日:2019年10月16日

大きな出来事が起こる。その前と後では見える景色が違っている。出来事の前に大切にしていたものやことが後の世界では取るに足らないもののように感じられたりもする。影響をおよぼす範囲が広すぎて、周囲のあちこちでなんとなく共有される気分に乗ずるようにどこからか進化や更新や変化の必要性が威勢良く叫ばれている。適応するひととしないひとを分けて、優劣をつけることが当たり前のようになる。まだできない、とわたしは思う。十分に悼んだり、慈しんだりする時間がもっと必要なはずなのに、いつの間にか「後」だけになった日常がすくなくともこの十何年か延々と続いてきた、ような気がする。何かがない。誰かがいない。もっとも言葉が尽くされるべきはずの場所に奇妙な空白を抱え込んだまま、主語を欠いた言葉の使用圏はみるみるうちに膨れあがっていく。その後もいずれ前に、そう遠くないいつかには変わっているのだろう。言葉の使用期限は著しく短く、後の加速度だけが増す。起こったことは忘れられる。置き去りにされたものが振り返られることは稀だ。

体験には階調がある。どんな出来事も誰にとってもまったく同じようには経験されない。想像を絶する体験をした当事者とそれ以外のひととのあいだにははっきりとした差が生じる。癒しがたい傷−−いわゆるトラウマ−−を負ったひとの語りは筋道がはっきりしない。話が支離滅裂のように感じられることもある。それをもって偶然こちら側にいることのできたわたしたちは、彼/女たちの語ることを合理性に欠けていると評するのかもしれない。証言を信頼に値しないものとみなすのかもしれない。そうしてありえない体験をありえなかったこととして処理するのかもしれない。そのことに慣れきっているのかもしれない。しかし、それは、それほどたしかなことなのだろうか。前と後のあいだは埋めることのできないものなのだろうか。カロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから 証言することと正義について』は、この種の断絶を妥当とすることに与しない。本書において著者は、出来事の当事者たちの、客観性を欠いた主観的で歪な語りを受け止め、語りの聞き手であることこそを静かに引き受けていく。

終わったこととみなされたはずの場所から、ある日突然、言葉が発せられる。それはどこか不思議な形をしている。たとえば一九九〇年代のユーゴスラヴィア内戦において惨い虐待を受けた難民男性は、その体験を語り伝える際に当時買って間もなかった「新しい靴」について話す。あるいは九・一一の被害者はあの日の状況を説明するときに仕事を始める前に淹れたばかりだった「机の上のコーヒー」について語る。「新しい靴」も「机の上のコーヒー」も被害とは直接には関係がない。語りのなかで何度となく繰り返される、時系列からも文脈からも外れた「ずれ」としてのそれらは、語り手にとって致命的な打撃を受ける前の世界の一部をあらわしている。出来事が慣れ親しんだ身の回りの世界を変える。続く現在は耐え難く、到底受け入ることができない。当事者たちは過去における自分の存在を示してくれるものにすがりつく。そうすることでかろうじて自分を成り立たせるのだ。あまりに些細な、見方によっては無意味な、多くの場合見過ごされてしまうこの「ずれ」に、しかし、エムケは全神経を傾ける。

暴力という巨大な力と、権利を奪われた無力感との前には、そんなものは取るに足らないように思われる。だが、「それでも語る」ことの条件に思いを馳せるならば−−生還者にせよ後から生まれた者にせよ、虐待と権利剥奪の体験に対抗するなにかを打ち出そうと思うならば−−こういった「ずれ」による抵抗のなかに、記憶と語りの手がかりと、耳を傾け、質問する手がかりを見出すことだろう。悲しみや恥のあまり言葉を失う者、困難な時代を思い出すことを恐れる者、どこから始めていいのか、言語に絶する体験をどのような言葉で語ればいいのかわからない者−−彼らの助けとなるのは、変わらず傍にあった物やことがらを思い出すことだ。(本書、七二頁)

二〇一〇年一月十三日にハイチで起こった大地震で一三〇万のひとが家を失った首都ポルト−プランスとレオガン間を取材した著者は、見渡す限りの瓦礫の山のなかで「かつて寝室や台所だった場所に、人がぽつぽつと座って、曲がった金属性のなにかをハンマーで修理」する光景を目の当たりにした。その行為が何かの役に立つことはない。大量の瓦礫を片付けるのに必要なのはハンマーではなくショベルカーであり、家の再建や修理はその後に可能になることである。しかし、彼/女たちは、「習慣に固執しなければならない」。たとえ家族が瓦礫の下に埋まっていたとしてもかつて家だったものを修理しなくてはいけない。言葉を絶する体験の後には「自分もなにかをすることができると、少なくとも思い込むことが必要なのだ」。

出来事の前と後のあいだの断絶の、底のほうから声を発する誰かがいる。以後への適応に右往左往するわたしの耳に、ふとした瞬間に入ってくるその声はいかにも意味が判然としない。しかし、果たしてそれは理解不能なものだったのか。いや、そもそも、ずれて、歪で、ときに聞き難い数々の声を、「語りえぬもの」に脳内変換して聞いたつもりで流していたのは、こちら側に体良く移動できると思い込むわたし自身ではなかったか。しっかり耳を澄ませて受け取った言葉の羅列を「ずれ」を手がかりに縫い合わせること。言葉を言葉として機能させて、空白を埋める手立てを拵えること。その手続きを経て、あらためて出来事を語り直すこと。語り落とされ、聞き届けられなかった言葉がある。試されるのはいつもこちら側だ。出来事はまだ、語り残されている。


photo by Clive Varley

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