中断の後に−−須賀敦子『ヴェネツィアの宿』

連想で本を読む

2020/06/04
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著者:川崎祐

ヴェネツィアの宿

須賀敦子 (著)
出版社:文藝春秋
出版年月日:1998年8月

生涯現役でいるつもりなのだろう。そう踏んでいたから、例の感染症対策として一時休業を提案することには躊躇いがあった。感染リスクが決して低くはない歯科医という仕事、七十を越えた年齢、長らく患っている持病。言うことは決まっていた。どんな話をするかは彼も想像していたにちがいない。高校二年生のときの理系から文系への進路変更も、東京の大学に進学することも、すぐには就職せずに大学院に進むことも、父を説得するときの話題はいつも自分のことだった。筋が通ってない。何度そう言われたことだろう。進んでいきたい道はわかっているのに気持ちだけが前のめりで、生きていくための指針を十分に持ち合わせていない末の息子のぐらつきがちな足元を見据えながら、でも、最後には折れてくれた。それから十年たって、説得の内容は彼自身のことに変わった。それなりに激しい言葉の応酬はあったけれど、最後に折れてくれることは変わっていなかった。三十年続けた仕事をこれからも続けていくための中断、という留保つきで。

父と子の、正確には父と娘の物語を縦糸に自身の半生を素材にした小説のようなエッセイが、よく見かける私小説のように息苦しくないのはなぜだろう。須賀敦子の書いた『ヴェネツィアの宿』をはじめて読んだのはたしか十何年か前の大学生の頃のこと、進路の選択や家族との関係をまるでこの世の終わりみたいに深刻ぶってぐずぐず思い悩んでいた時期だったと思う。「女が女らしさや人格を犠牲にしないで学問をつづけていくためには、あるいは結婚だけを目標にしないで社会で生きていくためには、一体どうすればいいのか」。一九二九年に生まれ、成長期と思春期を戦争に染められて、戦後、女性の多くが結婚して嫁ぐことが当たり前だった時代に親の反対を押し切って大学、大学院へと進学、フランス留学を経て、十四年暮らしたイタリアで出会った夫、ペッピーノとの死別を経験、その後の人生を文学と信仰、翻訳と括弧付きの創作に捧げて六九歳で逝ってしまった須賀敦子の人生は、概略として見るだけでも十分に重い。回想を主な形式とする『ヴェネツィアの宿』ではその重さが美しい言葉の敷石のなかに混ぜ入れられ、語りのあちこちに巧みに散りばめられた躓きの石として読む者に不意打ちのおどろきを与えてくれる。時にペーソスではなく軽妙が、ひとの生き死にを物語るためには必要である、と知り抜いていたひとこその筆致だろう。

冒頭に収められた表題作の語りの現在は、ヴェネツィアにある。アドリア海に浮かぶこの島に「東洋の国々における現代イタリア文学の受容」というシンポジウムのために訪れた「私」が泊まった宿は、その日創立二〇〇年記念を祝うガラ・コンサートが行われるフェニーチェ劇場の広場に面していた。疲れた体をベッドに潜り込ませた半眠半覚の「私」の耳に開けっ放しにした窓からアリアと聴衆の歓声が聞こえてくる。夢現に鳴り響く音楽のなかで、四十年近く前のパリで聴いた演奏会を思い出すことを契機に、時間の軛から自由になった記憶が互い違いに語られていく。パリの演奏会の興奮を父に手紙で書き伝えたこと、「すこしはしゃぎすぎてるように思う」と書かれた返信に「かなしかった」と感じたこと、かなしみが誘発する「贅沢三昧で遊びほうけていた」欧州旅行を三十代で経験した父に反発を覚えたこと、その父がふたつの家庭を持っていたこと。語られる記憶の乱模様は、格式高い商家として盤石であったはずの「私」の家が、どことなく揺らぎを含んだ場所であることを伝えている。

揺らぎは、『ヴェネツィアの宿』の全編に通底している。いいものを見たり聴いたりすることを勧める修道女への「どうすれば、この本は深いとか深くないとかわかるようになるのですか」という問いかけが孕ませるもどかしさ(「寄宿学校」)、フィレンツェで偶然再会した旧友のカロラが、「私」がかつてよく遊び相手をした愛娘キアラの死を不意に告げる瞬間にゆがませるくちもと(「レーニ街の家」)、「私たちがそれぞれ抱えていた過去の悲しみをいっしょに担うことになれば、それまでどちらにとっても心細かった人生を変えられるはず」だったペッピーノの早すぎる死(「アスフォルデの野をわたって」)。たしかに続くはずだと信じたことや、自分の足でしっかり歩くために戻ったり立ち寄ったりできる場所は、どうしてこんなにも脆く、壊れやすいかものなのか。ひとが生きることに纏わりついて放すことをやめない不安定な揺らぎの、このどうしようもなさは、しかし、須賀敦子そのひとの姿と仕事を鮮やかに照らし出しもするだろう。

ここにある西洋の過去にもつながらず、故国の現在にも受け入れられていない自分は、いったい、どこを目指して歩けばよいのか。ふたつの国、ふたつの言葉の谷間にはさまってもがいていたあのころは、どこを向いても厚い壁ばかりのようで、ただ、からだをちぢこませて、時の過ぎるのを待つことしかできなかった。とうとうここまで歩いてきた。ふと、そんな言葉が自分のなかに生まれ、私はあのアヴィニョンの噴水のほとりから、ヴェネツィアの広場までのはてしなく長い道を、ほこりにまみれて歩きつづけたジプシーのような自分のすがたが見えたように思った。(一五頁)

ずっと「ふたつ」のあいだで踏み迷いながら歩いてきた。日本語を外国語に、外国語を日本語に移しかえる仕事の持続のなかで、ある時点から揺れのある場所に自ら進んで留まり続けた須賀敦子が残してくれた数々の散文には、イタリアに渡った最初の頃にお世話になった学生寮の院長であるマリ・ノエルさんとの議論の際に口にしたときから変わらない「私たちは、まず個人主義を見極めるところから歩き出さないと、なにも始めたことにならないんです」という一途で、頑固で、逞しい覚悟が息づいている。あいだに身を置かなければ見えないことがある。物事の善し悪しが反射的に判断されるどころか、白が黒に、黒が白に平気で変えられてしまう時代に、この揺らぎは積極的な意思を持たなければ引き受けることのできないものだろう。だからわたしは、最晩年の彼女が最後の仕事として選んで書き進めたエッセイではなく小説がはじまりのまま終わってしまったことにいまだ一抹のかなしみを覚える。しかし、あいだの精神の持ち主はいつかきっとあらわれるはずだ。その誰かによって、ひとの、場所の、言葉の揺れがまなざされるなら、志なかばで中断された仕事の再開を願うことも、決して叶えられない祈りではない。


photo by Michael Whyte

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