2016/11/14 公開

あたらしい組織、熱狂、そして熟慮。

連想で本を読む

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エコ・テロリズム 過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ

浜野 喬士 (著)
出版社:洋泉社
発売日:2009/03/06

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浜野喬士『エコ・テロリズム 過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ』(洋泉社、2009年)は、目的遂行のためには暴力行為も辞さないラディカルな環境運動に潜むある種の「狂気」を「わからないもの」として退けるのではなく、論理的に説明可能なものとして扱おうとした優れて哲学的な本だ。著者の浜野はエマニュエル・カントを専門とするドイツ近現代哲学の研究者である。

この本のテーマであるエコ・テロリズムとは、環境に害を与える企業・団体・政府組織に対して破壊活動を行うことを言う。そしてエコ・テロリストとは、そのような活動をする環境保護団体のことである。有名なところでは動物活動戦線や地球活動戦線などがあり、欧米の先進国で活動していることが多い。

細胞が集まったようなあたらしい組織

浜野によれば、エコ・テロリストは、明確な意思を持ってリクルート活動を行う中央集権型の組織というより、そのような意思を持たずに個人個人が自由意志によってゆるやかにつながり合う細胞の寄せ集まりの様な組織のことである。そのため、攻撃への耐性がとてもつよい。確固たる指令系統を持つ中央があれば致命的な一撃でもって組織を瓦解させることできるかもしれないが、そうでない細胞型組織はひとつの細胞を潰したところで別の細胞は生き残り、場合によっては増殖するからだ。

これは9.11後のアメリカを盟主とする「テロとの戦い」がいつになっても終わらないことを思い出す方がわかりやすい。テロの根絶を目指したはずがむしろ増殖させたのではないかと思わせるほど、その「戦い」は泥沼化している。理由のひとつとして考えられるのは、細胞型組織であるテロリスト集団は、その動きを把握することが難しい、従来の中央集権型組織と明確に異なった「あたらしい組織」であるということだ。もちろん、倫理的な抵抗感や嫌悪感を脇に置いてしまえば、の話ではあるけれど。

とはいえこう説明してみても、エコ・テロリズムについてピンとくる人は少ないかもしれない。では、シーシェパードと言われればどうだろうか? 一時期日本の捕鯨船を攻撃する様子がテレビで頻繁に報道されていた凶暴なアレである。実は彼らも著名なエコ・テロリストのひとつである。彼らの活動を見て、鯨の保護活動がなぜあれほど暴力的に行われなければいけないのか疑問に思った人もたくさんいただろう。環境保護や動物愛護といった言葉が想起させるイメージと彼らの暴力的な活動が結びつかないのがその原因のひとつかもしれない。だからこそエコ・テロリズムは、「わけのわからない狂気染みた集団による活動」として私たちの「常識」の外側で処理されがちなのだ。その理由に彼らのとらえがたい組織の形を上げることもできるが、それだけでは十分ではない。そこで浜野は、彼らが私たちの「常識的な考え方」の中から生まれてきたという歴史を丹念に追う。その際にキーワードとなるのが、「市民的不服従」だ。

市民的不服従とアメリカの「神話」

エコ・テロリズムは、ヘンリー・デイヴィッド・ソローが唱え、マハトマ・ガンディーによるインド独立運動、そしてマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの公民権運動へとつながる「市民的不服従」の伝統に属するものだが、しかし、エコ・テロリズムもそうだと述べることに、実際のところつよい違和感を拭えない。なぜなら、議会制民主主義への不信から生まれ、議会の「外」での直接行動主義を特徴とする市民的不服従は、「非暴力」をその条件とするからだ。市民的不服従は自らの権利のために時に法を踏み越えることを厭わないが、決して暴力や破壊行動に訴えることはない。しかし、エコ・テロリストはやすやすと暴力に訴えている。むしろそれを奨励しているようにさえ見える。そのような明らかな矛盾を抱えてもなぜ彼らは自らの主張の正統性を担保できるのだろうか?

彼らは自らの正統性を主張するために、現行法ではない、より上位の法や概念に訴えるのである。その場合、エコ・テロリズムはアメリカの建国神話とさえ深く結びつく。たとえば、市民的不服従を唱えたソローは、『ジョン・ブラウン大尉を擁護して』(1859)の中で奴隷解放を目指してハーパーズ・フェリーの武器庫を襲って絞首刑に処せられたジョン・ブラウンを擁護し、かつ、アメリカ独立戦争が開始された場所コンコードと激戦地であったレキシントンに言及しているが、浜野はこの点に関してアメリカの建国史と暴力の関係を指摘したうえで、次のように述べる。

ここでわれわれが押さえておかねばならないのは、「アメリカ」という文脈においては、エコ・テロリストと呼ばれるラディカル環境活動家、動物解放運動家たちが、自らの暴力を、建国の神話、あるいは国家の歴史に引き付けて理解しようとしているということである。地球解放戦線スポークスマン、ローズブローは、何度か見てきた公聴会の証言を、トマス・ジェファソンの引用で始める。(……)暴力が、不正に対する「抵抗権」という色彩を帯びるとき、エコ・テロリストたちの自己認識は、建国の始祖たちとその歴史に観念的に直結する。(本書、180頁)

市民的不服従の伝統にも現行法にもそぐわない彼らの暴力は、「建国の神話」というより上位にある概念によって免罪される。免罪どころか、自分たちの暴力が由緒正しい「抵抗権」のひとつとして観念的に理解される。彼らをそのように認識すれば、得体の知れなかったエコ・テロリズムは論理的に説明可能なものとなる。すなわち、エコ・テロリズムとは、近代的価値観が生んだ優れた伝統とともに「建国の神話」という「物語」も起源とする、私たちの内側から生じた、あたらしい組織による「暴力」のことだったのだ。

熱狂と熟慮

ではそのような「暴力」に私たちはどのように対応すべきなのだろうか? そのことに浜野は明確には答えていないが、彼が本書の後半で指摘していることを示唆的に読み取り、踏み込んだ解釈をすれば、暗示している、と言うことはできる。

浜野によれば、リベラリズムは、自身の内部から生まれ出た「暴力」に対応することを不特手とする。もし対応するのであれば、その対応はリベラリズムの原理である自由、穏健、理性、非暴力を制限する形でしか行われない。つまり、それは「自身の原理を逸脱するかたちでしか果たされ得ない」(同、211頁、傍点原文、太字引用者)。テロという脅威との戦いが、私たちの自由を著しく制限し、かつ、それが大義名分化し、そして、熱狂しつつある現在を振り返ってみればいい。

あたらしい組織が生まれ、際限ない暴力と恐怖が生み出され続ける。それは、目的の暴力による達成を自明のものとし、その暴力への対応は私たち自身の自由を制限するが、その対応によって暴力は減ることはなく、むしろ増殖する。そうした困難な状況を認識しながら浜野は、自らが熱狂に陥ることを周到に避け、得体の知れないものをしつこく理解しようとし、実際に理解に達する。その手続きはきわめて哲学的な熟慮に根差したものだ。そこで熟慮は、得体の知れないものの正体を暴き、恐怖を軽減する。もちろん熟慮それ自体が暴力への対応策になるわけではない。しかし、得体の知れないものを理解不可能なものとして扱っていても生まれ出るのは恐怖でしかない。恐怖はさらなる暴力と制限を生む。熟慮は、特効薬にはならないが、処方箋にはなるのだ。私たちは、熟慮という方法を手放すべきではない。

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川崎祐(かわさき・ゆう)
1985年生まれ。編集者・ライター。
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